離れていく中であの子だけは僕を見ていてくれていた……?
ワールド
1章 転校生と崩壊
第1話 平穏な日常
朝、いつものように目覚まし時計が鳴り響く。僕は手探りでスイッチを押して、それを止めた。少し寝ぼけた頭のまま、机の上を見ると、昨晩描きかけのスケッチがそのまま広がっている。
「やっべ……また途中で寝落ちしてた。」
枕元に転がったシャーペンを拾い上げながら、ため息をついた。これじゃあ目の下のクマが取れないのも当然だ。
鏡の前で寝ぐせを直しながら、今日も一日が始まると思う。僕の日常は平凡だけど、嫌いじゃない。朝起きて、学校に行って、美術室で絵を描いて、帰ってきてまた漫画やアニメの世界に没頭する。それが僕にとっての「普通」だ。
家を出ると、玄関先で姉の声が聞こえた。
「悠木、ちゃんと弁当忘れないでよ!」
「わかってるって!」
姉は僕よりしっかり者で、少しお節介なくらい世話を焼いてくる。でも、そのおかげで僕はいつも助かっている。
玄関を出ると、すでに隣の家の前に真白凜が立っていた。短い髪が朝日に照らされてキラキラしている。手にテニスラケットを持ちながら、腕時計をちらっと見る仕草が妙に落ち着かない。
「悠木、遅い。」
そう言いながらも、彼女は僕が来るまでずっと待っていてくれたのだろう。
「悪い、つい昨日の漫画が盛り上がってて……。」
僕が苦しい言い訳をすると、真白は呆れたように笑った。
「またそれ?寝坊の言い訳が全部漫画ってどうなのよ。将来ちゃんとやっていけるの?」
「大丈夫だよ、プロになるから。」
「へー、じゃあ夢叶ったら私にも何か描いてよ。」
軽口を叩く真白の顔は、どこか明るいけれど、よく見ると少し赤いような気もする。
登校途中、彼女は僕のリュックにぶら下がるキーホルダーに目を留めた。
「あ、それ新しいやつ?悠木の好きなアニメのキャラでしょ。」
「うん。限定品だったから、頑張って手に入れたんだ。」
「ほんとに好きだよね、こういうの。まあ、悠木らしいけど。」
真白は笑いながら僕のキーホルダーを指で軽く弾く。なんてことないやり取りだけど、こういう瞬間が僕にとっては居心地が良かった。
教室に入ると、真っ先に親友の武田剛毅が近寄ってきた。彼は自分の席にどっしり腰掛け、腕を組んで僕を見上げる。
「おー、悠木。またギリギリ登校かよ。てか、その顔……昨日も徹夜してたな?」
「徹夜ってほどじゃないけどさ、まあちょっとね。」
「ほんとお前は懲りないな。おかげでその目の下のクマがトレードマークになりつつあるぞ。」
武田はクスクス笑いながら、自分のカバンからコミックを取り出した。表紙には派手なキャラクターが描かれている。
「これ、新刊な。お前の好きなシリーズの続き。」
「マジで!?今日発売だろ。よく手に入れたな。」
「ま、俺にかかれば朝一でゲットするのなんて余裕だって。」
得意げに笑う武田。彼はどこか不器用だけど、こういうところが頼りになるんだよな。周りから見ればただのオタクにしか見えないかもしれないけど、彼は意外と面倒見が良いし、友情にも厚い。
僕がコミックを眺めていると、武田が小声で言った。
「でさ、隣の真白。あいつ、最近お前のことどう思ってんだろうな。」
「え、何の話?」
「いや、ただの興味。お前ら、幼馴染だろ?でも、なんかそういう雰囲気じゃないのが不思議でさ。」
「別にそういうのじゃないって。」
僕が即答すると、武田は「へー」と意味深に笑ってみせた。その視線が少し意地悪に見えて、僕はなんとなく落ち着かなくなった。
放課後、美術室の空気は独特だった。絵の具と木の机から漂う香り、静まり返った空間に響くペンの擦れる音――ここは僕にとって、唯一「自分らしくいられる場所」だった。
机の上には描きかけのスケッチが広がっている。テーマは「光と影」。僕なりに工夫したつもりだけど、どこか平凡で、何かが足りない気がする。
「悠木君、その影の入れ方、いいね。」
後ろから不意に声をかけられて、思わず手を止めた。振り返ると、翔子先輩が僕の絵を覗き込んでいた。
「先輩……ありがとうございます。」
褒められて嬉しい反面、どこか照れくさい。僕がそう言うと、先輩は微笑みながら僕の隣に腰を下ろした。
「でもね、少し影の部分が硬いかな。もっと柔らかく、光が溶け込むような感じで描いてみるといいかも。」
先輩は僕のスケッチブックを指先で軽くトントンと叩いた。その仕草に、なんだか胸がざわつく。翔子先輩の長い黒髪がふわりと揺れて、隣にいるだけで少し緊張してしまう。
