10 世界の終焉
霧が立ち込める夢の世界の片隅で、クロードは静かに目を閉じていた。手の中で転がす小さな石は、わずかに温かみを帯びている。浄化の石と呼ばれるそれは、数日前から教団のメンバーたちと共に作り上げてきた結晶だった。
「これで、終わりにできる」
独り言のように呟いた言葉に、確かな手応えがあった。
濃密な霊気の中に、邪気を限界まで集めきった手紙を入れると、霊気は一気に結晶化した。
霊気は性質上周囲の邪気を吸い、溜め込む。
その霊気の石は、周囲の邪気を吸い尽くし、彼らが集めてきた数千の未練が封じ込められている。その純度は驚くべき水準に達していた。
「準備は整ったようですね」
声の主は、影から現れたカイトだった。12歳の少年の姿をしているその存在は、常に静かな微笑みを浮かべている。その瞳の奥には、年齢不相応な冷たさが潜んでいた。
「ああ、これだけの純度の邪気があれば、確実にシステムを崩壊させることができる」
クロードは立ち上がり、窓の外を見やる。夢の世界の空には、相変わらず無数の星々が瞬いていた。それらは生者たちの霊気と邪気が形を変えた存在だと知っている。やがてそれらは全て、この浄化の石によって吸収され、世界を崩壊させる力となるはずだった。
「でも、まだ何かが足りない気がする」
カイトの言葉に、クロードは無言で頷いた。確かに、まだ何かが足りない。システムを完全に崩壊させ、ソラに決定的な打撃を与えるためには、もう一つの要素が必要だった。
「私の妻の……マリアの未練だ」
その名を口にした瞬間、胸の奥が締め付けられる感覚があった。死してなお、彼女への想いは消えることがない。むしろ、その想いこそが彼を突き動かす原動力となっていた。
「奥様の未練は、特別な力を持っているということですか?」
「ああ。彼女は私への想いが強すぎて、現の世界に囚われている。その未練は、通常の何倍もの邪気を含んでいるはずだ」
クロードは窓辺から離れ、部屋の中央に置かれた地図に目を向けた。そこには夢の世界の詳細な見取り図が描かれており、要所要所に印が付けられている。
「現の世界との境界が最も薄くなる場所は、この大河の流れる場所だ。そこで彼女の未練を取り込めば、浄化の石は完成する」
地図を指差しながら説明するクロードの声には、かつての行商人としての冷静さが戻っていた。
しかし、その表情の奥底には、決して消えることのない激しい感情が渦巻いていた。妻への想い、システムへの憎しみ、そして何より、この歪んだ世界を創り上げたソラへの怒り。それらが全て、浄化の石という一つの結晶の中に封じ込められようとしていた。
「教団のメンバーたちにも連絡は済んでいます。彼らはそれぞれの持ち場で、準備を整えているはずです」
カイトの報告に、クロードは満足げに頷いた。彼らの存在なくして、ここまでの準備は不可能だった。一人一人が強い未練を抱え、そしてそれを力に変える術を心得ている。その集合体としての力は、もはやソラの創造の力すら凌駕する可能性があった。
「では、行動開始の時刻を決めましょう」
クロードは再び浄化の石を手に取り、その表面を撫でるように触れた。石の中で渦巻く邪気が、彼の指先に反応するように震えている。
「明日の夜明け前、大河の流れが最も静かになる時刻だ。その時を待って……」
言葉の続きを飲み込んだクロードの目には、決意の色が宿っていた。これまでの全ては、この瞬間のために積み重ねてきた準備に過ぎない。そして明日、全ては終わりを迎えるはずだ。
カイトは静かに頷き、再び影の中へと消えていった。部屋に一人残されたクロードは、机の上に広げられた古い一枚の写真を見つめた。そこには、妻のマリアと共に微笑む自身の姿が写っている。
「もうすぐだ、マリア。この歪んだ世界を、私が正してみせる」
その言葉には、もはや迷いの色は見えなかった。たとえそれが、世界の崩壊という結末をもたらすとしても。クロードの心は、既に決して揺るがぬものとなっていた。
窓の外では、星々が普段よりも強く輝いているように見えた。まるで、明日訪れる激変を予感しているかのように。クロードは最後にもう一度、準備の確認に取り掛かった。一つの見落としも、この計画に致命的な影響をもたらしかねないからだ。
「手順の確認をしよう」
クロードは机の上の羊皮紙を広げ、そこに書き記された手順を一つ一つ目で追っていく。浄化の石の起動シークエンス、結界の展開、そして最後の……。
「ソラとの対決」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が重く沈んだように感じられた。創造神との直接対決。それは、誰もが避けてきた禁忌に他ならない。しかし、もはやそれ以外の道は残されていなかった。
