寄生の子 十一
「あなたを助けたのはもちろん慈悲も恩もあるからだが、第一にあなたに協力してほしいことがあったからだ、というところが抜け落ちていてはいけない」
手燭を持ちながら先導するわたしの後方で、ヨヨくんが言った。蝋燭の火が大きく揺らめいて、一瞬だけ消えかける。
カガミさんたちの部屋を出る前、火の支度をしましょうかと申し出たところ、きっぱりと断られてしまった。こんなに暗いのに? と思ったけれど、思い返せば廊下で出会ったときのカガミさんも、明かりを何も手にしていなかった。刀を振るうのに邪魔なのかもしれない、と思い直したところで、カガミさんに、
「暗闇では目を閉じたほうが歩きやすいもので」
と言われた。わたしは面食らってしまった。
二人がわたしに一緒に行ってほしいと言ったのは、二階へと続く階段だった。死体も血だまりもすっかり消え失せてしまった床板を踏みしめ、一段目の踏板に足をかける。
一段、二段とその感触を確かめるようにゆっくりと上っていくと、昔おかあさんに注意されたときの記憶が蘇ってきた。
あそこには神聖なお客様がいらっしゃる。アンタが足を踏み入れることは今後一切許さないからね──
確か、三段目だ。三段目の踏板に足を乗せた直後に、わたしはおかみさんに腕を引っ張られて、一階の床まで一気に引きずり下ろされた。子供の背丈のわたしにはまだ一段一段が高く感じられ、それを普通に後ろ向きで降りろと言われても怖かっただろうと思う。そんなものだから、後ろ向きに手を引かれ、片足が段を踏み外して宙ぶらりんになった瞬間に、三つ積み重なった踏み場の高さを自覚して血の気が引いた。
結局、おかあさんが落下してきたわたしをすっかり抱えてしまったので、身体のどこかを打ちつけたり、着地に失敗して足を挫いたりはせずに済んだ。
でも、落下している瞬間の浮遊感と、どこまでも落ちていってしまいそうな先の見えない恐怖を思い返して蒼白になっているわたしを、おかあさんはいたわってはくれなかった。
わたしの感情など問答無用で、わたしとは正反対に顔を真っ赤にして怒鳴りつけるおかあさんに、わたしははっきりとした恐怖と絶望を感じたのだ。
今になってみればおかあさんの怒り──いや、焦りは充分に理解できる。おかあさんは、化け物の子供であるわたしに、化け物を見せたくなかったのだ。
わたしが首を刺して殺したサアヤの偽物が言うには、二階にはたくさんのサアヤの偽物がいる。同じくサアヤの偽物であるわたしが、もし万が一、わたしとまったく同じ姿かたちをした女の子を見てしまったら──
それは家族の崩壊であると同時に宿の崩壊でもあって、最悪の場合、宿にいる全員が化け物の餌食に──ということも、もしかしたらあったのかもしれない。
おかあさんは優しかったのかもしれない。宿のみんなや何も知らないお客様を守るために、わたしを必要以上に厳しく叱ったのかもしれない。わたしがおかあさんに怒られることを恐れてビクビクすればするほど、わたしが「わたし」を見つける危険性は低くなるから。
……もしかして、それでおかあさんは、わたしに声もかけずにいきなり階段から引きずり下ろすような真似をしたのだろうか──
ふと背中が粟立って、わたしは内心でぶんぶんと首を振った。
そこまでして怖がらせようなんて、まさか。
みんなを守るためにわたし一人をなんて、まさか……
「──ああ、このあたりだね」
ふいに余裕を含んだヨヨくんの声が響いて、わたしは足を止めた。後ろを振り返ると、悪夢の三段目はとうに踏み越えた後だった。
ヨヨくんがわたしより前方の壁を指さしている。
「そこに御札が貼ってあるだろう。そこから先は結界だ。邪悪なるものとそうでないものを区別する。護符というのは本来、正しく生きようとする信心深い人間を不運から守る代物だが、ここに貼ってあるのは『邪悪なるものにとっての護符』だ。神聖なものを遠ざけ、それより内に入れないようにする」
