第3話 揺れる心

 春の午後、教室には穏やかな光が差し込んでいた。斎藤君が転校してきてから数日が経ち、彼はすっかりクラスの中心的な存在になっていた。彼の周りにはいつも人が集まり、話題の中心にいることが自然なようだった。


 昼休みの終わり頃、僕が次の授業の準備をしていると、斎藤君がふと声をかけてきた。


「風間君、ちょっといい?」


「あ、うん。何?」


 彼の声は落ち着いていて、その穏やかな笑顔は何となく断れない雰囲気を持っていた。


「まだ校内のこと、よくわからなくてさ。もし時間があれば案内してほしいんだけど。」


「えっと、別にいいけど……。」


 返事をしようとした時、隣で話を聞いていた真白が割って入ってきた。


「斎藤君、校内案内なら私がやってもいいよ?」


 真白の声はいつもより少し弾んでいた。斎藤君と話す時の彼女は、僕に見せる無防備な表情とは少し違う。


 斎藤君は軽く微笑みながら、少しだけ首を傾げた。


「ありがとう。でも、せっかくだから風間君にお願いしようかな。」


 その一言で、真白は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに「じゃあお願いね」と僕に微笑みかけて、立ち去った。


 彼女の後ろ姿を見送りながら、胸の中に小さな違和感が広がる。僕は何となく、言いようのない不安を抱えながら斎藤君と一緒に教室を出た。






 廊下に出ると、校舎の中は午後の静けさに包まれていた。僕たちは並んで歩きながら、まずは図書室へ向かった。


「ここが図書室。放課後は結構静かで、勉強してる人も多いんだ。」


「へえ、雰囲気がいいね。そういう場所、嫌いじゃないよ。」


 斎藤君は短く相槌を打つだけで、それ以上深く話を広げることはなかった。その落ち着いた態度が、逆に僕を焦らせる。


「あと、この先に理科室があって、たまに実験があったりするんだ。理科、好き?」


「理科か……まあ、嫌いじゃないかな。」


 またしても短い返答。僕は少し困った気持ちになりながら、別の話題を探して言葉を繋いだ。


「こっちは体育館で、放課後は部活で賑やかだよ。斎藤君、運動得意そうだけど、部活とか興味ある?」


「うーん、どうかな。まだ考え中。」


 彼の反応はどれも控えめで、どこかつかみどころがない。会話が途切れるたびに、僕の中に「どうすればこの場を保てるだろう」という焦りが募っていく。


「この人と何を話せばいいんだろう。」


 内心でそう思いながら、次の場所へ向かう足取りが少しずつ重くなる。






 廊下を歩く二人の間に、ぽっかりと沈黙が生まれる。斎藤君は歩きながら、廊下の窓越しに外を眺めたり、教室の中をちらりと覗いたりしている。


 その仕草は一見何気ないけれど、僕にはどこか目的があるようにも見えた。けれど、彼が何を考えているのかは全くわからない。


 僕はとにかく気まずさを埋めようと、また口を開いた。


「えっと……斎藤君って、東京から来たんだっけ?そっちの学校と比べて、どう?」


「うん、だいぶ違うね。ここは穏やかで、のんびりしてる。」


「そうなんだ。まあ、田舎だからね。」


 斎藤君の返事は相変わらず短いけど、その声には不思議と嫌味がなかった。それでも、会話が長続きしないことに、僕はますます困惑していた。






 校舎の端に差し掛かったところで、斎藤君がふと立ち止まった。


「風間君、ありがとう。これでだいたい分かったよ。」


「ああ、そうなら良かった。」


 僕が答えた瞬間、彼が少しだけ間を置いてこちらを見た。その瞳には、じっとこちらを見透かすような鋭さが宿っていた。


「ところでさ、風間君。」


「うん?」


「君って、美術部なんだよね。」


「ああ、そうだけど。」


「美術部の先輩、早川さんだっけ。君、あの先輩のこと、好きなんじゃない?」


 その言葉は、まるで小石を投げ入れた湖面が一気に波立つような衝撃だった。


「え……なんでそんなこと……。」


 僕は動揺を隠せず、声が上ずった。心の奥にしまい込んでいたはずの想いを、突然暴かれたようで言葉が出ない。


 斎藤君はその様子を見て、少しだけ微笑んだ。


「ただの勘だよ。でも、君が彼女のことを話してる時の顔が少し違うからさ。」


 その一言が僕の胸に鋭く突き刺さった。


「……別に、そんなことないと思うけど。」


 必死に否定しようとしたけど、声には自信がなかった。斎藤君はそれ以上追及することなく、軽く肩をすくめて歩き出した。


