第29話 平原の覇者――紅き猛牛
プレイド平原に響いた咆哮の方向を定め、アルスとマルタはその方角へ向かって歩き始めた。平原の草が風に揺れ、足元の土は柔らかく沈み込む。咆哮はすでに止んでいたが、平原全体に漂う緊張感は消えることがなかった。
アルスはいつも以上に周囲を警戒しながら進む。背中には剣を背負い、右手は常に柄に触れられるようにしている。その隣で、マルタは足取りも軽くアルスの後を追っていた。彼女の顔には好奇心の色が濃く、少しも恐怖を感じさせない様子だった。
「おい、さっきはあんなにビクッとしていたが、もう怖くないのか?」
アルスが冗談交じりに声をかけると、マルタは振り返って小さく笑った。
「だって急に大きな音がしたらびっくりするでしょ? でも怖いってわけじゃないもん!」
そう言いながら、彼女は平原を軽快に走り抜けていく。その姿はどこか楽しげで、まるで冒険そのものを楽しんでいるようだった。
「……まったく、緊張感がない」
アルスは短く息を吐き、彼女の後を追おうとした。その瞬間だった。
後方から、鋭い殺気が突き刺さるようにアルスの背中を襲った。
「……っ!」
瞬間的にマルタの名を呼ぶ間もなく、アルスは咄嗟に彼女の方向へ跳び、腕で抱え込む。そのまま大きく横へ跳躍し、地面に転がりながら衝撃を吸収する。すぐに振り返ると、地面を鋭くえぐりながら突進していく巨大な影が視界に飛び込んできた。
それは――紅き猛牛だった。
紅き猛牛は、その名に違わぬ姿をしていた。表面は紅く染まった毛に覆われているが、その色のほとんどが乾きかけた血によるものだ。戦った痕跡と無数の犠牲者の血が体毛にこびりつき、さらなる不気味さを放っている。
その巨体はゆうに10メートルを超え、強靭な筋肉が全身に盛り上がっていた。横に広がった角は、先に行くにつれて鋭く尖り、内側に寄る形状をしている。それは突進だけでなく、敵を刺し貫くための完璧な武器だった。
紅き猛牛の瞳は漆黒で、その奥には凶暴さと狂気が渦巻いている。その目で周囲を睨みつけるだけで、空気が一層重くなった。口からは泡立った涎が垂れ流され、地面に滴り落ちている。それが湿った土を腐食させているようにも見えた。
鼻から勢いよく白い息が噴き出すたびに、猛牛の興奮がさらに高まっていくようだった。蹄は巨大で、地面を引っかくたびに土を大きく抉り、力の余韻を平原全体に伝えている。
アルスはその姿を一瞥しながら、剣の柄に手を置いた。全身の筋肉が無意識に緊張し、戦闘態勢に入る。
「……あれが紅き猛牛か」
その呟きに、自分自身も信じられないような表情が浮かぶ。噂以上の巨体と威圧感。これまでに経験したモンスターたちとは明らかに一線を画していた。
だが、その緊迫した空気の中で、隣からふと無邪気な声が聞こえた。
「わぁ、おっきなお牛さん!」
マルタだ。彼女は目を輝かせながら紅き猛牛を見つめ、両手を角のように頭に当てて『もぉ~』と鳴き真似を始めた。紅き猛牛はマルタの真似に呼応するように鈍い鳴き声でこちらを威嚇してくる。額には血管が浮き出て、漆黒の瞳は次第に血走り始めた。アルスも危険だと思ったのか、マルタに注意喚起を促した。
「……おい、ふざけるな」
アルスは呆れた声を出したが、マルタは全く気にしていない様子で、地面を蹄のように足で掘る真似までしてみせる。
「ねえ、見て見て! 私もお牛さんになったよ!」
「緊張感のない奴め……」
アルスはため息をつきながら剣を強く握り直した。紅き猛牛はそんな二人をじっと見据えながら、次の動きを伺っているように見えた。
「マルタ、ここからは俺に任せて、下がっていろ」
「えぇー、でも――」
「いいから!」
アルスの一喝に、マルタはしぶしぶ下がりながらも、目の前の巨大なモンスターから視線を離さなかった。その瞳には恐怖もあったが、それ以上に、何かを見極めようとする意思が宿っていた――
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