わたしが蝋燭で付近の壁を照らすと、それらしい紙が貼ってあるのを見つける。墨と、何か嫌な感じに赤黒い液体で文字と図形が描かれていた。何と書かれているのかは字が崩れていてよくわからない。わかってはいけないような気さえする、禍々しい雰囲気の御札だった。
「カコさん、それを見つけ次第片っ端から剥がしていってくれないだろうか。私は曲がりなりにも神様だから、そういったものがあるといまいち元気が出なくてね。しかし自分で剥がしたくても剥がせないわけだ。私たちはこれを貼った主からすると、立派な外敵だからね」
なるほど、だからわたしが必要だったのだ。わたしは合点がいく。化け物にとっての外敵に剥がせないなら、化け物にとっての身内に剥がさせればいいのだ。
わたしは頷いて、御札の端に爪を立てた。なんとなく罰当たりな気がして、一息に剥がしてしまう瞬間に目を閉じた。
後方でヨヨくんが快活な笑い声をあげる。
「見るからに曰くありげだからな、こういった御札の類いは。これを見た人間は、聖人だろうが悪人だろうが、まともな感性を持ってさえいれば近寄ろうともしないだろう。よくもまあ考えつくものだ」
それを聞いてわたしは、またおかあさんの言葉を思い出した。
入ってはいけないところに入って見てはいけないものを見たら、全身血塗れになって変死して行方知れずになってもしょうがないですよねぇ──⁉︎
殺人に取り憑かれてしまったかのような、死人みたいなおかあさんの仕草。
振り乱す白髪混じりの髪。生まれたての赤ちゃんみたいにグラグラと揺れる頭。
あれはほんとうにわたしのおかあさんだっただろうか。あまりにも別人のようで、思い出すことすら憚られる。
でも、その記憶のなかで、アミハラさんは確かに生きていたのだ。
「……あの、でも、アミハラさんが……お客様の一人が今夜二階に上がったらしくて、その……殺されて、しまいました。……わたしの母に」
「あァ、あの文筆家気取りか。成る程」
「ヨヨくん、アミハラさんと知り合いだったの?」
知り合いならばもう少し驚いたりしんみりしたっていいのに、と思いながら、わたしは言葉を返した。よくよく上段の壁を照らしてみれば、同じような御札がまだたくさん貼られていた。上に行くにつれて数が増えていく様は先刻おかみさんが言っていた通りで、これを全部剥がすのは体力の面だけじゃなくて心の面でも苦労しそうだったのだ。気を紛らわす会話があったほうがよかった。
「昼間、茶屋でちょっとした興行をしただろう。あの後に私たちのことを根掘り葉掘り訊いてきたのだよ。あれは何事に対してもああなのだろう。好奇心に殺されたというわけだ」
天罰でも下ったかな、とどこかの土地の神様が笑うので、わたしは薄ら寒くなって、ちょくちょく後ろを振り返って二人の様子を確認するのをやめた。しっかり前や足元を見ていないと、段を踏み外して後ろ向きに落ちてしまいそうな気がした。この高さでは、きっと無傷では済まないはずだ。
しばらく無言で御札を剥がし続けた。剥がしては一段上り、壁を照らし、剥がし、上り──
上に進むごとにその間隔が長くなっていく様は、山の頂に近づくごとに空気が薄くなり、足が鈍るのにも似ている気がした。この期に及んで、館が拒んでいる。
来るな、来るなと、怯えている。
やがて、わたしが爪先立ちになってようやく届くような高さの場所にも、御札が貼られるようになった。御札の下部の角から爪を差し込み、自分の体の方向へ引っ張るようにして一番上の御札を剥がす。踵を下ろして一息ついた。
これ以上上のほうに貼られたら、わたしの背丈では届かない。
そんな危惧がわたしの胸をざわつかせて、わたしは手燭をずっと先のほうにかざした。
「な──」
わたしは言葉を止めて生唾を飲んだ。
踊り場で折り返したその向こう側。
