第4話 離れる心
放課後、美術室に足を踏み入れると、いつもと変わらない静けさが広がっていた。薄暗い照明の下、机に並ぶスケッチブックや画材が静かに僕を待っている。いつもなら、この場所に座るだけで心が落ち着き、鉛筆が自然と動き出す。
しかし、今日は違った。
席に座り、スケッチブックを広げたものの、何も描けない。鉛筆を握った手が動かないどころか、紙の白さがやけに目に刺さるように感じられた。
「……なんでだよ。」
小さく呟いてみても、答えが出るわけではなかった。頭の中に浮かぶのは、美術室以外のことばかりだ。
何度も浮かぶのは、数日前に見た斉藤君と早川先輩の光景だ。
窓際で二人が並んで話していたあの姿。斉藤君が何かを言って、早川先輩が微笑みながら頷くその瞬間が、まるで焼き付いたかのように僕の脳裏から離れない。
「なんで……。」
いつも落ち着いて、優雅に微笑む先輩が、あの時はどこか無邪気に見えた。それが、僕にはどうしようもなく引っかかっていた。
斉藤君は、何も努力をしていないように見える。それなのに、あっという間に早川先輩との距離を縮めてしまった。僕がどれだけ先輩を見ていても手の届かない場所にいるのに、彼は自然にその壁を越えていく。
「……何もできないまま、置いて行かれる。」
胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚が広がる。
気を取り直そうと、目の前のスケッチブックに目を向ける。描こうとしていたのは、光と影の対比をテーマにしたものだったはずだ。
「よし……まずは、ラフから。」
自分に言い聞かせて鉛筆を動かす。だけど、その線は紙の上にただの「跡」を残すだけだった。頭の中にあるはずのイメージが、どうしても形にならない。
「なんでこんなに集中できないんだよ……。」
苛立ちが込み上げてきた。何度描き直しても、描くたびに違和感が積み重なる。スケッチブックに残るのは、バラバラに引かれた不格好な線だけだった。
「……ダメだ。」
鉛筆を置き、机に顔を伏せる。美術室の静けさが、逆に心に重くのしかかる。
斉藤君が転校してくるまで、僕の世界はもっとシンプルだった。美術室で絵を描き、早川先輩を遠くから見つめて、少しずつでも自分なりに前に進んでいる気がしていた。
でも、今は違う。斉藤君の存在が、この美術室の空気を変えてしまった気がする。
「あいつ、何なんだよ。」
苛立ちを抑えられず、小さく呟く。誰に聞かせるわけでもないその言葉が、美術室の静寂に溶けていく。
先輩が斉藤君にどんな感情を抱いているのか、それを考えるだけで胸が苦しくなる。
再びスケッチブックに目を向けたけれど、真っ白な紙が僕を拒絶しているように見えた。まるで、自分が描く資格なんてないと言われているようだった。
「何やってんだ、俺……。」
自嘲気味に呟きながら鉛筆を握る手に力を込める。しかし、その手がまたもや紙の上で止まる。
胸の奥に広がる空虚感。それはまるで、美術室そのものが僕を拒絶しているかのようだった。
「……本当に、どうすればいいんだろう。」
「風間君、大丈夫?」
耳に届いた声は、いつもより少し優しい響きがあった。思わず顔を上げると、早川先輩が僕の隣に立っていた。彼女の顔は、まるで僕の内面を見透かしているかのように心配そうな表情を浮かべている。
「先輩……あ、すみません。」
慌てて姿勢を正しながら言い訳を考えたけれど、うまく言葉が出てこない。
「なんだか元気がないみたいだけど、どうかしたの?」
先輩は、僕が置いていたスケッチブックに視線を落とす。そこには、途中で止まった乱雑な線がいくつも引かれていた。
「描いてる途中……ってわけでもなさそうだね。」
