第17話 辛いは辛い

「これ以上はあまり意味がなさそうだから、もう終わりでもいい気がするけど」

「まだあるだろ」

「えっ?」

「忘れたとは言わせないぞ。辛味だよ、辛味」

「うぐっ……」


 そう、辛味。

 ティーユによると、わたしは辛さにめっぽう弱いらしい。もちろん、わたしにそんな記憶はない。

 辛いと言われてすぐに思い浮かぶとすれば、血に染まったような色をしたスープ。

 それをこれから自分が口にすると思うと、全身が痺れるような感覚に襲われる。足の先から頭の先まで、ビリビリという音が聞こえてきそうだ。これも条件反射なのだろうか。


「で、でも今は味覚がないわけだし、もう試しても意味ないんじゃないの?」

「いや、むしろ最も意味があると言える」

「どうして?」

「味覚で感じられるものは、甘味・塩味・酸味・苦味・うま味の五つ。辛味は含まれていない」

「えっ、そうなの!? じゃあ辛いって何?」

「それは痛みだ」

「痛みって……わざわざ痛い思いまでして食べたいって思う人がいるの?」

「ああ、世の中には大勢いる」

「意味わかんない」

「辛いものを食べると、脳はその刺激に対して体が負傷したと認識する。そしてその痛みを和らげようと、ある神経伝達物質が分泌される。それが脳に快感をもたらし、その経験が繰り返されると、気づけば食べたくなるってわけだ」