「このシステムは、始めから歪んでいた」
クロードは窓際に立ち、遠くに見える巨大な時計塔を見つめた。死者たちの手紙が行き交うその場所こそ、システムの中心だった。未練を解消させるという建前の下で、実際には死者たちを永遠の檻の中に閉じ込める装置。
その歪みに気付いてしまった以上、もはや昔のように大人しく従うことはできない。たとえ、それが世界の崩壊を意味するとしても。
「私たちの想いは、決して消えはしない」
独り言のように呟きながら、クロードは準備を続けた。夜が明ければ、全ては始まる。そして、終わる。
この世界に存在する全ての未練と共に。
---
夜明け前の大河は、いつもより深い闇に包まれていた。水面に映る星々の光も、いつもより弱々しく揺らめいている。クロードは河岸に立ち、浄化の石を掲げた。
その瞬間だった。
「待っていたよ、クロード」
声の主は、大河の上空にいた。白い衣をまとったソラが、静かに降り立つ。その姿は相変わらず神々しく、まるで光そのものが形を為したかのようだった。
「やはり、私の計画に気付いていたんですね」
クロードの声に、わずかな笑みがソラの唇に浮かぶ。
「世界の創造主として、これくらいは見抜かなければね」
ソラの言葉に、クロードは浄化の石を強く握りしめた。石の中で、数千の未練が渦を巻いている。その力は、既にソラの霊気と共鳴を始めていた。
「でも、最後まで止めなかった。なぜです?」
「君の痛みを、あたしは理解しているつもりだからよ」
その言葉に、クロードの瞳が激しい怒りの色を帯びる。
「理解? 笑わせないでください。あなたは何も分かっていない」
クロードが浄化の石を掲げた瞬間、大河の水面が激しく揺れ動いた。水中から無数の光の粒子が立ち昇り、それらは全て石に吸い込まれていく。
「これが……私の妻の未練」
光の粒子は、マリアの強い想いの具現化だった。その一つ一つが、クロードへの愛情と未練を形にしたもの。それらが浄化の石に吸収されるたび、石は不気味な輝きを増していく。
「クロード、その石を使えば世界は崩壊する。君の妻の想いも、永遠に消えてしまうんだよ」
ソラの警告に、クロードは冷ややかな笑みを浮かべた。
「違います。この石は、彼女の想いを永遠に残すための器なんです」
その言葉と共に、クロードは石を大河に向けて突き出した。刹那、激しい光が辺りを包み込む。大河の水面が割れ、そこから巨大な亀裂が夢の世界全体に広がっていく。
時計塔が轟音を立てて崩れ落ち、街並みが歪み始める。空に浮かぶ星々が、まるでガラスが砕けるように次々と割れていく。
「見てください、ソラ。あなたの作り上げた偽りの世界が、崩れていくのを」
クロードの声には、もはや感情の色は感じられなかった。それは、ただ事実を述べているかのような冷たい響きだった。
「確かに、あたしの世界は完璧ではなかった」
ソラは静かに目を閉じ、両手を広げる。その手から、純粋な白い光が放たれ始めた。
「でも、それは人々の想いと共に作り上げてきた世界なんだ」
光は次第に強さを増し、クロードの放つ邪気と激しくぶつかり合う。二つの力が交錯する空間で、現実が歪み始めた。
「私には、もうあなたの言葉は届きません」
クロードは浄化の石を胸に押し当てた。その瞬間、石に封じ込められた全ての未練が彼の体内に流れ込んでいく。
激しい痛みと共に、無数の記憶が脳裏を駆け巡る。見知らぬ人々の悲しみ、怒り、絶望。そして、その全ての中心にある、マリアの想い。
「これが……私の求めた力だ」
クロードの体が、邪気の塊と化していく。その姿は既に人としてのものではなく、純粋な憎悪の具現化とでも言うべきものだった。
「残念だよ、クロード」
ソラの声が響く。しかし、それはもはやクロードの耳には届かない。彼の意識は、ただ一つの目的に向かって収束していく。
世界の崩壊。そして、新たな秩序の確立。
大河の水面が完全に割れ、そこから漆黒の闇が溢れ出す。夢の世界と現の世界の境界が崩れ、二つの世界が混ざり合い始めている。
時計塔の残骸から、無数の手紙が舞い上がる。それらは空中で炎となって燃え盛り、その灰が闇の中へと消えていく。
「これで、全てが終わる」
クロードの声が、世界の崩壊音と共に響き渡る。その瞬間、彼の体から放たれた邪気が、ソラの光を押し返し始めた。
創造の光が、少しずつ、確実に、消えていく。
そして世界は、終わりの時を迎えようとしていた。
クロードの口元に、かすかな勝利の笑みが浮かぶ。
まるで、全てを見通していたかのように。
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