支笏湖ブルー 君が泣くから僕も泣く

雨京 寿美

第1話  消えてゆく

 ほら、また泣いた。

 君が泣くと、僕も悲しくなるよ。


「亮……」

 きゃしゃな声で、あゆみが僕を呼ぶ。

 肩にかかる髪を両耳にかけ、形のいい耳たぶをピアスが飾る。


「楽しかったね。また、北海道ほっかいどうに来よう」


 寂しげにあゆみが首をかしげる。耳で揺れるピアスは、昨日、僕が贈った支笏湖しこつこブルーのガラス細工だ。水面みなもに映る白い雲が練り込まれ、あゆみのあごのラインで揺れていた。


「僕の顔を見ていないで、景色を見なよ。一番きれいな時間だよ」


 僕は、紅葉で赤く染まる山々を指さした。


「ノースレイク観光バス」は、座席が広めだ。「支笏湖温泉湖畔」で、観光船を楽しんだ宿泊客を乗せ、札幌さっぽろのホテルを目指す。


 あゆみは3Dの窓側、僕は通路側の3Cに座る。


 座席は指定で、今日の乗客は三十二人だ。

 そのうち後方の席には、二十人の団体客が座っている。

 湖畔のもみじやかえでの色合いを目に焼き付け、色あせないように眠る客が多い。



「みんなお疲れだ。あゆみは?」

「眠りたくない。――ずっと、ここにいたいの」

「ずっといたら、東京に帰れないよ」

「支笏湖がいいの」


 あゆみが首をふると、僕の予想通り涙が落ちる。

 僕はため息をいてから、あゆみの顔を眺めた。


 僕とあゆみは、中学時代のクラスメイトだ。


 出席番号は和久井わくいあゆみが二十九番、僕は渡辺わたなべりょうなので三十番だ。番号順に整列をする第一位は体育館で、僕の前にはいつもあゆみがいた。


 夏服は、かなり刺激的だ。


 正直、校長の話がまったく入ってこない。僕の視線は、つま先、小ぶりの胸を支えるブラのホック、そして校長のカツラだ。


 三拍子ではない。

 ブラウスから透けて見えるブラのホックが長い。

 心身共に思春期真っ盛りの十四歳、僕は、あの頃からずっとあゆみが好きだった。



 あれから十年が経った。



 小ぶりの胸は、僕の手のひらサイズに成長した。中学時代、何かの揺れで「外れろ」と念じたブラのホックは、僕の指でカチッっと外れる。


 あゆみは、誰よりも僕の味方で、手強い敵になった。きっと、喜怒哀楽のスイッチが同じ場所にある。この十年、あゆみから貰った時間は僕の宝物だ。


「何度も言うよ。僕は幸せなの」

「亮……」


 涙が落ちても、あゆみの瞳はブルーだ。次の水たまりが揺れている。


 プロポーズをした日でさえ、こんなには泣かなかった。

 大事な台詞を、二回噛んだのがいけなかった。

 練習は三回噛んだ。当社比だが、企業努力を認めてほしい。

 

 きっと、次の十年は家族が増えていたかも知れない。


 僕は、害のない夫になる。嗜好品はコーヒーぐらいで、ギャンブルは年末の福引きに命をかけよう。


 浮気は……


 言葉を濁すと、あゆみの口角が少し下がる。僕はあゆみの視線を交わし、首を何度もふった。


「僕にそんな勇気はない」

「過ちって、勇気がなくてもできるよ」

「何が必要なの?」

おろかさ」

「ああ、いっぱいあるね」


 泣きながらでも、この話題には食いつくのか……


 取りあえず、涙はおさまった。


 陽が落ちる前に、あゆみに伝えるべき話がある。

 いや、伝えなければいけない。

 時間は無限ではない。いずれ男が動き出す。



「亮……ちょっと変なの」


 あゆみは、座席から顔を覗かせ辺りを見まわす。


「なにが見えたの?」

「――違う。見えないの。後ろの席の人が、みんな消えている」

「そう……」


 僕のために、君のために、話の続きをしよう。


「ねえ、あゆみ? バスにいる人達に話かけてごらん。

 大切なことを、教えてくれるかも知れない」


「大切なことって……」


 あゆみは、乗客の数に違和感を持ったのか不安な顔だ。


 バス車内で、ずっと笑っている男三人を見つけると、あゆみは軽く頭を下げる。笑顔を返してくれたのは、通路を挟んで同じ並びの大学生だ。


 バスに揺られて間もなく、三人は携帯でゲームを楽しみ、女の子の話で盛りあがり、疲れたのか窓際の二人は眠りに落ちる。


 眠るきっかけを逃したのは、「無口な男」だ。友人の話をニコニコ聞いて、同じタイミングで笑っていた。



「三人は、仲良しですね」


 あゆみの問いかけに、「無口な男」は、頭を下げた。


「高校時代からの友人です。気のいい奴らですよ」

「そうですか、これからも長いお付き合いになりそう」

「ええ、『一生の友』です」


 男の声は低いが、おだやかな口調だ。男は幼いころからいじめられっ子で、味方は寝ている二人だけだと笑う。旅行に誘ってもらい、楽しかったと携帯の写真を見せてくれた。


 温泉で「ナイス二頭筋にとうきん!」と言いたくなるような、上半身裸で三人はポーズを取る。僕等が笑うと、「無口な男」も笑う。画像を眺め名残なごり惜しそうに閉じると、自分の携帯を眠っている友人のポケットに入れた。


 ねえ、あゆみ? 


「一生の友」なんて、そう簡単には見つけられない。

 きっかけは、いじめかも知れない。心も体も傷ついた彼には、助けに入った二人が輝いて見えた。中学の時、君が僕をかばってくれたようにね。


「ねえ、亮?」

「ん?」

「人が消えていくの……」

「誰?」

「あの人の友人。窓際で寝ている二人」

「そう……」


「無口な男」は、ずっと友人を眺めていた。

 懐かしそうに、泣きながら眺めていた。


 バスの窓がくもり出しても、二人の男は眠ったままだ。


 窓の水滴が髪を濡らすと、次に体を溶かし、影を溶かし、すべての痕跡こんせきを水に変える。そして、「無口な男」を座席に残し、二人の姿は消えていった。

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