「ふーん」

「別に食べなくてもいい。お前の脳に刺激を与えるためには、食べておくべきだとは思うがな」

「はぁ……はいはい、食べますよ。食べればいいんでしょ、食べれば」


 わたしの記憶を戻すためには必要なこと。そう思えばなんだってできる……と思う。

 あとは辛いというのがどういう感じなのか。今はまったく想像ができない。ただ、先に聞いても食べる勇気を失う可能性がある。今はこのまま進むしかない。


「お前ならそう言うと思って、もう店は探しておいた」

「仕事が早すぎる……」

「高性能ロボットだからな」

「そうですね」



 わたしたちはティーユが見つけたお店にやって来た。ここは激辛ラーメンが人気のお店らしい。

 入り口のそばにある券売機を見ると、辛さのレベルがいくつかあるのに気づいた。わたしの指は当然のように、いちばん低いレベルに向かった。


「おいおい、せめて中辛にしろよ」

「なんでよ。めっぽう弱いんでしょ?」

「辛さ控えめにして刺激が少なかったらどうする。お前にとっては食べ損だろ」

「まあそうだけど……」

「自分の限界に近いレベルのものを食べれば、強い刺激は約束されてるんだ」

「でもその限界が控えめレベルだったらどうするの?」

「それは食べなきゃわからないだろ? 無駄に終わらないためには最低でも中辛にすべきだ」

「たしかに……」


 ティーユにうまく言いくるめられた気がするけど、結局わたしは中辛(ミニサイズ)の食券を買い、それを持って自動ドアのボタンを押した。


「うっ……」


 店内には辛味成分が漂っているのか、目と鼻に少しだけ刺激を感じた。

 空気中の成分にやられそうになるくらいだから、わたしの限界は最低レベルなのかもしれない。食べる前から心が折れそうになる。


 わたしは食券を店員さんに渡し、カウンター席からいちばん離れたひとり用のテーブルに座った。

 そしてラーメンが来るまでは無言で待った。


「お待たせしました」

「ぐっ……あ、ありがとうございます」


 幸か不幸か、待ち時間はそこまでなかった。

 目の前には赤く染まった汁が。その中に浸かる麺や具材が、もがき苦しんでいるようにも見える。

 香りも強く、目と鼻にさらに刺激を感じた。


「ちょっとこれ危険じゃない?」

「かもな」

「アンタねぇ……」

「来ちまったもんはしょうがねぇだろ。解放されたきゃさっさと食べろ」

「鬼か」


 わたしはそばに置いてある割り箸を手に取り、覚悟を決めてパキッと割った。

 そして麺を一本だけつかみ、恐る恐る口に運んだ。


「……あれ? 意外といけるかも」


 そう思ったわたしは、そのまますぐに数本すすった。


「ゴホッ、ゴホッ……うぐっ……なにこれ、時間差攻撃?」

「よくあるやつだな」

「先に言ってよ!」


 舌が焼けるような感覚がする。額からはじわじわと汗が出てきた。


「痛いし熱いし熱いし痛い!」

「落ち着けよ」

「無理!」


 これは味どころではない。味覚があったとしても、この辛さ以外に感じるものはないんじゃないかとさえ思う。


「なら水でも飲んどけ」

「そうだそうだ」


 わたしはコップの水を口いっぱいに含み、痛みが和らぐのを待った。

 すぐに消えることはなく、しばらく時間がかかった。

 そしてなんとか落ち着いたようで、口に含んだ水を飲み込んだ。


「ふぅ……助かったぁ……」

「大げさだな」

「ロボットにはわからないよ」

「ふっ、まあな。一応コツみたいのは教えられるが、知りたいか?」

「知りたい!」

「我慢しながらいっきに腹に注ぎ込むんだよ」

「なにそれ……」

「ちまちま食べてたら防戦一方。戦いが長引くだけだ」

「なるほど……」


 たしかにティーユの言うとおりだ。このままゆっくり食べていても終わりは見えてこない。ここはもう、根性で乗り切るしかないんだ。


「たったいま博士から連絡があった。そのラーメンを食べ終わったら味覚の実験は終わりだそうだ」

「やったぁ……といっても詩がないと意味ないけどね」

「まあ今は考えるな。とにかく食べることに全神経を注げ」

「わかった」


 わたしは深呼吸をして、麺をぐいっとつかみ取り、いっきにすすった。

 痛い。舌が燃える。汗がこぼれる。寒気もする。

 飲み込み、すすり、飲み込み、すする。

 これでなんとか麺は食べ切った。


「あとはスープだな」

「よし……」


 唇が二倍くらいに腫れている気がする。でもそんなのはどうでもいい。このスープを飲み干せば、わたしの勝ちだ。

 幸いにも、スープの量はあと少し。お腹の中にある麺たちが吸ってくれていたのだろう。ミニサイズにしてよかった。本当に。


 わたしは器に両手を添え、ゆっくりと口に近づけた。

 そして目を閉じ、いっきに流し込んだ。


「ぐぁぁぁ……」

「水飲んで耐えろ」


 簡単に言ってくれる。でもそれしか耐える方法はない。

 わたしは残っていた水を氷ごと口に入れた。


! んんんいける!」

「は?」


 氷がかなり役に立ち、そのまま耐え抜くことができた。


「勝った……わたし、勝ったんだ……」

「よくがんばったな」


 辛さから来たものか、うれしさから来たものか。わたしはぽろぽろと涙を流した。

 そして突然、頭の中に詩が流れ込んできた。こんなところで大丈夫だろうかと思ったときには、もうわたしの口は動き出していた。



 *

 心を満たすひとつの幸福

 消えても無感の少女あり


 知らせのない腹の虫

 知らぬが仏の己の体


 自然と笑みがこぼれるはずも

 ぶっきらぼうに終わった小包


 軽くあしらうかくれんぼ

 重くころんだだるまさん


 海へ遊びに来たものの

 足に当たるは川底の石


 酸性雨に泣く銅像

 通り雨に喜ぶ彫像


 わずかに感じた喫茶店

 オセロに負けた常連客


 深まる友情

 高まる鼓動


 みんなで行こうよ田舎町

 変わらぬ風景ありがたや


 郷家ごうかに身を置く小さな鬼

 おててつないで地獄の門


 悪事に染まった手などない

 業火に焼かれる義理もない


 いのちからがら光を見つけ

 思い出こぼれるおみおつけ

 *



「はぁ……いまさらだけど、大丈夫だった? 周りの人に怪しまれてない?」

「問題ない。お前は今の今まで普通に食べてる人にしか見えてないから」

「そう、ならよかった」


 安心したら急にのどが渇いた。

 わたしは水差しからコップに水を注ぎ、いっきに飲み干した。


「あっ……」

「あ?」


 心身ともに落ち着いたからか、わたしは水のちがいに気づいた。


「いま気づいたんだけど、この水、ホテルのとちがう」

「ほう、どんな感じで?」

「こっちはなんか柔らかい感じで、ホテルにあったのはもうちょっと硬かったと思う」

「この店は軟水、ホテルは硬水ってことだな」

「同じ水でも感覚が変わるってなんかおもしろい」

「人間と同じだな」

「深いね」

「ふんっ。じゃあ詩も出たことだし、味覚を戻すか」

「あ、そうだった。お願い」


 あれだけ辛い思いをしても、結局わたしの記憶は元には戻らなかった。かなりの刺激はあったけど、薄々こうなるだろうとは感じていた。

 それでも、いい経験にはなったと思う。この実験がなければ、わたしがこんなに辛いものに弱いこともわからなかったわけだし。


「あっ、おいしい……」


 わたしの味覚は元に戻った。口に残ったわずかな戦利品を添えて。

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