第4話

「Maestro(マエストロ)」④


 1995年。ギムナジウムに入学して三年、ぼくは十三才になっていた。入学以来変わらない日々を過ごしていたけれど、このころから少しずつ状況が変わり始める。入学時には演奏が拙かった同級生たちも少しずつ腕をあげてきて、ぼくとの合奏をしたがるようになった。 パパとママが帰国したときに相談してみると、いろんなひととの合奏も勉強になるので、やってみるといい、と許可をもらった。例の音楽家庭教師のレッスン(とはいえないなにか)の頻度を減らし、週に二度だけ同級生たちといっしょに学内ガーデン片隅のテラス席で合奏をすることになった。 そういえばパパのチェロとママのバイオリン以外との合奏はほとんどしたことがなかった。三年みっちりと練習を重ねたとはいえ同級生たちの演奏はやっぱり拙かったけれども、懸命に音楽を楽しもうとする姿勢は尊いものだな、と感じた。要するに楽しかった。 もともと無口だったぼくは同級生と話す機会があまりなかったけれど、音楽を通じて会話ができることが少し嬉しかった。テンポがズレたらぼくが少し音量を強めてリードしてみたり、逆に同級生がよい感じのフレーズを奏でている際には自分の音でフォローをする。その仕草をおたがいに理解しながら持ち寄った音で楽曲を紡いでいく。 ぼくはバイオリン独奏を主としていたので新鮮な体験だった。ずっと弾き続けていたいけれど、ドイツには休息時間(ルーエツァイト)という法律があるので放課後午後一時までしか演奏はできない。このギムナジウムは特に厳格で屋外だけではなく、ルーエツァイトの時間帯は、気密性の高い防音室でも演奏が禁止されていた。厳密には昼は午後一時から午後三時までが対象時間なので三時以降は問題ないのだけれど、とっくに下校時刻はすぎている時間だし、同級生たちも他の習い事があったのでそれはできなかった。  同級生との合奏をやり始めたタイミングで、ぼくには自由時間が増えた。合奏の日は音楽家庭教師のレッスン(?)がないので、送迎車には夕方迎えに来てもらうようにしていた。 いままでバイオリン漬けだったぼくは、自分ひとりの時間の過ごし方がわからなかったけれど、日が経つにつれだんだんと余暇を楽しめるようになった。  ミュンヘン市街地までトラムに乗って移動をして街並みを楽しんだり、カフェに立ち寄って昼食を摂ったりした。新市庁舎(新、と言っても建てられたのは二十世紀初頭だけれども)の向かいにあるカフェが特にお気に入りで、セージとローズマリーで芳しく仕上げられたチキングリルがとてもおいしかった。新市庁舎を眺めながらの食事は格別だった。 食後は腹ごなしに散策をしてみる。マキシミリアン通りの美しいパステル調な市街地を眺めながら東へと進むと、やがてイーザル川に差し掛かる。その橋を渡った対岸にはプリンツレーゲンテン劇場がある。ワーグナーの作品を上演するために建立された美しい建築物。ぼくもいつの日か、あのステージに立つ日がくるのだろうか。 橋の近くでバイオリン演奏をする男性の姿が見えた。通りすがる人々はだれも足を止めず、怪訝そうな目で彼を見ながら通り過ぎていく。それはそうだ。なぜなら時間はまだ午後三時前、法で定められた休息時間、ルーエツァイトの最中。それでも彼は気にすることなく演奏を続けている。ぼくがなんとなく興味をもって近づいていくと、だんだんとバイオリンの音を聴きとれるようになる。 それはパガニーニのカプリース第二十四番だった。でもぼくが聴いたことあるようなカプリースではない。分散和音部分のスタッカートが音程だけではなくリズムも微妙に跳躍しているように聴こえる。ときおり原曲の譜面にはない半音階も入る。ぼくはいつの間にか、ぼくの中にはない不思議な音楽にすっかり目と耳を奪われる。 ぼくと目が合った彼は満面の笑顔を見せる。演奏を続けるけれど、ぼくの背後に目線を向けたとたん表情が固まる。彼は演奏をやめてそそくさとバイオリンとケースを抱えてプリンツレーゲンテンの方へ向かって橋の上を走っていった。 振り向くとそこには制服姿の警官の姿があった。ルーエツァイト違反は罰金刑。どうやら彼は、それからを逃れるために走り去ったようだ。 「きみの知り合いかい?」 警官がぼくのバイオリンケースを見ながら尋ねてきた。「いいえ(ナイン)」 ぼくはそう答えた。  


つづく

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Maestro(マエストロ) 澤俊之 @Goriath

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