第24話 ビリングズゲートの記憶

ダンが向かった先はテムズ川に面した魚市場のビリングズゲートだった。


今日は金曜日で、しかも時間は朝の七時だ。


魚屋や仲売人が引けたあと、週末で懐具合が寂しい職人のカミさんたちを狙って、ビリングズゲートには呼売商人の手押し車がどっと押し寄せていた。


「最高のタラだ、最高のタラだ! 市場で最高、舌に入れてもニュルニュル動く最高のタラだ! 新鮮、新鮮、新鮮だ!」


「燻製ニシン、燻製ニシン、食って元気、あっちも元気な燻製ニシン! 奥さん、買っていきな、こいつは旦那との夜に最高だ!」


「ヒラメ、ヒラメ、美味しいシタビラメ、美味しいヒラメは五枚でたったの一ポンド! 買ってけ、買ってけ、旦那、こいつはお買い得だぜ! ドロリー・レーンで性病買うぐれえなら、こいつを買いな!」


「さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、まだウヨウヨゴニョゴニョ動いてる、活きのいいロブスターがどっさりだ! こいつはいいよ、うまいよ、お買い得だよ! さあさあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!」


「満員御礼、満員御礼! ウナギは最高、ウナギはうまい! 精がつくウナギがなんとまあ、この値段でご奉仕提供! こいつは買うっきゃねえな、奥さんよ! こいつを食って旦那とヤリまくり! 満員御礼、満員御礼!」


魚市場は蜂の巣を突いたような狂騒に包まれていた。声を張り上げることこそが己のすべてといわんばかりの呼売商人たちに、そんな連中に騙されてなるものかと商品を品定めするカミさん連中だった。


お気に入りのジーンズを履いてきていたダンは、少し後悔し始めていた。最後にここに来たのはひったくりで糊口をしのいでいた十歳の頃だ。


だから忘れていた。


(こいつはくせえ)


ビリングズゲートは魚、貝、燻製ニシン、塩茹でのエゾバイなど様々な臭いでいっぱいだった。ちょっと歩いただけで魚の汁が服にかかって、たちまち生臭い臭いに染まってしまう。


魚市場に来れば、こういうことになるのをよく知っているのだろう。よく見てみれば、道行く人々は誰もがひどい服装をしていた。


(こいつはたまんねえな)


魚を売っている納屋のような暗い建物。その向こう側の明るく開いた部分から見える、テムズ川の牡蠣取り船のもつれた索具。船乗りの赤い帽子、真珠のようなヒラメの腹や、スパンコールのようなニシンの鱗、ロブスターの藍色の山。


ビリングズゲートは色彩と生臭さに満ち溢れた場所だった。


その臭さに閉口しながら、ガキの頃の記憶を頼りに、テムズの埠頭沿いにずらりと並んで停泊している牡蠣取り船の長い列のほうへと歩いていく。


通称、牡蠣街――ビリングズゲートの中でも牡蠣売りに特化しているその一角は多くの人で満ち溢れていた。


船乗りや牡蠣取り人、運搬人や仲売人、料理人に腹を空かせたカミさん連中に労働者たち。四個一ペニーで、力も精もつく牡蠣は貧乏人たちに人気のある食べ物だった。


屋台に群がるカミさん連中や、一仕事終えた仲売人や労働者連中を押しのけて、腹ペコの胃を満たすべく、ダンはありったけの牡蠣を注文した。ぼったくり価格で同時売りされているビールもしこたま買い込んだ。


こちらの大量買いに目を丸くしている他のやつらを無理やり追い散らして、屋台の脇に設えられた樽の上に、戦利品をドサリと置いた。


真珠色に輝く殻の中に、ミルク色の粒。そいつに別料金のビネガーと胡椒をたっぷりとかけて、チュルンと一口。


(こいつはぶっ飛んでるな)