そう言って、先輩は僕のスケッチブックを少し覗き込む。その声には、どこか柔らかな優しさが滲んでいて、それが逆に胸を締め付ける。
先輩は、僕の隣に腰を下ろした。机に肘をついて、僕のスケッチブックをもう一度覗き込む。
「最近、調子悪いの?」
顔を近づけて覗き込むその姿勢に、思わず鼓動が跳ねた。近い――普段は遠くから見ているだけの存在が、こんなにも近くにいる。それだけで、言葉が詰まる。
「そ、そんなことないです!」
咄嗟に否定するけれど、声が上ずっていた。先輩は微かに笑いながら首を傾げた。
「本当に?顔、すごく赤くなってるけど。」
「えっ?」
言われて気づき、慌てて視線を逸らす。顔が熱くなるのがわかった。
先輩はそのまま僕を見つめていた。何か言おうと口を開きかけては閉じる僕を、まるで待つかのように。
「何かあったんじゃない?風間君が、こんなに集中できないなんて珍しいし。」
その声は優しく、けれど少しだけ押し付けるような強さもあった。普段の柔らかな先輩とは少し違って、僕をしっかりと見つめる瞳がそこにあった。
「……大丈夫です。本当に、何でもないです。」
嘘だった。けれど、どうしても本当のことを言えなかった。
先輩は少しだけ眉を寄せたが、それ以上追及することはしなかった。ただ、軽く溜息をつきながら微笑んだ。
「そっか。でも、無理はしないでね。何かあったら、ちゃんと言ってよ?」
「はい……ありがとうございます。」
僕が小さく頷くと、先輩はそれで満足したようにスケッチブックから目を離した。
先輩の視線が離れた瞬間、僕はようやく息を吐き出した。けれど、その胸の奥には何か説明のつかないもどかしさが残った。
「先輩は、僕のことを気にしてくれてる。でも、それは……。」
心の中で続ける言葉が浮かばない。先輩の優しさが嬉しい反面、それが単なる後輩としてのものだとわかっているからだろうか。
「……もっと話したい。」
けれど、その思いを伝える勇気はどうしても出せなかった。
先輩が隣に腰を下ろしてから、僕の心臓はずっと鳴りっぱなしだった。距離が近い。視線が合うたびに目をそらし、言葉を探すたびに頭の中が真っ白になる。
スケッチブックを見つめているふりをしながらも、隣にいる先輩の気配ばかりが気になって仕方がなかった。
「風間君、本当に大丈夫?」
また先輩が声をかけてくれる。その声はいつも通り優しくて、だけどどこか心配そうだった。
「……本当に、大丈夫です。」
そう答えながらも、心の中では何度も迷いが渦巻いていた。先輩に何かを伝えたい――でも、何を言えばいいのか、その言葉が見つからない。
「このままでいいのか?」
そんな問いが自分の中に浮かび上がる。
先輩と話せる時間は限られている。斉藤君のように先輩と自然に話す自信なんて僕にはない。それでも、今ここで何かをしなければ、ずっと後悔するような気がしていた。
「……先輩に、この気持ちを伝えたい。」
だけど、伝えられる言葉を僕はまだ持っていない。それでも、せめて――。
一度深く息を吸い込む。胸の奥で高鳴る鼓動を押さえつけながら、声を絞り出すように言った。
「先輩……。」
「ん?」
先輩が首を傾げて僕を見つめる。その仕草はいつもと同じ優しさに満ちていたけれど、僕にはそれがとても遠いものに感じられた。
「先輩って……好きな人とか、いますか?」
その瞬間、時間が止まったような気がした。自分でも驚くほどストレートな言葉が口をついて出た。
「えっ?」
先輩の目が一瞬見開かれる。彼女の頬が、ほんのりと赤く染まるのが見えた。
「あ、いや……ごめんなさい!変なこと聞いちゃって!」
慌てて謝る僕に、先輩は少し困ったように微笑んだ。
「ううん、大丈夫。でも、急にどうしたの?」
「えっと、その……なんとなく、です。」
