道を下り続け、海に着いた。歩道から見下ろすと満潮の海は砂浜も飲み込み、ただ黒い水がコンクリートに打ち付けている。顔を上げて振り返ると、海沿いの店は閉まり、民家も明かりを落としていた。顔を上げ、空を見る。無数の星が光るも、形がわかるものは何もなかった。昔どこかで習ったはずなのにアンタレスすら見つからない。廃線になったバス停のベンチに座る。いなくなった彼女のこと、人に言われたこと、さきほど聞こえた話のこと。目を閉じてもたれかかる。耳に入ってくるのは波の音だけ。深呼吸をすると体の力が抜けていった。
ザザ、ザザ
波ではない音がした。瞼を開け、音の方に顔を向ける。フェンスと視界が重なったため立ち上がる。目を凝らすと動くものが見えた。道沿いを近くまで行くとそれは小さな人影だった。腰下まで水に浸かっている。
「何してるんだ」
声を張り上げたつもりだったが、思ったほどの声量ではなかった。普段声を出さないせいだろう。町の人なら夜の満潮の時に海には入らない。それどころか近づかない。あの人はなぜ海に入っていくのだろう。考えている間にも人影はどんどんと沖の方へ進んでいく。知らない人。だが、もし明日死体でも打ち上がったとする。そんなもの、後味が悪くて仕方がない。人影が進み続けるあの奥は急激に深くなる。透明度がいくら高くても夜は見えないだろう。一つ息を吐いてから靴を歩道に置き、上着をベンチにかける。階段から海に足を入れる。それなりに冷たい。バシャバシャと音を立てながら急足で人影に向かう。次第に水深が深くなり、膝を超えた。水に浸かった面積が増え、体が冷えて動きが鈍くなってくる。近づいても、人影は振り返らず進み続けた。ようやく追いつき、手を伸ばして腕を取る。その瞬間、体がビクッと震え、振り返った。それは、紛れもない彼女だった。急な邂逅に思わず口が開く。
「いい歳して、何やってるんだよ。これ以上進んだら…」
胸下まで水に浸かった彼女の腕は冷たかった。こちらを見上げる目は赤く、今にも涙が溢れそうだった。
「離してよ」
彼女はそう言った。いつもと違う暗く低い声。先ほどまでとは違い、表情に感情がなかった。腕を離さずにいると、彼女は一つため息をついた。
「離して」
「それはできない」
より強く腕を握る。腕はあまりにも細く、指がつきそうだった。
「…たいの」
沖の方を見て俯き、消えそうな声で彼女が言った。
「え?」
「もう、終わりにしたいの。…消えたい」
変わらず低い声だったが、聞いていて胸を締め付けられた。声だけで彼女の苦悩が。つたわってくるようだった。
「全部、全部無駄だった」
掴んでいた腕から力が抜け、だらりと垂れ下がる。
「こっちの世界で死んだら、消えられるかもしれない」
意味のわからないことを言うと、彼女は再びこちらを見た。小さく白い顔が悲痛の表情を浮かべている。
「だから、離してよ」
意思のこもった声だった。目こそ赤いが、彼女はもう泣いていなかった。
「嫌だ」
「どうして」
なぜ自分は彼女の手を離さないのだろうか。赤の他人。好きにさせてやれと言われたらそれはそうだ。
「わからない。わからないけど、今、手を離したら後悔する、気がする」
紛れもない本心だった。彼女を助けたい、そんな大義名分じゃない。ただ、あの時助けていればと思いたくなかった。
「なにそれ」
意外だったのか、彼女は拍子抜けした顔をしている。「はっ」と渇いた笑みを浮かべ、彼女は笑った。
「なんか、馬鹿馬鹿しくなっちゃった」
彼女は岸に向かって歩き始める。掴んだ腕が伸びたところで、その足が一度止まった。
「ありがとね」
そう言うと再び歩き出した。腕を離し、後ろから追いかける。なぜこんなことをしていたのかは、何もわからなかった。ただ、もう大丈夫だと思えた。黙ったまま歩き続け、歩道に着く。変わらずコンクリートに波が打ちつけていた。
「渚」
なんとなく思い出し、名称を口にする。前で階段を登っていた彼女が「ん?」とこちらを振り返る。
「どうしたの?」
「いや、波が打ちつけているから」
「なんだ、残念」
階段を登り、再びベンチに座る。濡れた足を風に当てると体全体が冷え込んできた。隣で彼女がくしゃみをする。彼女は変わらずノースリーブのワンピースだった。上着を彼女に渡す。一度断る姿勢を見せたが、おとなしく肩にかけた。
「お前、なんであんなこと」
「なぎさ」
突然そう言った。彼女はもたれかかり、空を見上げていた。
「お前じゃなくて、なぎさってよんで」
顔は変わらず宙を見ている。道が明るくなると一台の軽トラが走り去った。
「それが、名前?」
顔をおろしこちらを見る。はっきりと目が合った。
「そう」
彼女−なぎさは照れくさそうに足をぶらぶら揺らす。地面に足はついていなかった。二回目のくしゃみをすると上着を掛けたまま立ち上がった。
「上着、今度返すから借りてもいい?」
「別にいいけど」
そう言うと彼女は袖を通し、チャックを閉めた。もともと父のものだった上着は彼女には大きく、顎まで埋まっていた。
「同じ匂いだ」
彼女は嬉しそうに言った。
「今もあの夕日の絵、描いてるの?」
ベンチの後ろに周り、背中合わせのような状態になる。後ろを向くと、彼女は海の方を見ていた
「あれは終わった。いまは新しいのを描いてる」
波が打ちつける音がする。無言の間も波音のおかげか気まずくはなかった。
「そっか。完成したの、見たかったな」
なぎさは文化祭に行かなかったのだろうか。それとも行けなかったのだろうか。無闇に聴くことはできなかった。
「今日は迷惑かけてごめんね」
彼女はまたこちら側に戻ってきた。濡れた毛先は先ほどまでより渇いて見えた。
「いろいろ、上着も。本当にありがとう。また、返しにいくから」
海沿いを歩き出す。少し歩いて足を止め、こちらに振り向いた。
「じゃあね」
小さく手を振って、なぎさはまた歩き出した。その影はすぐに夜の闇に包まれた。足についた塩を落とし、靴に足を入れる。立ち上がると、ベンチに染みができていた。
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