口の中にたちまち広がった豊かな風味に、ダンは舌鼓を打った。


その余韻が消えないうちに、喉を鳴らしてビールをジョッキで一気飲み。それからまた牡蠣の山に取りかかる。


ビール、牡蠣、ビネガー、胡椒、ビール、牡蠣、ビネガー、胡椒……そのコンボにダンが夢中になっているときだった。


「このクソガキめ!」


向こうのほうで声が聞こえた。空になった無数の殻を積み上げつつ、新たな牡蠣にむしゃぶりついていたダンは顔を上げた。


見れば、牡蠣の屋台の店主が一匹のガキの襟をつまみ上げていた。その光景をひと目見ただけで、ダンにはすべての事情が牡蠣のようにつるんと飲み込めた。


(馬鹿野郎だな)


牡蠣街はビリングズゲートの中でももっとも騒々しい区画だった。人が押し寄せ、どこまでが屋台で、どこからが道なのかわからないぐらいの区画だ。そんな狂騒を狙って、良からぬことを図るクソガキ連中もいる。


(だが、そいつは悪手だ)


新たな牡蠣にビネガーと胡椒をたっぷりとかけてチュルンと飲み込みながら、ダンは思った。


商人連中は抜け目がない。自分の有り金にすべてを賭けている連中だ。そういうやつらの懐から金を盗もうと思っても、隙はない。


やるなら、むしろカミさん連中。どうやって得な買い物をしようかということに夢中な馬鹿どもは、意外に手元が疎かだ。この牡蠣街を、ガキの頃の稼ぎ場にしていたダンにはそのことがよくわかっていた。


だが屋台の店主につまみ上げられたガキは、そこらへんの理解が甘かったらしい。屋台の商人の金を直接狙ったガキは、立派な体格をした店主に締め上げられていた。


だが、店主が馬鹿ガキを引っ捕らえる様子を見ていたダンは呆れてしまった。


(こいつら、馬鹿か)


ビリングズゲートでの不埒な真似は警察に突き出すのが普通だが、それとは別にビリングズゲートの中での、貧乏人の中での法律というものが存在する。


金持ち連中からすれば意外に思えることらしいが、貧乏人というのは、存外親切で、自分と同じ境遇にある者には優しくなるものだ。


だからこそ、その中での掟を破った者には容赦がない仕置を加えられるし、そうでなくてはならない。そうでなければ、貧乏人は貧乏人から盗むことに味をしめてしまうからだ。


しかし、自分の金を狙われた屋台の店主は甘い男だったらしい。たくましい腕でガキの襟首をつまみ上げながら、困った顔をしていた。


普通なら、店主は、ビリングズゲート独自の法律によって、このガキを公衆の面前でしばかなければならない場面のはずだった。そうしなければ、ああ、あの店ならイケるな、とまた同じように舐めたガキが自分の屋台に現れるはずだったし、安全安心に買い物ができるビリングズゲート全体の治安を守るためにも、店主は凄惨な仕置をガキに加えなければならなかった。


だが、ガタイのいい店主はガキの襟首を積み上げたまま、困った顔をしてみせるだけだった。キョロキョロと助けを求めるように泳ぐその視線は主に、ガキの身体に向けられていた。


痩せ細りすぎて、男とも女とも知れぬガキの身体だった。肋骨が浮き出ていて、つまみ上げられたシャツの隙間から見える乳首のあたりには肉がまったくない。乳房があるのかないのかもわからないほどだった。


ブツブツとなにかをつぶやくようにその口が動いているが、なにを言っているのかはわからない。しかし、そのガキが今、生きるために懸命な努力をしているのは明らかだった。呼吸していることさえ信じられない、痩せた肋骨が生きるために必死に動いていた。


それだけならば、なにも気にならなかった。こんなふうに死にかけている痩せたガキならば、イースト・エンドのそこら中にいる。自分もその一人だったし、そんなことをいちいち気にしているようならば、この界隈で生きていけなかった。


――だが。


そのガキのツラが、ダンには気に入らなかった。


そのガキはどこかでやられたのか、隻眼だった。痣だらけの殴られた跡で、腫れ上がった片目が塞がれていた。


その姿を見て、不意に、あの男の声が脳裏に蘇った。


(てめえも、隻眼か……ならちょうどいいや。てめえをおれの弟子にしてやるよ)