「まあ、早川さんって魅力的だからね。君がそう思っても全然不思議じゃないよ。」


 彼の言葉が何気ないものに聞こえる一方で、僕の心の中ではその余韻がいつまでも残り続けた。





 校内案内を終え、教室に戻った僕は席に着くとほっと一息ついた。斉藤君との会話は終始ぎこちなく、気疲れした感覚だけが残っていた。けれど、それよりも頭の中を離れないのは、彼が途中で言った「早川先輩が好きなんじゃない?」という言葉だった。


「なんでそんなことを……。」


 自分の気持ちを無理やり考えないようにしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると、教室の後ろで誰かが笑う声が聞こえた。


 振り向くと、そこには斉藤君と早川先輩が立っていた。



 二人は並んで立ち、穏やかな表情で話をしている。斉藤君が何かを言い、早川先輩が微笑みながら頷く。その様子がとても自然で、まるでずっと前から知り合いだったかのように見えた。


 僕は目を疑った。


「……いつの間に?」


 つい心の中で呟いてしまう。斉藤君と早川先輩は、普通に考えれば接点があるはずがない。先輩は僕の憧れの存在で、美術部でさえなかなか話しかけられないほどのオーラを持っている。それがどうして斉藤君と、こんなにも親しげに話しているのだろう?


 斉藤君は、相変わらず落ち着いた笑顔を浮かべていた。その表情に、どこか自信が滲んでいる。



 少し耳を澄ますと、二人の会話が聞こえてきた。


「本当に素敵な絵ですね、早川先輩。」


「そう?ありがとう。でも、まだまだ未熟だよ。」


「そんなことないと思います。僕、絵のことはよくわからないけど、見た瞬間に引き込まれる感じがしました。」


 斉藤君の言葉は丁寧で、しかもどこか人の心を掴むような響きを持っている。それを聞いた早川先輩は、少し恥ずかしそうに視線を外しながら笑った。


「そんな風に言ってもらえると嬉しいけど、斉藤君って、すごく口がうまいんだね。」


「本心ですよ。ただ、僕がそう感じただけです。」


 彼の言葉はどこまでも誠実そうで、けれど、それが余計に僕を不安にさせた。




 僕はただ、その光景を見つめることしかできなかった。斉藤君の話術に乗せられるように、早川先輩が少しずつ心を開いていく様子がわかる。


「……どうして、斉藤君が先輩とこんなに話せるんだ?」


 自分でも驚くほど、胸の奥がざわざわしているのを感じた。僕は、美術部の後輩として先輩に何度も声をかけたけれど、ここまで親しげに話せたことなんて一度もなかった。


「僕は……先輩のことをどれだけ知っているんだろう。」


 自問自答が頭の中で渦を巻く。その一方で、斉藤君が何を考えているのかも気になって仕方がない。


 彼が先輩のどんな部分に惹かれているのか、そしてなぜあんなに自然に距離を縮められるのか――そのどれもがわからなかった。



 少し距離を置いて二人を眺めていると、斉藤君がふと視線を僕の方に向けた。


「……っ!」


 一瞬目が合った気がして、慌てて視線を逸らす。その瞬間、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。


 斉藤君は気に留める様子もなく、再び早川先輩との会話に戻る。彼の立ち振る舞いには隙がなく、それがかえって異質に見えた。






 放課後の廊下には、窓から差し込む夕日が長い影を落としていた。教室のドアを出たところで、斉藤君が待っていたことに気づいたのは、彼が声をかけてきた瞬間だった。


「風間君。」


「え?」


 その声に振り向くと、斉藤君は軽く微笑みながら立っていた。影の中で立ち尽くす彼の姿は、妙に静かで、空気をねじ曲げるような不穏さを感じさせた。


「どうしたの?」


 僕が問うと、斉藤君は一歩だけ近づいてきた。彼の瞳は穏やかだったが、その奥に何か言葉にできない感情が渦巻いているように見えた。


「俺、探してるんだ。」


 その言葉はまるで独白のように静かで、けれども僕の心に直接響くような力強さを持っていた。


「……探してる?何を?」


 言葉の意味が飲み込めず、僕はただ問い返した。


 斉藤君は僕の質問にはすぐに答えず、窓から差し込む光の中に一瞬だけ目を向けた。そして、何かを思い出すようにぽつりと呟いた。


「母親だよ。」

「……母親?」


 その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。いや、実際には理解できたわけではない。ただ、言葉として頭に響いているだけだった。