そこは紙で一面が真っ白に染められていた。もちろんその全てが墨で字の書かれた御札で、向きも重なりもお構いなしに、まるで壁の色を覆い隠すことが先決だとでも言うように──びっしりと敷き詰められている。
思わず上を照らした。天井にまで文字が見えた。
「…………ど、どうしましょう……」
わたしはおそるおそる後方を振り返った。その肩から上にかけて特に顕著な身体の震えは、おぞましい数の御札を前にして感じ取った、外敵への異常なほどの恐れや、守りへの執着に対するものだっただろうか。それとも、ここまできてあの化け物を倒せない──あの死と血の支配から逃れることができないかもしれないという懸念が原因だっただろうか。それとも──
ヨヨくんに「生かした意味がない」と判断されることへの本能的な恐怖だっただろうか。
ヨヨくんは少し考え込むようにして唸った。それからふと思い出したように、わたしに「何かあったのかい?」と尋ねた。子供みたいに首をかしげる。
わたしはその時、自分のなかの何かが張り裂け、抜け出て、身体だけが手燭を持ったまま倒れ込んでしまうのではないか、あるいは、何かの
「………………御札が……あります。一面が御札で……たいへんな仕事になります、手も、届かないし、天井にも……」
わたしは顎を震わせながら必死で言葉を紡いだ。歯を打ち鳴らしたら終わりだ、とどうしてだか本気で思っていた。
「ふむ」ヨヨくんは言った。もう何も考え込まなかった。「カコさん、一度脇に避けてくれないか」
わたしは言われた通りにした。狭い踏板の上で
それから何の会話もなしに、カガミさんが階段を上ってきた。わたしが立っている段の一つ下で足を止める。カガミさんはずっと目を閉じていた。
「カコさん、火をこう、横に。カガミの前に差し出すように置いてくれ」
ヨヨくんが右手を伸ばして、同じ形にしろとわたしに指示を出す。
「こう……ですか?」
わたしはカガミさんの顔の前に炎が来るよう、手燭を差し出す。わたしの背丈ではまだ高さが足りないような気がしたけれど、ヨヨくんは頷いた。
「ありがとう。……カガミ」
ヨヨくんがそれだけ言うと、カガミさんは無言で腰をかがめた。
「髪を焦がすなよ。お主の髪は私の
カガミさんの肩口からヨヨくんが顔を出す。それからヨヨくんは蝋燭の火の前で口をすぼめ、ふっと息を吹きかけた。
その瞬間だった。
ボッ、というくぐもった音とともに、一気に視界が赤らんだ。
館が、燃えていた。
手燭の火は消えることなく見えない風に乗って流され、瞬く間に宿の壁に着火していた。
昼間よりも明るいのに、日没間際のように赤く昏いその光景は、ここが地獄の釜の中であるような錯覚をわたしに与える。
パチパチと木の割れるような音がし、周囲を取り囲む炎の揺らめきがわたしの影を震わせる。
わたしは思わず叫んでいた。何するんですか、こんなのって──
みんなまとめて焼き殺そうっていうんですか。この宿ごと。
そんな激情を言葉になるかならないかの瀬戸際で喚いていたわたしを、ヨヨくんがのんびりした様子で宥める。
「そう焦ることはない。ほら、もっと落ち着いてよく見てごらん」
ヨヨくんが高いところを指さして言う。言ったそばから、わたしたちの元には焼け焦げて灰になりかけた御札の破片が、ひらひらと落下してきていた。
それが下階へ舞い落ちていくのを見送る頃には、火の勢いはかなり心許ないものになっていた。やがて手燭の明かりがないと二人の顔も見えないほどになり、視界の赤らみも、心を暴走させるほどの熱気も、何もかもが消え去ってしまう。
夜の暗闇に残されたのは元通りで焦げひとつない綺麗な壁や天井で、御札だけが綺麗さっぱり燃やされていた。
「これが神風というやつだ」
わたしが立ち尽くしている段を軽々と踏み越え、躊躇なく進んでいくカガミさんの頭の上で、ヨヨくんが言った。
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