ナギサと翔伍
箱女
01 島の外の女の子
夏休みの初日には島は必ず晴れた。
海も山も森も好きだった。同じく危険を備えていて、こっぴどく叱られても翔伍は足繁く通った。とはいえこれは翔伍に限らない。島に生まれれば男女を問わずに同じ道をたどるのが常だった。みんな危険な目に一度は遭う。次は気を付けて出かける。そしてまた危険な目に遭う。そのあたりで考えを改めたり気を付ける方向性を変えたり、楽観視するかに分かれる。翔伍は実は二つめだった。
きょうの翔伍の目的は海だった。泳ぐのももちろん好きだったが、それとは別種の楽しみを眺めることに見出している。誰かが海を眺めるためだけに作ったとしか思われない秘密の場所。翔伍はひとりでここを見つけて勝手に受け継いだ。
海が平らに消えていくのが好きだった。太陽が思うさま力を振るって海面を殴りつけるのを見るのは理由もわからずスカッとした。不規則に揺れる波に合わせてきらきらと海原が輝く。ときおり強烈な光が翔伍の目を刺した。空が特別なら海も特別になる。何を待っているわけでもないのに翔伍の胸は期待に膨らんだ。
落ち着きのない性格に反して海を見つめるときだけ翔伍は静かになった。時間さえ忘れることができた。
滲む汗が玉になって幾筋も頬を伝っても翔伍は身じろぎもしなかった。ただじっと片膝を立てて海と空に向かい合っている。しかしいずれその時間も終わる。なにしろ翔伍はまだ中学一年生だ。腹が減れば本能には逆らえない。そこについては翔伍はカッコをつけるつもりはない。食事を抜いたってロクなことにはならないのだ。
行きとは違う遠回りの道で家へと向かおうと考えた。翔伍が横目に見たいのは港だった。港と言っても船着き場程度の規模感だが、翔伍はその景色にも期待感を抱いていた。船が着く。出て行く。それがいい。そのことに意味がある。どんな意味がかはわからないが、翔伍は物心つくころにはそう思っていた。
秘密の場所から港に向かうには海を右手に低い山を下ればいいのだが、人目につかないところだけあってまっすぐは向かえない。そもそも切り立った崖に位置しているせいで、闇雲に進むと命に関わる事態に陥るかもしれない。だからすこし海からは離れて好き勝手に繁った緑の中を下っていく。一歩踏み入るだけで別世界だ。根本的に匂いが違う。種々の植物や、土、獣の放つ匂いが渾然となって花や果実の甘い匂いを覆う。そうなるとその甘さが悪く作用して気分が悪くなる。むっと押し付けるような恩着せがましい匂い。翔伍はげんなりしながら先を急いだ。通り過ぎてしまえばなんでもない。
やがて翔伍は木々がその場所だけは避けたような、ぽっかりと空いた草地にたどりついた。山の終わり。となればあとは海のほうに出て海岸線を歩けばいい。そちらのほうへ視線を振る。その途中で何か見慣れないものが視界に入った気がした。
急いで視線を戻すと、少女が立っていた。腰を細いベルトで留めたワンピース姿の少女が翔伍のほうを見ている。黒目がちで手足が細長く、身体の作りがまだどこかアンバランスな印象を与える。しかし言いようのない存在感があって、その場にいると引力のようなもので視線が引っ張られる。どうしたことだろう、もともと木が生えていない草地というだけのはずなのに、彼女が立っていることで邪魔な木が追いやられてしまったように錯覚してしまう。翔伍はそんな少女を呆けたように見ていた。
お互いに思考の介在しない、ただ見るだけの空虚な時間が流れる。
「あんた、島の人?」
少女が沈黙を破る。
「おう。お前は……、旅行か? 島じゃ見ねえし」
「違うわ」
「じゃあなんだ……? 引っ越しか! この島に!?」
「もっと違う」
少女は首を横に振った。軽く背中に届くくらいの黒髪がさらさらと揺れる。奇妙に非現実性が翔伍に迫って来る。これしきのことで日常の一部であったはずの通り道がこれほど変貌を遂げるだろうか。翔伍はもっと幼い言葉でこんなことを考えていた。
「どういうこった。旅行じゃねえ住まねえだとなんで来たんだ?」
「教えてもいいけど、あんたあたしを見てもわかんない?」
すこし首を傾けて手を後ろに組む。急にそんなポーズを取ればふつうは変に思いそうなものだが、彼女の場合は異様に馴染む。うまく消化できない現象を目の前にし、さらに翔伍はその少女が誰なのかを考えた。結論は早い。わからなかった。この島で見たことがないならそれで終わり。知り合いではないのだ。
「わかんねえよ。見たことねえんだもん」
「あっそ。ま、別にいいわ。あたしナギサ。漢字だと読みにくいから音だけで覚えたほうがいいと思う」
「おう、ナギサだな。おれ翔伍。よろしくな。いつまでいんの?」
「さあね。ちゃんとは知らない。でもしばらくいるわ」
「ふうん。ゆっくりしてけよ。本土に比べたらなんもないけど、たぶん自然はきれいだし魚も新鮮で美味いから」
「ま、それなりにね」
そう言ってナギサは身を翻した。驚くべきことに後ろ姿でさえ周囲の自然を押さえつける存在感は保たれている。木々も草も空もただ存在しているのではなく、彼女を際立たせるための役に徹していると勘違いしてしまいそうになる。足元の若い緑色をした草地が似合い過ぎているせいで、翔伍はナギサが島の住人だったかもしれないと記憶違いを一度だけ疑った。
そして翔伍が下りてきたのとは違う、山のほうに続く道へナギサは抜けていった。その後ろ姿が見えなくなって、やっと翔伍は自分の口が開きっぱなしだったことに気が付いた。
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