ダンは舌打ちした。


ガキをつまみ上げたまま、困った顔をした店主に声をかける。


「いくらやられた?」


「えっ?」


「いくら盗まれたかと聞いたんだ」


「い、いや、そんなたいした額じゃねえ。え、えーと、二シリング程度か。だから別にそんな――」


「うるせえ」


店主につまみ上げられたガキに向かって、ダンはボディブローを決めた。あっ、という店主の声とともに、ガキは牡蠣の汁で汚れた石畳の上にあっけなく落ちた。


ガキの痩せた肋骨に向かって、ダンはラグビーキックを数回決めた。ガキはボロクズのように路上に転がった。ダンは息を荒くしながら店主に向かって言った。


「一シリング」


「……えっ?」


「二シリングだろ? やられたのは。だったら、おれには一シリングだ。てめえの代わりに始末をつけてやるよ」


実際のところ、こんな銀貨をもらってももらわなくても、ダンには大差ないことだった。大量の金貨が動くのがウィザード・トーナメントであり、凄まじい額の値段でカードが売り買いされるのがトーナメント・プレイヤーの生活というものだった。それに比べれば、こんな場末の騒ぎにかかる銀貨など、たいしたものではなかった。


だが、そういうわけにはいかない。


馬車の御者連中が恐ろしげに噂する界隈、金持ち連中に至ってはその存在さえ認めようとしないロンドンの闇――イースト・エンドにはイースト・エンドの掟というものが存在する。


ダンは店主から一枚の銀貨を受け取って、ガキを誰もいない路地裏のところへと引きずっていった。


軽く当ててやっただけの蹴りだったが、痩せ細ったガキにどんな影響があるかはわからなかった。


だが、ガキは息をしていた。しかもそれなりに元気があるらしい。こちらに怯えながら、這いつくばって逃げようとするガキに、ダンはさっき店主から頂戴した一シリングを投げつけた。


「次はもうちょっとうまくやりな」


もぞもぞと毛虫のように逃げるガキの背中に、そう声をかけたときだった。


「あんた……やっぱり赤毛の野良犬か」


懐のデッキホルダーに手をやりながらさっと振り返ってみれば、そこにいたのは牡蠣の屋台の店主だった。


路地裏に朝日が差し込んでいた。店主のガタイはその光に映し出されて立派な陰を作っていた。


その姿にふと、記憶が刺激された。


「前に……会ったか?」


「ああ……あんたが今よりもずっと小せえガキの頃にな。あのときのあんたは〈赤毛〉のダン・ギャラガーじゃなかったし、今をときめく〈十二匹の怒れるゴブリン〉デッキ使いじゃなかった。あの頃のあんたは……ただの赤毛の野良犬だった」


新聞かなにかで今のダンのことを知っているのだろう。牡蠣売りの店主の優しげで哀しげな声にふと、昔の記憶が蘇った。


――ざけんな、殺してやる、てめえら全員ぶっ殺してやる。


――おうおう、威勢のいいこった。どうだい、旦那。このガキの始末、おれに任せちゃくれねえかい。


(ああ、そうか)


目の前で懐かしげに目を細める牡蠣売りの店主を見て、ダンは思い出していた。


どうして今日に限って、このビリングズゲートを訪れたのかはわからない。二日酔いを癒やすためだけなら、普段はカードショップに行ってまたタワーに挑むか、そうでなければイースト・エンドのどこかの居酒屋で飲んだくれているはずだった。


だがそれでもここに足が向いてしまったのは、そういうことなのだろう。ダンはペッと唾を吐き捨てた。二日酔いのムカムカとした腹のムカつきがまた襲ってきていた。


(クソジジイめ)


ダンの脳裏にはあの男の姿があった。


それは十歳のガキの頃から八年以上経った今でもダンを支配する、忌まわしい男の記憶だった。

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