国覓のカガミ 序

「あなたがカガミだよね。めくらのカガミ」


 深い深い霧の向こう側から飛び込んできたその声は、自信に満ち溢れていた。それだけで私の視界にかかった一生涯晴れないであろう霧はいともたやすく彼女によって振り払われ、私は遂に「人間」という生物の姿かたちをその視界に収めることができるのではないか、とすら期待した。


 当時の私は剣術の道場に通っていた。父の強い勧めである。


 私には生まれた時から眼球が備わっていなかったという。この世に生を受けたばかりの私を見た母は卒倒し、その心労も祟ってか、流行り病に罹り時勢に乗るように死んでいった。──そのような話を父から事あるごとに聞かされて育ったが、真偽のほどは定かではない。私に視界がなく、また眼球が備わっていないということは私自身が一番よく知っていたが、私の出生を見届けたであろう母は、私が物心ついた頃には既に他界していた。私には母の記憶がなく、また、母の話を私に聞かせようとする時の父は、決まって酒に酔っていた。


 私は酔った父の口から吐き出される酒精の臭気とともに母のことを学んだ。しかし同時に、私には父の話を半信半疑で聞き流している節があった。母の話をする際の父は、必ずと言って差し支えのない頻度で、部屋の装飾品に成り下がった刀を手に取るのである。鞘から刀身を抜く音がし、父はそれを息がかかるほどの距離で入念に眺める。そのような気配を、私は彼の息遣いから感じ取る。私は父が刀を抜くたびに、空になった鞘の中から母の血の匂いを感じた。


 そんな父の口癖が、「強くあれ」だった。生きる才能の欠けた人間は人より強くあらねばならない、と父は私によく言い聞かせ、謝礼を出してまで私を剣術道場に通わせた。


 その道場の師範の娘にあたるのが、ユリだ。


 ユリは私が生まれ育った町で一番の美人と評されていた娘である。年の頃は私をはじめとした当時の道場の弟子とさほど変わらず、彼女は頻繁に道場の様子を覗きに来ては弟子たちと談笑していた。

 一方で当時の私はといえば、同門からめくらと馬鹿にされそしられ、そして同時に敵愾心を燃やされる対象でもあった。


 というのも、ユリは道場の景品だったのである。


 師範の子供はユリ一人だけだった。師範と血は繋がっていても男子ではないユリは、道場を継ぐ役目を与えられていなかった。


 しかし彼女は家に縛られていた。彼女は道場の後継として剣を振るうことを強制されない代わりに、道場を継ぐに値する弟子の妻になる役目を、生まれながらに背負っていた。


「強いんだってね。みんなが言ってたよ。カガミは──」

「カガミはめくらだから強い、でしょう」


 私は水場で雑巾を絞りながら早口で返した。稽古が終わった後の掃除は数名ごとの持ち回り制だったはずだが、私の知らないうちに私一人の毎日の仕事となっていた。弟子たち曰く、私が優等生だからだそうである。剣の腕が立つ優等生だから、世話になった稽古場に毎日感謝を示すのも苦ではないのだと。


「目が見えないと強いの? 実際」

「さあ」私は緩く首をめぐらしながら答えた。暗にあなたと話したくない、という意思を示したつもりだったが、彼女が態度を変えるそぶりはなかった。「見えていたことがないものですから」


 ユリは声をあげて笑った。あまり女性らしくない──遠からず親の決めた男の妻になることを心のどこかに留めて育てられた女子のものとは思えない──笑い方だった。私が視覚以外の感覚で捉える彼女の人物像はいつでもそうで、私の周りの男子たちが彼女のことを「まさに百合の花のよう」などといかにもたおやかな形容を用いるたびに、私は内心で首を捻っていた。あるいは、私の想像する百合の花の有り様などが、常人が目にしているそれとは乖離した印象を持っていることを常に疑っていた。


「カガミ、最近話した子の中で一番面白い」彼女は引き笑いの余韻をいつまでも引きずりながら喋った。「……でも、見えてるって言ってる弟子の人もいるよ」


 私はそこで、己の目元を覆う晒しをほどき目を開いて見せようか、といった妙案がわずかに過ったが、あんまりだと思ったのでやめた。私にも瞼はあるが、眼球のない覆いだけの瞼はやはり歪で、それを開けば一眼見て母親が卒倒したという深淵の虚が広がっているはずである。そうすれば私の思惑通り、彼女は私に金輪際近寄らなくなるだろうし私の話題を他の弟子に振ることもなくなるだろうが、損害が巡り巡ってこちらに降りかかることも同様に目に見えていた。優等生から化け物に呼び名が変わることは想像に難くない。無論、毎日の雑巾絞りを欠かさない、勤勉なる怪物である。


「……剣筋ならば見えます」


 私は代わりに言った。


「相対した敵の息遣い、踏み込み、衣擦れ──そういったかすかな音や振動から、相手が何を考えどこを攻めようとしているのかはある程度予想がつけられますから、そういう意味なら『見えている』と言ってもいいでしょう。しかし……」

「しかし?」

「彼らは私のことを、神懸かりにでもしたいのではないでしょうか」


 私は投げ遣りに口角を上げて答えた。


「めくらに剣で負けるなど、視力のある者からすれば不愉快なだけでしょう。……ですから、『めくらなのに強い』ではなく『めくらだから強い』と口を揃えて言うのです。視力がなくともそれを補って余りある実力がある──それは違う。私はこの両の目玉と引き換えに、並ならぬ剣の才能を持って生まれてきたのです。少なくとも彼らの中ではそうだ。そう考えることができれば、彼らの精神は常に平穏でいられる」

