ヘドとドブニコ
水本グミ
しょっぱい方舟
ドブニコの姿が見えなくて、港の方へやって来たがすぐに見つけられた。
天への旅路を進み始めていた木船の船底は、すでに私の頭上を越えていた。これまで見た中でもっとも小さな船だった。乗っているのはふたりの……年老いた……夫婦だろうか。斜め上を見据えたまま、こちらに目を向けることはなかった。
かつては「旅立つ者」に対し罵声を浴びせたり、石を投げつけたりする者も少なくなかったが、今では港で「見送る者」自体ほとんどいなくなった。
それでも
「カナサ夫妻はさぁ」
私が近づいていることに気づき、ドブニコが
「娘がいて、これがすごく優秀だったらしいんだけどさ、中央で偉くなって」
ドブニコはため息混じりに続ける。
「
カナサ夫妻の
「くだらない、すごくくだらないなぁ」
ドブニコは肩をすくめる。
「ドブニコは、ここを脱け出して天に行きたくないの?」
「ヘドはバカだなぁ。私はカナサ夫妻より下層」
「火葬?」
「下賤な者ってこと。持たざる私より、
一瞬言い
「もう私の船は出ないんだよ、たぶん」
太陽は随分と前に姿を見せなくなり、替わりに現れた空を覆うほど巨大な輪っかは、相変わらず地上に薄
私とドブニコは酸素を
酸素の量が落ち着くと、いつものようにベッドに潜り込み、裸になって抱き合ったが、ドブニコがじっと窓の外に視線を合わせているのを見て、今日は朝まで眠れないのだろうと思った。
「旅立つ者さ」
ドブニコが遠くを見たまま口を開く。
「うん」
「最初は適当に選ばれてると思った」
「そうだね」
「だから家族の中で私だけ漏れたのも、たまたまだと思ってた」
ドブニコの両親は慈愛に満ちた善人で、宗教者として
ドブニコの家族は最初の「旅立つ者」に選ばれ、大型船に乗り天へと渡った。ドブニコと目を合わせることなく。
しかしその後、何度出航が繰り返されてもドブニコが「旅立つ者」のリストに入れられることはなかった。
「カナサ夫妻は娘が偉いってだけで最後の最後で救われた。じゃあどうして、私は……」
そこまで言ってからドブニコは軽く
「なんてことをね、考えちゃった。それを言ったらヘドが選ばれないのは、もっとわからないことだけどさ」
☆★☆★☆
――カナサ夫妻の出航から一年が
もはやこの地上に残された者は数少なく、意思の疎通が困難な者や、感情を失った者がほとんどになっていた。
残された自発的に行動可能な者たちは、それが生きている
当然、ドブニコもそうだった。
私は時折、ドブニコが新しく書き上げた作品を手渡された。長いもの、短いもの。ドブニコは感想を求めることがなかったので、私も感想を言うことがなかった。ただただ、受け渡しを繰り返すのみだ。
いつものようにベッドの上で体を重ね合わせた後、ドブニコは思い出したように裸のままテーブルの前に立ち、乱雑に積まれた紙束の中から数枚を取り出し、
「新作できたよ」
と、私に渡してきた。
一頁目に『しょっぱい
「今日中に読むよ」
「しょっぱいヘドだなぁ」
ドブニコは笑った。
闇はもうかなり深くなっていた。そろそろ酸素を
けれど、私とドブニコのしょっぱい生活は突如として幕を閉じた。
赤いフードで顔を覆った何者かが、ドアを破って部屋に侵入してきたのだ。
ドブニコは叫び声を上げながら部屋の隅へと逃げ込み、手に触れるものを次々と投げつけた。しかし、その何者かはひるむことなくドブニコを追い詰め、簡単に捕らえてしまった。
ドブニコは服を着る時間だけを与えられ、泣きべそをかきながら何者かに港へ連れて行かれることになった。
私はその後をついて行く。
「ごめんねヘド、一緒に行きたかった」
私は、特に何も思いつかなかったので黙っていた。
並んで歩く、赤いフードの何者かに、ドブニコが話しかける。
あちらに行ってもこちらに連絡する手段はないのか、あちらではどういう生活をしているのか、家族は元気にしているのか、など。何者かは質問に何一つ答える気がないようで、港に向かう一行で
天へ旅立つための港とはいえ、ここは元々海に面した港湾で、強い潮風が体を
船着き場、いや発射台と呼ぶべきか。最初は港に停泊した大型船が天へと打ち上げられていたが、「旅立つ者」の数が少なくなるにつれ船は小さくなっていき、海に浮かべる必要さえなくなった。
カナサ夫妻の船は公園の池の、ボートほどの大きさしかなく、灯台に
一行が
桟橋の真ん中にぽつんと置かれた、木製のやや大きめの肘掛け椅子。誰が見ても、これが船だとは思えない。
ドブニコは何も理解できないままだったが、すでに絶望していた。赤いフードの何者かによって海向きに座らされ、手足を拘束された。
赤いフードの何者かに促され、私は桟橋から遠ざかった。首を振り泣き叫ぶドブニコの後ろ姿が目に入った。ドブニコの声は聞いたことがないほど甲高くなっていった。
海面の水位が上昇するとともに、ゆっくりと桟橋そのものが浮かび始める。
そして、灯台を桟橋に乗せたまま、天へ天へと昇っていく。
ドブニコはすっかりおとなしくなっていた。
なおも上昇し、闇に向かい加速を続ける。それは私が今までの「旅立ち」で見たことのない動きだった。
闇の中心をめがけ、桟橋が、灯台が、ドブニコが突き進んでいく。
灯台の光が闇の正体を照らす。そこには塊が浮かんでいた。無数の手足が絡み合った、ミイラ化した遺体の塊が闇を覆い尽くしていた。
「旅立つ者」たちの遺体の中心を、灯台が乱暴に突き破る。埋もれた灯台の先端が爆心地となり、周囲はドブニコもろとも粉
火種は塊全体にまで広がり、「旅立つ者」を焼き尽くしていく。
炭化した「旅立つ者」は塊から少しずつ解けながら、ばらばらに落下し、海へと
闇を照らす輪っかは、「旅立つ者」の火葬に合わせて大きな光となって、やがて太陽が顔をのぞかせ、かつての青空を取り戻した。
天に昇った者たちは
しかしもうドブニコの残骸を目視することは不可能だった。
「くだらないなぁ、ヒトは」
立たないと。
立って歩き出さないと。
四散五裂した恋人の、部屋に置いたままの『しょっぱい方舟』の頁を
(続)
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