先輩の視線に耐えられず、僕は視線をスケッチブックに落とした。
先輩は少し考え込むように目を伏せ、それから軽く笑った。
「好きな人、かぁ……今はいないかな?」
その答えを聞いた瞬間、僕はほっとしたような気持ちと、なぜか少し寂しい気持ちが入り混じるのを感じた。
「そっか……。」
自分でも抑えられないくらいの安堵感が胸に広がる。だけど、その奥にある「もっと自分を見てほしい」という思いが、どこか切なさを残していた。
先輩は、僕の表情を見て不思議そうに首を傾げた。
「でも、どうしてそんなこと聞くの?」
その問いに、僕は一瞬言葉を失った。何か答えなくちゃと思うけれど、頭の中が真っ白になってしまう。
「あ、それは……。」
口を開きかけたその瞬間、先輩のスマホが鳴り響いた。
「ごめんね、ちょっと出るね。」
先輩がスマホを取り出し、画面をちらっと確認すると、口元にふわりと笑みが浮かんだ。その笑顔は、普段の柔らかい雰囲気と少し違い、どこか嬉しさが混じっているように見えた。
僕は無意識にスケッチブックを閉じ、先輩の様子をじっと見つめていた。
「もしもし……うん、今、美術室にいるよ。」
先輩の声は穏やかで、少しだけ弾んでいるようだった。その様子に、胸の奥が締め付けられるような感覚が広がる。
先輩は少し美術室の隅に移動し、椅子に腰を下ろしながら話を続けている。相手の声が漏れ聞こえるわけではないが、抑えた低音のような響きから、相手が男性であることが何となくわかった。
「そうそう、あの時の話だけど……うん、すごく楽しかった。」
「楽しかった?」
その言葉に、心がざわついた。誰と何を話しているのか、全く想像がつかない。けれど、その笑顔と楽しそうな声の調子が、僕の胸に不安を呼び起こす。
先輩はスマホを握る手を少し動かしながら、微笑みを浮かべ続けている。その仕草すら、僕には何か特別なものに見えてしまった。
「え?それ、本当?すごいね……。」
先輩は時折、声を小さく弾ませながら相手の言葉に応じている。そのたびに、僕の中で何かが静かに崩れていくような気がした。
「また今度ゆっくり話そうね。楽しみにしてるから。」
その一言が、まるで美術室全体の空気を変えたように感じた。
「また今度……?」
思わず鉛筆を握りしめる手に力が入る。先輩がこんなに楽しそうに電話をする相手が誰なのか、それを考えるだけで胸が苦しくなる。
数分後、先輩は電話を切った。スマホを軽く指で撫でながら、少し考え込むように窓の外を見つめている。その表情には、どこか余韻が残っているように見えた。
「風間君、お待たせ。」
そう言いながら、先輩は僕の方に戻ってきた。その顔は、ついさっきまでの電話の内容を思い出しているのか、ほんのりと柔らかい笑顔を浮かべている。
「そういえばさ、転校生の斉藤君、すごく面白い人だよね。」
先輩のその一言が、まるで美術室の静けさに石を投げ込んだようだった。
「……え?」
不意を突かれた僕は、先輩を見上げた。
「斉藤君と話したんですか?」
「うん、何日か前に話しかけられてね。それで、いろいろ話してたら、連絡先も交換しちゃった。」
「連絡先……?」
その言葉が耳に届いた瞬間、胸の奥が一気に冷たくなった。
「さっきの電話も斉藤君だったんだよ。なんか、また遊ぼうって誘われちゃってさ。」
先輩はその言葉を楽しそうに話しながら、机の上の荷物をまとめ始める。
「……遊ぶんですか?」
僕はようやく絞り出すように声を出した。その声が震えていないか、自分でも確信が持てない。
「うん、せっかくだから行こうと思ってる。」
先輩の声は明るく、何の迷いもなかった。
その一方で、僕の中では何かが崩れていく感覚があった。
斉藤君が早川先輩と話した?連絡先まで交換した?僕が知らないところで?
