一考の後の死

死の概念 / 一考の後の死

 さて、自殺に関して一つ考察をお伝えしたいと思う。

 もちろんただの持論である事を前置きしておく。

 まず、自殺未遂と自殺とは別ものであると考えるのがよろしかろう。

 では、どう違うのか。

 「自殺」といふものは、自分の死をもってして、自分以外のものを消し去る行為だと私は考える。

 ただ「自殺」が「未遂」になる事がある。

 これは大変まずいものである。

 一般的に暗い表現を「必要」とする物書きは、落ち込んでいる時、否、谷底に落ちている時に筆をとるのが宜しかろう。

 これまでにない、必要性を実体験する。

 今日はどうして過ごそうか、思い悩んでいる人間は、こちらからすれば、

 まだ、元気である、と認識し得るものである。

 谷底の住民からすると、そもそも「今日」という認識は脳内から

 流れ出している。住民からすると「今は何日だ」とか「今日は何曜日だ」

 でも、まだまだ未来は明るいものであると感じる。

 住民は自分の床にふっしながら、「ここはどこだ」となる。

 最悪の場合、自分は目をひらいた時に、ここはどこだ、の前に、

 ぼんやりと、生きているようだ・・・。と目に入ったものを確認する感じである

 死ぬという行為すら億劫になる。

 冷静になるというと、違和感がある。

 単純に、家に戻ろう。

 生きる事、死ぬこと、どちらも選択肢は見えない、無いまま、その場から離れて家に戻ろうとする。

 ふらふらと足取り重く、来た道を帰るのだが、信号待ちをしていると

 目につく、うどん屋に入り、平凡に注文し平凡に食する。

「温かい」と思うと、馬鹿らしくなり、そこでようやく、生きている実感がわく。

 そもそも論、生きている実感を欲するとは「なんぞや」と思うのだが。

 TVを見ていると「タレントのなになにさんが、亡くなりました」

「先ほどまで、家族団らんで笑顔を見せていたのに、何故」

 と困惑する人がいるが、自分からすると、「なるほど」と首をたてに振る。

 こういう風に考えていると

 一見、冷たい人に見えるかもしれないが、

 仕方がない、心が枯れているのだから。

 漠然よりも漠然と、「死」は身近なものである。

「なるほど」の後は、そうだよね、なんて言葉も口から出る。

 そんな自分に驚く事もない。

「死」にたいなどは、突発的に表れる。

 コントロールが出来るのであれば、自殺者等は地球から零になる事だろう。


 どの世界で君は死にたい?

 暗闇の死?

 明るめの死?

 どこの世界でも良いのだけれども。

 ただ、僕は暖かい場所で眠る様にしたいと思う。

 また、その様を最期まで見つめている人がいるのだとすれば、

 最高の人生だったと思いながら逝ってしまいたいと思うのだ。


 それはたいそう、贅沢だろうが。

 顔色は青く、眉をひそめるような表情では逝きたくないのいのだ。



 とは言え、私は今、死の直面にいる。

 真っ只中だ。

 キラリ輝もの、

 それを、首に押し当てそれで、終わりである。

 抜け目なく、

 少しの抜けも許されない許さない。

 息良いでやるのだ。

 最期の姿をお見せしよう。



 それでは、皆様、ごきげんよう。

 

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一考の後の死 @moro_jkp

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