それは大学の通学途中でのできごとだった。

「危ないっ」

　その声を聞いて振り向くと同時に、全身にとてつもない衝撃が走った。

　一瞬で身体は大きく吹き飛ばされ、近くにあったガードレールに激突する。しかしそれだけでは止まることができず、響李は奥の歩道へとゴムボールがバウンドするかのように投げ出された。

　痛みなんてほとんど感じなかった。痛みを感じる前に視界にチカチカと閃光が飛び、続けて嗅覚聴覚が一気に遮断されたからだ。

　その後の記憶なんて当然ない。

　突然の事故。

　それが関口響李の最期だった。

◆◆◆

　ここはどこだ。

　目覚めた瞬間、双眸に飛びこんできた不快な光に響李は眉を顰めた。

「ん……」

　手をかざして光を遮り、薄目を開く。

　どうやら眩しさの原因は、すぐ隣にあった窓から差し込んでいた太陽の光らしい。

「あれ……オレ……？」

　重たい身体を動かし半身を起こすと真っ白なベッドとカーテン、それに清潔そうなタオル、ガーゼや薬品瓶が目に入った。まるで学校の保健室みたいだ。

　確か自分は事故に遭ったはず。ということはここは病院か。そんなことを思い浮かべながらボーッとしていると、不意に近くから声がかかった。

「お、気がついたかリルゼム。体調のほうはどうだ？　梯子から落ちた時、思いっきり頭ぶつけてたけど、気持ち悪いとかないか？」

　声のほうに視線を向ければ、少し変わった格好の見知らぬ男が心配そうにこちらを覗き込んできた。

「え？」

　誰だ、この人。

　襟元が開いた白い麻のシャツに、膝下が細い綿のズボン。そしてロングブーツ。飛び抜けて変だというわけではないのだが、なんだか中世ヨーロッパが舞台の映画に出てくるキャラみたいだ。

「どうしたリルゼム？」

「リルゼム？」

　

　リルゼムって誰だ。どこかで聞いたことがある名前だが、起きたばかりで頭が働いていないせいか思い出せない。

「ここは……？　あの、オレ車とぶつかって、それで……」

「車？　なんだそれ。寝ぼけてんのか？　お前資料室で書類整理してた時に、乗ってた梯子から落ちて気絶したんだよ。ここは医務室。気失ってる間に医者の先生に診てもらったけど、『大きなタンコブができてるぐらいで、別になんともない』だってさ。よかったな、石頭で」

　資料室、書類整理、梯子、落ちて頭を打った。どれも覚えのないことばかりで、徐々に不安と恐怖が込み上げてくる。

「あの、それとリルゼムって……」

「はぁ？　笑えない冗談とかやめてくれよ。それとも頭打って混乱してるのか？　お前はリルゼム。リルゼム＝パルナ。王国法院（ここ）の庶務課で働く、事務職員だよ」

「リルゼム……パルナ……？　うっ！」

　その名を聞いた瞬間、思いきり殴られたみたいな強い衝撃が頭に走った。

　直後、脳内に大量の映像と情報が一気になだれ込んでくる。

　そうして響李はすべてを思い出した。

「そ、うだ……」

　リルゼム＝パルナは響李が事故に遭う日の朝、たまたま妹に借りて読んだ漫画【闇の粛清者は徒花を手折り嗤う】、通称【闇粛】に登場するモブキャラだ。

　【闇粛】は王国法院裁判長のエイドルースが兄の死の真相を探りながら法で裁けない悪辣貴族たちを裏で粛清していく、ダークヒーロー物語である。ジャンルは少女漫画で表紙もキラキラしていたが、主人公が闇夜に紛れて特権犯罪者たちを成敗していく様はなんとも痛快で、最終巻を読了した瞬間には思わず「エイドルース様やばかっこいい！」と口に両手を当てながら悶えたほどだ。だが──。