「どうしてそんなに僕の絵を見てくれるんですか?」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。先輩は少しだけ目を見開いたけれど、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。
「どうしてだろうね……。悠木君の絵は、人の心に寄り添ってる感じがするからかな。」
そう言って微笑む先輩の表情が、少しだけ寂しそうに見えた。
「でも、私も昔はそうだったの。絵を描くことが好きで、誰かに認めてもらいたくて――でもそれがいつの間にか、重荷になっちゃってた。」
「重荷……ですか?」
「うん。『すごいね』とか『才能あるね』とか、そういう言葉が増えるたびに、もっと完璧なものを描かなきゃって思うようになって……。本当に自由に描いてた頃が懐かしいなって思うことがあるんだ。」
先輩の言葉は、どこか自嘲気味だった。でも、その声の中には確かな強さも感じられた。
「だからね、悠木君には自分の絵を大事にしてほしい。誰かのためじゃなくて、自分のために描く絵をね。」
その言葉に、僕は思わず息を飲んだ。僕が無意識のうちに抱いていた不安や焦りを、先輩は見抜いていたのかもしれない。
「僕、もっと自由に描いてみます。」
そう答えると、先輩は満足そうに微笑んだ。
「うん。その方が、きっと悠木君らしい絵が描けると思うよ。」
先輩が立ち上がり、窓際に歩いていく。差し込む夕日が彼女の姿を照らして、まるで一枚の絵画のようだった。
「じゃあ、またね。頑張って。」
軽く手を振って美術室を後にする先輩を見送りながら、僕は心の中に小さな火が灯ったような感覚を覚えた。翔子先輩みたいに、誰かの心に触れる絵を描きたい――そんな想いが湧き上がってくる。
夕方、玄関の扉を開けると、ほんのり漂う夕飯の匂いが出迎えてくれた。台所のほうから包丁の音が聞こえる。母さんが何かを切っているらしい。
「ただいま。」
靴を脱ぎながら声をかけると、母さんの明るい声が返ってきた。
「おかえり、悠木!手洗ってね。それからちょっとお使い頼める?」
「えー、今から?」
「そうよ。近所のスーパーでお醤油買ってきてくれる?あとでお小遣い上げるから。」
仕方ないなと思いながら、「あとでね」と言ってリビングに向かった。
リビングでは姉がソファに寝そべりながら、スマホをいじっていた。お菓子の袋が散乱しているその様子は、部屋全体の空気を完全に私物化している。
「あんた、学校終わってもまだ絵描いてたんでしょ?」
顔を上げずに言う姉。僕はカバンを置きながら答える。
「まあね。でも今日はそこまで時間かけてないよ。」
「ふーん。でも、また机に消しゴムのカス残してるでしょ?そういうとこ直さないと嫁さんに嫌われるよ。」
姉のいじりに、僕は少しムッとした。
「いちいちうるさいな……。」
「うるさいじゃないよ。将来のためを思って言ってあげてるんじゃん。」
姉の軽口はいつものことで、僕も慣れている。だけど、このやり取りは不思議と嫌いじゃない。姉は僕をからかってばかりだけど、なんだかんだで僕のことをよく見ているのがわかるからだ。
「でもさ、悠木の絵、あんたらしくていいと思うよ。」
不意に真面目なトーンでそう言われて、僕は一瞬戸惑った。
「……ありがとう。」
照れ隠しにそっけなく返すと、姉はニヤリと笑いながらスマホに視線を戻した。
その後、自分の部屋に戻ってスケッチブックを開く。机の上には昨日描きかけのキャラクターがそのまま広がっている。
シャーペンを手に取り、昨日の続きを描き始めた。頭の中では、翔子先輩に言われた「もっと自由に描いていい」という言葉が何度も反芻される。
「自由か……難しいな。」
ペンを動かしながら、窓の外をふと眺めた。空が茜色に染まっていて、どこか胸が締め付けられるような感覚がした。
夜、夕飯の時間になると、家族全員がダイニングに集まる。父さんは帰宅が遅い日が多いけど、今日は珍しく全員揃っていた。
「悠木、お前、最近どうなんだ?漫画家になる夢、順調か?」
父さんがビールを飲みながら聞いてくる。
「うん。まだまだだけど、頑張ってるよ。」
「そりゃいいな。俺も若い頃は夢があってな……まあ、挫折したけど。」
「ちょっと、そういうこと言わないでよ。」
母さんが笑いながら父さんを止める。僕は苦笑しつつも、こういうやり取りが心地よく感じていた。家族の何気ない支えが、僕にとってのエネルギーなんだと気づいているからだ。
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