「母親って……どういう意味?」


 声が震えていた。斉藤君は僕の質問には答えず、また微笑みを浮かべた。それはいつもの柔らかな笑顔のはずだったのに、その瞬間、僕には不気味に見えた。


「君の周りの人から探すよ。」


「……え?」


 背中に冷たい汗が伝うのがわかった。斉藤君の言葉が全く理解できなかった。いや、理解できないのではなく、理解したくなかったのかもしれない。


「な、何を言ってるんだよ。」


 無理やり冷静さを装って返したけれど、声は完全に上ずっていた。斉藤君は僕の様子を楽しむように、少しだけ首を傾げて笑った。


「ただ、それだけだよ。」



 斉藤君はふと立ち止まり、僕をじっと見つめた。その瞳には底知れない闇のようなものがあり、僕は思わず視線をそらしたくなった。


「風間君、君の周りには面白い人がたくさんいるね。」


「……どういうこと?」


「君の周りの人たちが、俺にとって何か特別な存在になる気がする。」


「だから、それってどういう意味なんだよ!」


 僕は思わず声を荒げたが、斉藤君はその言葉を無視するようにふっと笑みを浮かべた。そして、背を向けてゆっくりと歩き始めた。





「母親を探してる。」

「君の周りの人から探すよ。」



 斉藤君の言葉が頭の中をぐるぐると回っている。言葉の意味を考えようとするたび、思考が空回りして、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。


「母親って……どういうことなんだ?」


 理解しようとすればするほど、その言葉が現実感を失っていく。それなのに、胸の奥にはどうしようもない不安が広がっていた。


 僕は自分の手が微かに震えていることに気づいた。握りしめても、その震えは止まらない。



「君の周りの人から探す。」


 なぜその言葉がこんなにも怖いのだろう。何かを「探す」と言われただけのはずなのに、その言葉が心の奥底を冷たく締め付ける。


 早川先輩や真白、武田――僕の周りの人たちが頭に浮かんだ。斉藤君が彼らに近づいて、何をするつもりなのか、それを考えると居ても立ってもいられなくなった。


「斉藤君……一体何を考えているんだ。」


 声に出してみても、その答えは出ない。ただ、彼の言葉が脳裏に刻まれるように消えなかった。



 斉藤君の背中が廊下の向こうに消えていったときの光景が、何度も思い出される。その軽やかさと、全てを見透かしているような余裕が、今になってさらに不気味に思える。


 僕はその背中に何度も声をかけたかった。けれど、言葉を出すたびに自分の声が弱くなり、結局、斉藤君の姿が完全に見えなくなるまで何もできなかった。


「何もできなかった……。」


 その事実が、胸の中にじわじわとした後悔を生み、同時に恐怖を増幅させる。



 僕は何度も頭を振った。


「普通だ。きっと、ただの冗談なんだ。」


 そう自分に言い聞かせるけれど、体は全く納得してくれない。手汗で湿った拳を握りしめ、深呼吸をする。だけど、そのたびに斉藤君の言葉が心の中で反響する。


「……何かがおかしい。」


 斉藤君の存在そのものが、僕の日常を壊していくような気がした。まだ実際には何も起こっていないのに、何かが起こりそうな感覚が僕を苛む。



「まさか……。」


 自分の声が低く漏れる。だが、その続きを言葉にすることはできなかった。何を「まさか」なのか、自分でもはっきりと理解できていない。ただ、その予感が胸の奥で膨らんでいくのがわかる。


 斉藤君の言葉がどれほどの意味を持つのか、そしてその先に何が待っているのか――そのどれもがぼんやりとした形のまま、僕を支配していた。


「普通じゃない。」


 その言葉だけが確信めいて心に浮かぶ。



 斉藤君の笑顔を思い出すたび、それが何か作られた仮面のように思えて仕方がなかった。あの柔らかな微笑みの奥には、僕が知ることのできない何かが隠されている気がする。


「僕が考えすぎなんだろうか……。」


 無理やりそう思おうとするけれど、胸騒ぎは消えない。むしろその不安が、現実に何かが起こる前触れのように感じられた。


 僕は、ただ教室に戻る廊下を歩きながら、自分の足音がやけに大きく響くのを聞いていた。


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