「ふぅん」


 ユリは素っ気ない相槌を寄越した。それから彼女は、ぽんとお手玉でも放り投げるような高い声を、間を置かずに続ける。


「それで、結局カガミは強いの? そうでもないの?」

「ご心配には及びません。私はあなたと女夫めおとにはなりませんので」


 これはユリが私に話しかけてきた時からこの瞬間まで、ずっと心の中で準備していた言葉だった。私は淡白さを強調するように、努めて早口にそれを声に変換した。


「……どういうこと?」


 彼女の声がわずかに翳る。私は心の半分で笑いながら続けた。


「あなただって理解して探りを入れているのではないのですか。こうやって、私が一人残された時間を選んでまで。将来の夫となるかもしれない人間が盲目では、何かと面倒事が多い。面目を立てるのも一苦労です。いずれ生まれる子のことを考えても、夫が目明きであるに越したことはない」

「そんなこと、」

「無理に否定なさらなくてもよろしい。あなたのお父様もきっと同じお考えです」


 私が言うと、ユリはしばしの間黙った。しかし踵を返す気配はなかった。


「じゃあ、道場を出ることになったら、カガミはどうするの」

「さあ。旅にでも出るのではないですか」


 先ほどと同様に、私は気怠げに首のあたりを動かした。


「何をしに」

「美味いものを食し、美しいものを愛でに」


 私の返答はその場凌ぎの出まかせだった。誠の心だの、明鏡止水だのと剣の道を往くにあたってはよく言われるが、剣士同士の対面は常に腹の探り合い、騙し合いである。

 相手のわずかな動作から次の手を読み、その裏をかいて斬り伏せる。真剣同士の斬り合いであれば、その後に残るのはなまぐさい血の水鏡のみだ。


 その高度な腹の読み合い、騙し合いが一点の曇りない鏡と美化されるのは、剣士の側に相手の腹を読むことの躊躇いも、相手の裏をかくことの後ろめたさも感じていないからに過ぎない。


 己がその斬り合いの瞬間に行っていることの一切に感情も感想も抱かず、目先の命を奪うことにのみ集中する。

 そうすることによって剣士の心理は限りなく純度の高い透明な精神によって薄められ、水の鏡は完成する。


 私の剣がこの道場で最も優れているとされる所以は、私自身が透明な真水の鏡だからであろう。


 私は私自身の生に対して最も無欲であり、無関心だ。

 生まれたから生きている。自ら死のうという気概もない。

 この道場を居場所としているのも、あくまで親に与えられたがゆえである。


 去れと言われれば去る。その後の展望など持ち合わせているはずもないが、旅に出ることだけは確実だろう。


 私はあてもなく旅をし、あてもなく死ぬのだ。


 それ自体に目的などはない。あるとすれば、一刻も早く家を出なければ、という焦燥のみである。それさえ達することができれば、私の今後などはどうなってもいい。


 かくして、私はユリに心なく嘘をつく。自らを断罪する心理は、私の精神と同化して透明になり、存在しないも同義になっている。


「──そっか。じゃあカガミ、覚えておいて」


 小さく息をついたユリは徐に、私の両の手首を取った。

 ユリの細くしなやかな指先が、私の冷たく濡れた手の甲を伝い、包んだ。


「……緊張する?」


 ユリは訊いた。


「いえ、特には」


 びっくりした? とでも訊かれれば頷くほかなかったが、彼女の質問はそうではなかった。


「そっかぁ……」


 ユリはかすかな震えを帯びた吐息を吐き出した。それは喜びに打ち震えるようにも、嗚咽のためにしやくり上げる息遣いのようにも感じられた。


「ほかの男の子にこんなことしたらね、みんな鼻息荒くして、そのうち血を噴いて倒れちゃう」


 ユリは強弱をつけながら私の手をずっと握って弄っていた。


「その者たちは皆、修練が足りていないだけです」


 修練を重ねれば明鏡止水の境地に至ることができると、師はよく弟子たちに教え諭す。


「そうかなぁ。きっとカガミが特別なんだよ」


 ユリは言い、私の両手を導いて自らの頬に押し当てた。


「……濡れますよ」


 私はわずかに語気を強めた。掃除を終えたばかりの私の手は、誰かの頬に押し付けていいほど清潔とは思えない。


「いいの。カガミは特別だから」


 ユリは私の言葉を聞かない。ユリの頬に触れた私の手を更に上から両手で包み、私の指を操るように上から押した。


「旅に出るなら覚えておいて。これが『美しい』という形」


 私の指先がきめ細やかな肌を押し、その先にある頭蓋の輪郭を捉えた。

 やがて頬の筋肉がかすかに持ち上がり、口の端に窪みができた。


「私たち、今すっごくいいになってると思うな」

「いい画……ですか」

「そう。思わず絵に描き起こしたくなるような、美しい景色。みんなが愛でたくてしょうがなくなるような、とても素敵な一瞬のこと」


 そう言って、ユリは私の手をゆっくりと解放した。私の手はユリの肌を離れてから正しい有り様を忘れ、しばし宙にぶら下がっていた。


「いってらっしゃい、カガミ。何年先になってもいいから、必ずまた会いに来て」




 私とユリが初めて言葉を交わしたその翌日、私は師から難なく一本を取って道場を去った。

 師は稽古の時よりはずっと集中し私を斬りたおそうとしていたが、私が相対した彼は鏡とは程遠いものだった。


 さらにその翌日、私は生まれ育った町を出た。父には既に新しい妻がおり、家には私より年下の長男がいた。


 それ以来、故郷には帰っていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る