第3話 憧れの矢は、きっと愛を射抜くんだ

 二十一歳になれば、いっそう精神的なものを得てぴしゃりと生きていくようにおのずからなっていくと思い込んでいたのは間違いだった。よわい変われど魂は変わらず。誕生日を迎えたかどうかで人間変わりはしないのだ。当たり前だ。ただ、周囲の知己が僕の誕生日を認識して、儀式的にでも祝ってくれるというのがあんなにも多かったのは前例にない。何人かはちょっとしたプレゼントをくれて、嬉しかった。


 誕生日の翌日には以前から企画していたクリスマスパーティーをやって、大成功だった。僕はつまらぬことで悩んでいたのだ。つまらぬことだ。こうして日々充実といった様相を呈してくると、そうした些細なことはだんだんとどうでもよくなってくる。自分が淋しい人間だとか、なんとか。そうしたことを種々の理屈をもって言っていると、眼前に広がる幸福も分からぬということなのだ。SNSなんかで遠い誰かのことを一生懸命に侮辱し罵倒しているような人々は、ほんとうの不幸だ。幸せな人間は、なかなかTwitterを見る暇もないのだ。僕は信頼できる者も何人か得て、困ったら誰某に相談しようなんてつもりもあるくらいだ。パーティーの後に何人かで飯を食べて、公園で飲める者は飲んで話してとしていると、僕の二十一年の中で最も幸せだと心底満足した。


 僕は感激した。激怒した。僕は愚かだった。理屈を捏ねて屁理屈を並べて人と人との交流なんぞを見下してはいたが、心の健やかなりというのはこうしたところから湧き上がるのだ。僕がこうした温もりを享受できるようになるまで、とても長い日々が必要だった。それは修養だったのかしら。今思えば、そのような感じがする。飢えを凌いで嵐に耐えて、他者を愛するということを知る。畢竟、これまで僕は駱駝だったのだ。重荷を好んで背負い、また背負わされた重荷に、肩に乗った重力に肯いてやるのが僕だった。殊に、前の恋人なんかの話をすればますますそうなのだ。僕はそのとき、愛の上ではなく、神聖なる義務の上に。否、それは愛でもあったのかもしれぬ。過去の己に祝福をしておこう。僕は、彼女のために耐えていた、一切の苦痛を。その大いなる忍耐の精神は、それ自体に肯く精神だ。ところが、僕は彼女を見捨てる決断をして、気高い孤独に身を投げるつもりだった。実際そうだったのだ。それが先輩と会って交友を持って、考えが改められた。さて、高貴さとはなんだろう。そして、高貴のアントはなんだろう。高貴のアントは、傲慢だ。


 高貴さとは、他者を愛することなのではないか。少なくとも僕にとってはそうなのではないか。礼節が人間を涵養するのは、礼節がすなわち愛だからではないか。これが僕の愛の形なのか。自分を苦難の中に投げ入れ、高みへと投射し、自己を乗り越えた先に、「神が死んだということ」を告げたニーチェの先に、神の栄光があった。間違っても、僕が悔い改めてキリスト教に入ったなどと思わないでくれ。僕の神は、その神を殺した神だ。そして、僕に今殺される神だ。さて、元カノさん。ここでもう本当にお別れだね。高貴のアントは傲慢だ。下賤であることとは、精神的に怠惰であることをいう。憧れの矢は、きっと愛を射抜くんだ。他者を愛することを欲するが故に、礼節と義務を喜んで引き受ける者が貴族だ。他者を愛することを知るために、彼らは、僕らは勉強せねばならない。心を広く持たねばならぬ。


 高貴さとは、己をより高いところへと投射し、つまり自己を絶えず超克し、そしてその意志が権力の輝きを帯びて、迷える子羊の上に腰を下ろすさまのことだ。


――全ては愛によって。

 高貴さとは、それ自体を受け継ぐことによって研ぎ澄まされた義務感、noblesse oblige高貴なる者の義務 を身に染み込ませ、そしてそれを果たすことだ。


――全ては愛によって。


 今、僕の神は、私の智慧、私の力、私の欲求、その根源の女性、つまるところ性の女神、つまりは私の身体は、まことの意味にて神と成りぬ。ここに新たな掟を刻んだ石の板が掲げられて、僕は無為なる幸福にあった。


「I love all of you, you know?」


 酒の入った僕は恥ずかしげもなくこう言ったが、酒が入っていなくても思っている本音だ。僕は皆のことを愛しちまって仕方ないんだ。これは、神の祝福かしら。訝しむ。訝しむけれど、やっぱりこれは祝福だ。あれほど憎んでいた他人との交流も、恨めしくて羨ましくて仕様がなかった弟のことも、いちどは殺したくて仕方なかった親のことも、もう一生しないと思った恋愛だって、今は全てが愛おしいんだ。大学も、サークルも、他の全てだって全然幸せなんだ。満足なんだ。全く同じ人生を無限に繰り返すような重み、すなわち永劫回帰の重みの下でも、僕はこう言うんだ。


「これが人生か。ならばもういちど!」


 だからこそ、僕はここで再度自己を見つめ直さねばならないよ。満足したよりも不満足な人間だ。キリスト教を批判したニーチェを飛び越えて、ニヒリズムを克服して、自分が掛けた石の板には、神の栄光が宿っていた。それは愛の光、言葉である。はじめに言葉があったのだ。そして最後にも言葉がある。


 高貴さよ、僕が貴女を愛するように、貴女も人々を愛することだ。

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精神貴族 神鷹慧 @Albion_U_N_Owen

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