第28話 想像の力
ベッドから降りようと床に足をつける。ただこれだけの動きでも、とてつもない違和感がある。
「ねぇこれ……ほんとに足ついてる?」
「見りゃわかるだろ」
「いやそうだけど……」
たしかに足はついている。そう見える。でも、足の裏が床に触れている感覚は皆無だ。そもそも足の裏があるのかすら疑いたくなる。
こんなことになるとは想像もしていなかった。たとえ想像できていたとしても、それをはるかに上回る衝撃を受けると思う。
そして、気づいたことがもうひとつ。ティーユが冷たい。もちろん物理的にではない。精神的にだ。
触覚が消えてすぐのときはわたしの震える感情を抑えてくれたのに、以降はずっと冷たく感じる。もしかしたら気のせいかもしれないけど、なんだか遠くに感じるのだ。
「なんつう顔してんだ」
「えっ?」
「その悲しげな顔だよ」
「悲しげ……」
たしかに悲しい気持ちはある。けど顔に出るほどのものじゃない。心の中に留めておける……その程度なはず。
それでも顔に出ているのは、触覚が消えたことで自分の表情をコントロールできなくなっているのだろうか。
「それって触覚が消えてることに関係してる? たとえば表情をうまく作れないとか」
「ない」
「即答……」
「運動神経は関係ないからな」
「そっか」
だとすると、わたしが自然と表情を変えてしまうほど悲しんでいたということになる。
いやいやいや、それは絶対にない。ティーユに対してそこまでの感情はない。これは他に何か理由があるに決まっている。
「あっ」
「あ?」
もしかしたら、オリジナルの感情が前に出てきたのかもしれない。
詩を歌えば歌うほどわたしの中にオリジナルの要素が戻ってきていて、それが勝手に反応するくらいになっているのかも……。
そんなことが本当にあるのかは知らないけど、今はそうだと思っておこう。
「あってなんだよ、あって」
「いや、なんでもない」
「変なやつだな」
「変でけっこうコケコッコー」
「おぉ……化石を発見した気分だぜ」
「ねぇそれどういう意味?」
「なんでもねぇ、気にすんな。それより、とりあえず立ってみろよ」
「……そうだね」
わたしは恐る恐る立とうとした。
「うわうわうわっ! これ床ある?! ほんとに気持ち悪い!」
「床がなかったらそこにベッドはねぇ」
「そうだけど! でもそういうことじゃない!」
「いいから立て。このままじゃ日が暮れるぞ」
「もう……うぅ……これ、ちゃんと立ててる?」
「そんなん下見りゃわかるだろ」
「……ははっ、立ってる! わたし、立ってる!」
「いちいちうるせぇ」
床の上にいることはいるけど、足がついているとはとうてい思えない。そろそろ目も疑いたくなる。
「上出来だ。次は歩いてみろ」
「えっ、もう!? もうちょっと待ってよ」
「いいや、待たない」
「そんなぁ……」
「こういうのはさっさと体験して慣れたほうがいいんだよ」
「じゃあアンタはやったことあんの?」
「あるわけねぇだろ」
「なら黙ってて! わたしはわたしのペースでやるから」
「へいへい」
さて、ここからどうしよう……。
どうやったら歩けるのか。そもそも今までどうやって歩いていたのか。
気にして歩いたことなんてあるわけがない。だからわからない……。
しばらく茫然と立っていると、横から「まだですか?」と声が聞こえてきた。
なぜ丁寧語なのか。わざとイラつかせようとしているのか。
「少々お待ちくださいぃぃぃ!」
「はぁ……」
真顔から出るため息がこれほど腹立たしいものだとは思ってもみなかった。今すぐつかんで振り回してやりたい。
ダメだ。このままだとわたしの中の鬼がどんどん表に出てきてしまう。冷静にならなきゃ。わたしは大人なんだから。
「あっ、そうだ」
わたしはある方法を思いついた。今までの実験でもやっていたこと——想像だ。こういう場合は想像に助けてもらえばいい。
床を感じないから歩けないなんて、そんな馬鹿な話があるわけがない。
床はある。この目で見える。ただわたしがそれを感じないだけ。
ならいっそ床のことなんて考えなければいい。足のことなんて考えなければいい。
わたしは前みたいに歩ける。特に気にしていなければ、前みたいに普通に歩ける。
自分が歩いている姿を想像しながら、わたしは足を前に出した。
出した……? いや、出した。出した出した出した!