「お、おい、もう立ち上がって大丈夫なのか？」

　突然、ベッドから飛び出て鏡のもとへと駆けた響李を見た男が、仰天して声を上げる。しかし現実を受け止めきれずパニックに陥っていた響李に、その声は届かなかった。

「う……そだろ……」

　美しく磨き上げられた鏡に映る自分の姿に、響李は絶望の声を零した。

　形のいい丸い頭に、アシンメトリーの黒髪ショート。きらきらとした大きな瞳と口角がきゅっと上がる綺麗な笑顔が印象的な細身男子。見た目だけでいえば完全に主役クラスなのだが、それでもモブだというちぐはぐな存在が鏡の中にいる。

　何がどうなってこうなったのかは分からないが、やはり自分は【闇粛】のリルゼムになってしまったみたいだ。

「マジかよ、なんでオレがリルゼムなんかに……」

　リルゼムはエイドルースの側近で、ともに悪辣貴族を粛正する正義側のキャラである。漫画では犯罪者の情報を探ったり、時に罠を仕掛けて捕まえたりと、補佐的な役割を担っていた。──と、こんなふうに説明するとあたかも物語のメインキャラのように見えるのだが、リルゼムは正真正銘のモブキャラだ。

　その証拠に、彼はラスト直前に【闇粛】のボス・宰相の手によって、あっさり殺されてしまう。

　そんなキャラになってしまったということは、つまり。

「いやいや、オレ、殺されるとか絶対嫌なんですけど！」

　未来で待つ最悪な結末を思い出した途端、全身に寒気が起こった。そして同時に凄まじい拒絶と怒りもまた、腹の奥底から湧き上がってきた。

　大事故に遭った現実だけでも辛いのに、別の人間になって不幸確定の人生を送らなければならないなんて冗談ではない。漫画のエイドルースが格好いいのは知っているが、響李にとっては命をかけるほどの相手でもないし、真相とか世直しとか自分にはミリも関係のない話だ。

　漫画のように確固たる信念でもなければ無理だと、首をブンブンと大きく振ったところで響李はふと思い出す。

「あれ？」

　そもそも、リルゼムはなぜエイドルースに協力していたのだろうか。漫画では側近として当然のごとく最初から隣にいたけれど、モブだからか詳しい説明なんて一つもなかった。

　リルゼムは庶民で、王国法院の一般事務員。貴族であるエイドルースの屋敷で働く使用人でもなければ、昔からの知人関係でもない。

　そう、接点がまるでない二人なのである。

「は？　縁もゆかりもない人間のために死ぬとか意味分かんないし！　ってかアイツ、オレに身体寄越すんなら、大事なこともちゃんと教えとけよ！」

　別にリルゼム本人から託されたわけでもないが、いきなり死亡エンドキャラにされた挙げ句、肝心要の過去が何も分からないのだ、愚痴りたくのも仕方ないと思って欲しい。

　中学生のころに見た異世界転生アニメではどの主人公も皆、その世界の情報だったり転生先のキャラの情報を熟知していた。だから異世界でも生きていけたのだし、活躍だってできたのに。

　今の自分には漫画ベースの情報しかない。これではほぼ詰んだようなものではないか。

「…………ん？　いや、待てよ」

　悲観に暮れる中、響李はハッと気づく。

　今ここにいる自分は外見はリルゼムであるものの、中身は日本人大学生・関口響李のままだ。漫画のリルゼムはエイドルースを崇拝していたようだが、自分の中にそのような感情はない。

　ということは、別に無理して漫画と同じルートを進まなくてもいいのではないか。

　こちとら平和に染まりきった日本で育った人間である。どれだけ軟弱と罵られようが第一は自分の命。これだけは絶対に譲れない。

「よし、オレはオレの人生を楽しもう！」

　起死回生の一手を見つけた響李は、思いきりガッツポーズを決めた。

　第二の人生は、絶対に安全安泰安寧に生きたい。いや、生きてみせる。

　そう強く決意する響李の背後で、同僚が「リルゼムが頭打っておかしくなった」と全身を恐怖に震わせながら壁の影に隠れていたのは、最早言うまでもない。