第31話 小さな傷と実験結果
八分という制限時間は本当にギリギリだった。
乗ってから気づいたけど、バスは何本もあるわけだからわざわざ間に合わせる必要はなかった。
これでティーユが腹黒いと証明された。わかっていたからいまさらだけど。
バスに乗ると、まだ揺れには慣れていなかった。それどころか、悪化しているようにも思える。とにかく気持ち悪い。
「ん……?」
バスが大きな縦の波に乗ったとき、わたしは違和感を覚えた。
「どうした?」
「なんかちょっと痛みを感じたような……」
「ケガでもしたのか?」
「どうだろ。どこが痛いのかわからないし」
「ちょっと見てみろよ」
「うん」
わたしは右肩、右腕、左肩、左腕と順々に見ていった。特に異常はなかった。
ティーユに首と背中を見てもらったけど、問題なかったとのこと。
首元を軽く引っ張ってワンピースの中を覗いてみる——大丈夫そうだ。
「上半身じゃねぇなら下半身だな」
「そうだね」
わたしは靴を脱いで足を片方ずつ確認した。別になんともない。
ワンピースの裾を少しだけ引き上げ、右足首から右膝、左足首から左膝と見ていくと、左膝の裏側に小さな傷があった。
「あった。ここケガしてる」
「草地で寝っ転がったときに尖った何かがあったのかもな」
「さっきまで血が出てたみたい。今はもう乾いてるけど」
「そうか。なら平気だな」
痛みは感じても、どこが痛いかわからない。傷の程度によっては気づけるのかもしれないけど、この傷みたいに小さいものだと見えないところにあったら気づけない。
悪化するまでわからないかもしれないと思うと、ちょっと怖い。
ただ、ケガをしてよかったこともある。わたしにも赤い血が流れているとわかったのだ。クローンではあるけど、人間に変わりないことがわかってなんだかうれしい。
「あっ……」
「詩か。おっ、ちょうど——」
ティーユの声が途切れた。
バスに揺られながらで大丈夫なのかと思ったけど、わたしは入り込んでくる別の意識に身を預けた。
*
旅の途中で迷い込む
寝台の森の底なし沼
足が床がと声を上げ
謎のお祭り騒ぎあり
前に前にやかましく
冷たい視線に頭下げ
想像力の権化となり
日進月歩の宇宙開発
黒の刀を天へと掲げ
城の周りを取り囲み
主人を守る彼らは侍
いま幻影の戦国時代
黒の縄は空に広がり
世に安寧の網を張る
有象無象は拍手喝采
灰の心中は蚊帳の外
人を友にと意を決し
己が魅力を理解する
近づく者には幸福を
離れる者には現実を
秘めた
天上天下に名を残し
染めた心で策を練り
金銀財宝ザックザク
背を早み乱の幕開け
他を忘れ哀は五月雨
地を踏み散の段々畑
期を逃れ聖は型崩れ
原の上で耳目が消え
木の葉が風を知らせ
水の魂をつかみ取り
血の代償で人となる
*
「ふぅ……終わった。さっきなんて言おうとしてたの?」
「聞こえてなかったか。博士から連絡があったからちょうどよかったって言ったんだ」
「じゃあ今すぐ戻して!」
「へいへい」
ティーユが電磁波を放ち、わたしの触覚は元に戻った。
「うわうわうわ……体が……体を感じる……」
「大げさだな」
「体験しなきゃわからないよ。肌にワンピースが当たる感覚に、取っ手の冷たさ。それと、この揺れに対応しようとしている感じ。幽体離脱から戻ったらこんな感じなのかなぁ……とか思っちゃった」
「なに言ってんだか」
でも本当にそうだった。徐々に戻るわけではなくいきなり体が戻ってきた。そんな感覚になるのは臨死くらいじゃないかと思う。知らないけど。
「そうだ、博士から研究所に帰ってくるよう言われた。ホテルに戻ったらすぐ準備しろよ」
「えっ?」
「あたりめぇだろ。四感実験は終わったんだ」
「……そっか、そうだよね」
四感実験はこれで終わり。五感すべてを消失したのだから当然だ。
なんだか実感が湧かない。博士から聞いたわけじゃないからかな。
バスが駅前に到着し、そこから歩いてホテルまで戻った。
部屋に入り、少ない荷物をささっとまとめて部屋を出た。
「忘れ物はないよな?」
「うん、大丈夫」
わたしたちはエレベーターで一階に降り、フロントでチェックアウトの手続きをしてホテルから出た。
そこまで荷物が多いわけではなかったけど、ティーユがタクシーを呼ぶという気遣いを見せてくれた。疲れていたから助かった。
タクシーに乗ってから少し経って雨が降ってきた。傘は持っていなかったから運がよかった。
触覚が消えている間に雨に降られたらどうなっていただろう。そんな疑問が浮かんだけど、当たっていることに気づかないことで悲しさが増すだろうなと思った。