頭の中でその事実を反芻するたび、胸の奥で小さな棘が刺さるような痛みが広がっていく。数日前に見た、斉藤君が早川先輩と親しげに話していた光景がフラッシュバックする。
「……どうして、斉藤君が先輩とそんなに親しいんだ。」
僕は何も知らなかった。斉藤君が美術室に来たことも、先輩と話していたことも、連絡先を交換していたことも――すべて知らなかった。
「……数日で、こんなにも差がついてるなんて。」
心の中で呟く。斉藤君の行動の早さと、いつの間にか広げられたその差が、僕を焦らせた。
「風間君も一緒にどう?」
先輩は軽い調子で僕を誘った。だけど、その言葉に応じることはできなかった。胸の中に広がるモヤモヤが、それを押し留めた。
「……いえ、僕は遠慮しておきます。」
「そっか、じゃあまたね。」
先輩は少し残念そうな表情を浮かべたが、それ以上何も言わず、荷物を肩に掛けた。その動作一つ一つが、どこか斉藤君との時間への期待感を含んでいるように思えた。
「戸締り、よろしくね。」
そう言って先輩は、美術室のドアに向かった。その背中は軽やかで、何か新しいことを楽しみにしているようだった。
「あ……。」
僕は思わず手を伸ばした。連絡先を聞きたいと思ったけれど、言葉は喉元で詰まり、声にはならなかった。
先輩の姿がドアの向こうに消えていく。その瞬間、美術室の中に静寂が戻る。
斉藤君が、僕の知らないところで、先輩の世界に入り込んでいた。それが分かった瞬間から、胸の中のモヤモヤは静かな焦りに変わっていた。
「どうして……俺は、何も知らなかったんだろう。」
斉藤君の存在感が、急速に僕の周りの人間関係を変えていく。そんな不安と、焦燥感が僕を支配していた。
「……斉藤君、一体何を考えているんだ。」
その問いの答えが見つからないまま、僕は美術室にただ一人、取り残されていた。
先輩が去った後、美術室には静寂だけが残った。わずかに響く時計の針の音が、やけに耳につく。夕日の光が窓から差し込み、机や画材に細長い影を落としている。
僕は机に座ったまま、じっとスケッチブックを見つめていた。手元には、ほとんど何も描けていない紙があるだけだ。
「……なんでだよ。」
誰に言うでもなく、呟きが漏れる。
美術室は、いつも僕が心を落ち着けられる場所だった。描きたいものがなくても、ただここにいるだけで満たされる感覚があった。
だけど、今は違う。
先輩が去っていった後のこの空間は、ただ静かで冷たく、僕を拒絶しているようだった。スケッチブックに目を向けると、その白い紙がやけにまぶしく見えた。
「……描けない。」
手にした鉛筆が重い。紙に触れる気力すら湧いてこない。
少しだけ顔を上げて、周囲を見渡す。いつもなら賑やかな声や、部員たちが机に向かう姿があるはずの美術室は、今は僕一人きりだった。
椅子の位置が少し乱れている。画材が無造作に置かれている。その些細な乱れさえ、どこか虚しいものに思えた。
「……先輩。」
名前を口にしてみた。だけど、その声は虚しく美術室の静寂に吸い込まれるだけだった。
先輩の姿が、まぶたの裏に焼き付いている。楽しそうに電話をしていた顔、斉藤君の名前を口にして笑っていた表情。その一つ一つが、胸の奥に鈍い痛みを残している。
「斉藤君……。」
その名前を口にするたび、言葉にならない感情が込み上げてくる。
「どうして……。」
自分がどうしてこんな気持ちになるのか、自分でもわからなかった。ただ、先輩の背中が遠ざかっていく光景が何度も頭をよぎる。
窓の外を見ると、空は夕焼けで赤く染まっていた。オレンジ色の光が美術室を照らし、机や画材に柔らかな陰影を作り出している。
だけど、その美しささえも、僕にはどこか遠い世界のことのように感じられた。
「……俺は、何をやってるんだ。」
鉛筆を置き、椅子に背を預ける。スケッチブックを開いても、描きたいものが浮かばない。この空虚な気持ちは、何をしても埋まらないような気がした。
「一人だ……。」
呟いたその言葉が、自分の胸に突き刺さるようだった。周りの空気が静かすぎて、時計の針の音さえも重く感じられる。
「こんな気持ちになるなんて……。」
先輩や斉藤君に向けるべき言葉が浮かばない。ただ、自分の無力さだけが静かに広がっていくのを感じた。
美術室は相変わらず静かだったけれど、その静寂はどこか冷たく、僕を締め付けるようだった。
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