(第6章) 二人の話
保奈美さんは栞ちゃんの体を優しく受け止めながら、「この先の話を、あなたにも聞いてほしいの。マイクロチップを、外すかどうかの選択の参考にしてほしいのよ。さっき、直美さんと里穂さんの話に出てきた、二人の女性を覚えているかしら」と話し始めた。
「うん。虐待していたお母さんを助けた人と、もう一人は里穂さんの職場の人でしょう。もしかして、その二人もチップを埋め込んだの?」と栞ちゃんは、祖母の顔を見た。
「そうなの。でもね、彼女達は自分の意思でチップを外し、リハビリをして日常の生活に戻った人達なの。詳しいことは、ご本人から聞いた方がいいわね。実は、先ほど、龍さんのご自宅の方にいらして、話のタイミングまで待っていただいてたのよ」
保奈美さんは、すべてを段取り、今日という日を迎えたのだろう。龍さんに案内され、四十代らしき女性二人が、奥から現れた。
一人の女性が、里穂さんの顔を見て軽く会釈をした。この人が職場の同僚、糸田さんなのだろう。ふっくらとして、おっとりとした雰囲気をしていた。もう一人の方は、細身で、少し神経質そうな女性だった。
「向井さんと、糸田さんと、おっしゃいます。どうぞ、お掛けになって。まずは、彼女達との関係をお話ししますね。私達家族は、栞にマイクロチップを埋め込んだ後も、副作用がないか、後々、問題が起こらないか研究を続けました。その為には、実際に他の人で試用していく必要があったのです。それで、社員の家族や知人などから、希望者を募り、使用に関するデータ収集に努めました。そして、そのままチップを埋め込んだ人生を選択する人と、一時的な問題解決の為に使い、のちに外した人との変化などについても、細かく資料を残していきました。外すかどうかについては本人の意思を尊重し、リハビリ施設も作りました。私と主人は、主に、マイクロチップは補助的に使い、人として自分の人生を生きていけるよう、リハビリの方に力を注ぎました。けれど……。娘婿、栞の父親は、マイクロチップの進化と普及に没頭していったのです。それは、お金の為もあったのでしょう。研究費には、膨大なお金が必要だったのです。段々と派閥ができ、二極に分かれていきました。向井さんと糸田さんは、私達の意見に同意してくださり、今でも何かと協力をしていただいています。では、向井さんからお話ししていただけますか」
保奈美さんに促され、向井さんは緊張した様子で、一歩前に出た。
「初めまして。向井千佐子と申します。直美先生、初めまして。風子ちゃんママの若葉さんから、先生のことは聞いてます。こんな形でお会いすることになるとは思いませんでした。実は私も、育児ノイローゼになったことがあるんです。下の子が一歳になる頃から、少しずつおかしくなり、ある時、主人の前で子供に枕を投げつけてしまったんです。それで、心配した主人に、最初は心療内科に連れて行かれました。主人は、保奈美さんご夫婦と同じ研究室で働いていて、その話を職場でしたところ、マイクロチップの試用を勧められたそうです。私は拒否したのですが、薬やカウンセリングでも症状が収まらないこともあり、いずれ外すことを条件に承諾しました。すぐに手術というわけではなく、マイクロチップに適合するかどうかの、あらゆる検査を受けました。なんとか手術が受けられることになり、私も覚悟を決めました。実際にチップを埋めてからは、頭の中がスッキリして、前向きに考えられるようになりました。子供達のことも、素直に可愛いと思えるようになりました。そして、何よりも……自分を信じることができるようになりました。私は幼少期から、ずっと自分を好きになれなくて、いつも人の顔色をうかがいながら生きてきました。それが、大丈夫! 私は私なんだから!と、心の底から、そんな気持ちになれたのです。人生の中で初めてでした。子供達が小学校に上がり、そろそろチップを外さないかと主人に言われても、正直、迷いました。このままでもいいのではないかと……。けど、上の子が、『ママって、よそのママみたいに怪獣にならないね。ちょっと、つまんないな』と言ったんです。きっと、他のお母さんは、感情をむき出しにして、叱ったり怒ったりしたんでしょうね。それを子供達は、『あっ、怪獣だ! 出たぞ!』とはやし立てたりして。それがお互いのコミュニケーションになっているところもあったんだと思います。私は叱ることはあっても、どこか冷静で、教育の一端という考えでしたから。息子の言葉を聞いて、本能のまま子供と向き合いたいと思い、外す決断をしました。手術を受けて一週間くらいは、頭がボーッとして、それから、以前のような、自己否定と不安感が襲ってきました。家族や研究室の方に励まされ、リハビリを続けて、なんとか乗り越えることができました。今では、怪獣ママゴンに戻れてよかったと思っています。リハビリの内容について、私から説明してもいいのかしら?」