「やればできるじゃねぇか」
「えっ……あっ!」
夢中になっていたから気づかなかったけど、わたしは歩くことに成功した。
「やった、歩けた! わたし、歩けた!」
「だからいちいちうるせぇって」
数歩くらいではあるけど、ベッドから離れていた。わたしはたしかに自分の足で歩くことができたのだ。
「人類にとっては小さな数歩でも、わたしにとっては大きな数歩なの!」
「大げさだ。ここは月面じゃねぇぞ」
「月面……?」
「はぁ? ニール・アームストロングのセリフに似せたんだろ?」
「……あっほんとだ、あはは」
「わかってて言ったんじゃねぇのかよ」
「たぶん心が震えるほど感動したら勝手に出るんだよ。船長もそんな感じだったんじゃない?」
「知るか!」
このあとしばらくは喜びの余韻に浸っていた。
そして気持ちを整え、ホテルの部屋を出ることにした。
「ようやく外に出られるな」
「お待たせいたしましたー」
「俺はいつもどおりお前の肩に乗ることを忘れるな」
「あそっか。ちょっと待って、いま準備するから」
「なんのだよ」
「いいから」
わたしはティーユが肩に乗っているところを想像した。
いつもと同じように、わたしの肩の上にはおしゃべりカメレオンがいる。
「よし、いいよ……ってもう乗ってるし!」
「遅いんだよ」
「はぁ、まあいっか。特に問題なさそうだし」
ティーユが肩の上に乗っているようには感じないけど、肩の上にいるから乗っている。そう思えばなんてことない。
というか、そもそもほとんど違和感がない。これまであまり気にしていなかったからかもしれない。
「なんで笑ってんだよ」
「えっ、笑ってた?」
「ああ」
「そう……まあ気にしないで」
「けっ。ならさっさとドア開けろ」
「はいはい」
わたしは部屋の扉の前まで来た。そしてドアレバーに手をかける。
「うん、つかんでるね」
「いちいち言わなくていい」
「確認だよ、確認!」
「ふんっ」
レバーを下げ、いつもどおり開ける……。
「うわぁ、すっごい変な感じ」
とりあえず開けることはできたけど、自分の力がちゃんと伝わっているのか不安になるくらいおかしな気分になった。
「そういえば聞き忘れてたけど、今のところ記憶は戻ってないよな?」
「あぁうん、全然」
「そうか」
「正直それどころじゃないよ。歩くので必死だし」
「だからか」
「えっ?」
「歩くのが遅すぎる」
部屋を出てから数分とはいえ、たしかに進んでなさすぎる。
このままでは本当に日が暮れてしまう。
「でも、まだ怖いんだよ」
「何が?」
「歩くたびに落ちるような気がして……」
「そんなわけないだろ」
「そうだけど、そう思っちゃうんだよ。やっぱりそう簡単には慣れないって」
「そりゃそうだ。簡単に慣れてもらっちゃ実験にならねぇ。むしろ困れば困るほどいい」
「イラつく……」
「おいおい、忘れたのか? これは全部お前の記憶のためにやってんだぞ」
「それくらいわかってるよ」
「じゃあ困りながら早く歩け」
「ひどすぎでしょ……」
勘違いじゃなかった。やっぱりティーユが冷たい。
どんどん悪辣になって、しまいには悪魔になるんじゃないか。そんなのはごめんだ。悪魔と一緒に実験なんてやっていたら、こっちの身がもたない。
わたしは可能な限り足を動かし、普通に歩いていると思い込み、なんとかエレベーターに乗ることができた。
一階に着くまでは数十秒ある。今のうちに心の準備をしておこう。
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