しばらく外を眺めていると、研究所の近くに到着した。目の前まで頼まなかったのは、なるべく存在を薄くしたいのだと思う。
空はもう泣いてはいない。通り雨だったのだ。
「帰ってきたな」
「だね」
検査で一度だけ戻ってはいたけど、懐かしく感じる。やっぱりここが帰ってくる場所なのだろう。
扉を開けると、目の前に白衣が見えた。博士だ。
「戻りました」
「おかえり。今は疲れてるだろうけど、いろいろ話すことがあるからこのまま付き合ってくれるかい?」
「……はい」
わたしたちは博士に連れられ、はじめてティーユに会った部屋に来た。
「まあ座ってくれ。まずは四感実験に協力してくれてありがとう」
「いえ」
「実験結果についてだけど、これは僕よりも君のほうがわかるはずだから、最終的にどうなったか教えてくれるかい?」
「……わかりました。わたしはこの実験を通して、記憶が戻ることはありませんでした」
「そうか……」
「ただ」
「ただ?」
「断片的にですが、博士が出てくる夢を三回見ました。今まで言ってませんでしたけど」
「そ、それは本当かい!?」
「あ、はい」
「そうか……」
今の反応から察すると、実験の成果はゼロじゃなかったと言える。少しホッとした。
「それで、その夢はどんな感じだったんだい?」
「三回のうち二回は起きてる状態で見たので夢と呼べるかはわかりませんが、一回目は初日にお風呂に入っていたときでした」
「お風呂?」
「はい。湯気にわたしの知らない光景が映し出されたんです。高校生の博士が手を差し出して名乗っていました。相手は女性で、手が白かったのでおそらく前に言ってた転校生だと思います」
「ほう……」
「二回目は夢でした。味覚の実験中に梅干しとレモンを買ってホテルに戻り、そのままベッドに倒れ込んだときのことです」
「梅干し……レモン……」
「博士が小さい女の子に梅干しとレモンに疲労回復効果があることを教えていました。その女の子はよくわかってなさそうでした。夢はこれで終わりです」
「な、なるほど……」
「そして三回目。嗅覚の実験中にシューズショップに行ったときのことです」
「靴屋か……」
「博士が小さい女の子に足を洗ったかどうか聞いて、女の子は洗ったと言ってましたが実際は洗ってなかったという感じです。これが頭の中に流れてきました」
「そうか……」
今わたしは自分に驚いている。こんなにもスムーズに思い出すことができるとは思っていなかったのだ。
「ちなみにその小さな女の子だけど、二回とも同じ子だったかい?」
「あぁ、はい」
「そうか……」
博士の表情から哀愁が漂っているように感じる。あの女の子とは何か関係がありそうだ。
「もうひとつ確認させてほしい」
「どうぞ」
「君がそれらの夢を見たとき、視点はどうなっていたんだい?」
「視点……?」
「ああ。例えば、上から俯瞰で見ていたような感じだったとか」
「そうですね……いま思えば三つともすぐそばにいたと思います」
「はぁ、やっぱりそうか……」
「えっ」
泣いている……?
これは気のせいじゃない。博士の目から涙がこぼれている。
「ど、どうしたんですか?」
「いやぁ、あはは。ごめんごめん! とりあえず報告ありがとう」
「い、いえ」
「君の報告からもわかるように、それぞれの感覚で君の脳にはかなり刺激を与えることができたようだ。僕の予想を上回る成果を得られた。本当にありがとう!」
「役に立てたのなら幸いです」
わたしはそこまで力になれたとは思っていなかったけど、博士の表情からは失敗という感じがしない。とりあえずはよかった。
そういえば自分がクローン人間だと知った夜、記憶が戻ることによって本当の意味で自分を知ることができる、と博士は言っていた。そして戻らなかったとしても実験が終了したら教えてくれるとも言っていた。
「博士」
「なんだい?」
「さすがに覚えているとは思いますけど、知る権利を行使してもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。ただそれについては細かく話さないといけないから、場所を移そう」
「わかりました」
「ティーユはここに残っていなさい」
「おう」
どうしてティーユを置いていくのか疑問ではあったけど、いつでも聞けるから今はいいかと思い、わたしは黙って博士の背中を追った。
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