向井さんは、保奈美さんの顔をチラッと見た。
「あぁ、そうね。リハビリについては、糸田さんの話の後に私から説明するわ。プライベートの話を聞かせていただいて、ありがとうございました。それでは、糸田さんからも、マイクロチップを埋め込んだ経緯を話していただけるかしら?」
「はい、では……」と糸田さんがゆったりと前に出て、向井さんが下がった。
「初めまして。糸田孝子と申します。私の場合、情けない話なのですが、精神科で看護師をしている内に、自分自身がウツ病を発症してしまいました。ある晩、病院の薬を飲み過ぎてしまい、友人の病院に搬送されたのがきっかけでした。友人は、マイクロチップを埋め込む手術に立ち会ったことがある医師だったのです。このままでは日常生活を送ることも難しくなるという段階で、マイクロチップのことを聞きました。私は未婚で、母親と二人暮らしでしたから、この先のことを考えると、なんとかしないといけない状況にあったのです。すぐに承諾のサインをして、適合検査を受けることにしました。幸い、手術を受けることができるということで、母親もひと安心でした。チップを埋め込み、馴染んできた頃には、ウソのように気持ちが晴々としていました。職場復帰もでき、食欲も出てきて、生きることが楽しくなってきました。『こんなに素晴らしい物があるなら、すべての患者さんに勧めたいくらいだわ』と真剣に思ったほどでした」
そこまで話した時、里穂さんが「それなら、なぜ? 糸田さんはチップを外したんですか?もし、そんな夢のようなものが存在するなら、心の病気なんてなくなるじゃないですか。苦しんでいる人を救えるわ」と、椅子から立ち上がった。
「そうね。里穂さんの言う通りね。でも……。二年が過ぎた頃、少しずつ違和感を感じるようになったの。誰かに管理されているような感覚というのかしら。私の自我が回復してきたからかもしれないんだけど、頭の中に二人の自分がいるような気がして。人によっては、AIの方に自我が沿っていくこともあるし、完全に適合してひとつの人格になっていく場合も、もちろんあると聞いたわ。私の場合は、意識が徐々に分離してきたのね。再手術をして、改善する方法もあったんだけど、本来の自分が『もう一度、自分を生きてみたい』と判断したのよ。それは、毎日、正気と狂気を彷徨いながら戦っている患者さんの姿を見ていたからかもしれないわね。その頃、精神的に安定していた私は、重症の患者さんばかりの病棟を担当していたの。それこそ、マイクロチップを埋め込むことさえできない症状の人達。ベッドに縛りつけられている患者さんもいる病棟。それでも、生きているのよ。狂気の世界から、時々、自分に戻った時の笑顔は、人の心を持った笑顔だった。何が正しいのか、私には分からない。苦しみから救ってくれる魔法のチップ。そのことは否定するつもりはないのよ。ただ、私は、分離を体験したこともあって、以前の自分を超えて生きる決心をしたのよ」
糸田さんは、泣き笑いのような表情をしていた。里穂さんの目にも、涙が浮かんでいる。心を病んだ人達のケアをしている二人だからこそ、理解し合える部分があるのだろうか。なんだか、僕まで泣きそうになってくる。
(AIも、使いようやなぁ。それにしても、リハビリちゅうのは、どないなことをするんやろうな?)
ロンの声が聞こえたかのように、保奈美さんが口を開いた。
「糸田さん、話してくださって、ありがとうございます。孫の決断の参考にもなったと思います。それでは、リハビリについては、私からご説明させていただきますね。一度チップを埋め込み、外した後のケアは、想像以上に大変なことでした。ある意味、その道のりこそ、人としての領域を超えていく試練でもありました。人と神の持つ力の融合とでもいうのでしょうか……その前に、喉が渇いたでしょうから、お水をお配りします」
確かに、喉がカラカラだった。ビックリするような話の連続だからなぁ。いよいよ、本格的な不思議世界に入っていくのかな? 僕は、ちょっと身震いをした。
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