第22話 野良犬

シェリル・トンプソンが涙を静かにこぼし、審判が勝敗を告げたその瞬間を、ダン・ギャラガーはプレイヤーズクラブの壁際のスクリーンで黙って見ていた。


(ヘインズが勝ったか……)


ダンの胸の内では様々な思いが渦巻いていたが、それを表面に出すことは一切なかった。


革張りのソファに深く座り、肘掛けに頬杖をつき、テーブルの上に足を投げ出す。その様子は、はたから見れば、Cランク・プレイヤーとは思えないほど図々しく、そして堂に入ったものだった。


プレイヤーズクラブはトーナメント・プレイヤーならば誰もが使える空間だ。


ここに来ればいつでも、専用の使用人が上等な料理と酒と葉巻を提供してくれるし、革張りのソファにゆったりと身体を預けながら、他のプレイヤーの試合を観戦することもできる。


そんな上質なときを演出してくれるプレイヤーズクラブだったが、その一角を悠然と占領するダンの態度に腹を立てたのだろうか。


一人の男が苛立った様子でダンに話しかけてきた。


「おい、〈赤毛〉さんよ。ここはプレイヤーみんなが使うクラブなんだ。確かにCランク・プレイヤーでも使う資格はあるけどよ、それでも暗黙の了解っつーもんがあるだろうよ。格下の新入りにはそれがわかんねえのかなあ」


ダンはちらりとその男を見ただけで、あとは黙殺した。


ダンにとっては今しがた見た試合の様子のほうがはるかに重要なことだった。


ギルバート・ヘインズの熱狂。


シェリル・トンプソンの覚悟。


(……ぶっ飛んでるな)


それらを見たダンの胸の内には、そんな思いがあった。


それはダン・ギャラガーの内に常にある鬱屈をわずかなあいだ忘れさせるものだった。


だが、そういう微妙な感情はダンのそばに立つ男にはわからなかったらしい。


男は顔を近づけて、酒臭い息を吐きかけてきた。


「なあ、あんた、聞いてンのかよ……なあ、おいッ!」


長いあいだ歯を磨いていないのか、それとも生活が乱れていて胃が荒れているのか、男の息は酒臭さだけではなく、テムズ川の汚泥にも似た臭いを放っていた。


ダンにとっては馴染み深く、それだけに憎くてたまらない臭いだった。


その臭いが鼻に届いた瞬間、ダンは反射的に男の顔を殴りつけていた。


それもただの殴り方ではなかった。


親指を目の中につっこんで、殴りぬける。


それは一発でこちらに歯向かう気力を失わせて、相手を腑抜けの犬にする殴り方だった。


幼い頃、イースト・エンドの路上で学んだやり方を反射的に出してしまったダンは思わず舌打ちした。


(こいつは面倒なことになるな)


だがその一方で鬱屈としたものがわずかに晴れるような、そんな感じがあった。


はたして、相手の男はフラフラと立ち上がって、こちらの期待通りの台詞を、血が混じった唾とともに吐いてくれた。


「タワーに行こうぜ……久しぶりに……キレちまったよ……」


「……ああ」


言われて立ち上がったダン・ギャラガーの顔には紛れもない笑みが浮かんでいた。


「どうした、〈赤毛〉さんよぉ。大物ぶってたわりには所詮はこんなもんか?」


「ち……ッ」


男の挑発に、ダンは舌打ちした。


確か男はジミーとか、ジェリーとかそんな名前を持つ、Bランクの中でも最下位レベルのプレイヤーだったはずだ。トーナメント・プレイヤーとしての能力は低く、Cランクから上がってきたばかりの新人を狩ることで、なんとかギリギリでBランクに留まっている程度の男だったように記憶している。


それがこんなにも強いとは。


ダンは再び舌打ちして、敵のソウルを見た。


案内人とかいう見知らぬ老人に連れて来られたこのフィールドは、〈クエシスの森〉という静かで穏やかな森だった。だが、そんな平穏をぶち壊すかのように、敵のソウルは辺りの木々をなぎ倒してその暴威を振るっていた。


〈鈍重トロール〉――敵のそれは、ピンからキリまで存在するシルバーランクのソウルの中でも、底辺レベルに位置するはずのソウルだった。


(だが、強え)


ちッ、ちッと舌打ちしてリズムを取りながら、ダンは手持ちのソウルをトロールに突っ込ませた。


鉈やナイフを持ったゴブリン四体を上下左右から一斉に突撃させ、別の一体に急所を狙わせる。


が、その目論見は敵の防御によって容易く防がれた。


固い――トロールの急所である股間は厚い脂肪によって固く守られていた。ゴブリン程度の軽い攻撃ではとても突破できない。


「殺せッ、トロールッ!」


男の命令によってトロールがのそのそと動いた。手に持った棍棒を軽く振り回す。


たったそれだけの動作だった。


たったそれだけの動きによって、ゴブリン五体のうち三体が淡い燐光となって消えていった。


新たなゴブリンを召喚しながら、ダンは思った。


(ブロンズとシルバーランクの差がこれほどとはな……基礎能力値が天と地の差だ)


Cランク・プレイヤーが使うソウルはブロンズ。


Bランク・プレイヤーが使うカードは主にシルバーで、上位陣は稀にゴールドを使う。


ルールとして定められているわけではないが、トーナメントではそういう棲み分けがされている。


呪文カードは多様な種類があり、〈雷火〉のようにマスターのスキルによって効果が大きく変動するものも多いため、Bランク・プレイヤーでもブロンズカードを愛用する者も多いが、ソウルカードに関してはその限りではない。


なぜならば、ブロンズはシルバーには敵わない。シルバーはゴールドには敵わない。


基礎能力値が違う。スキルの威力が違う。すべてが圧倒的に違う。


ウィザードならば誰もが知っているそれが、ソウルカードの原則なのだ。


(なるほどな……知ってはいたつもりだが、見るのと実際にやるのとじゃ、こいつは大違いだ。こりゃ確かにブロンズとシルバーじゃ別次元だな)


また一瞬で粉砕されたゴブリンの代打を召喚しつつ、ダンは再度舌打ちした。まったく、この男とやり始めてから何万回舌打ちしたか知れなかった。


ジェリーだか、ジムだかいう、この男のマスタースキルははっきり言ってカスだった。シルバーランクのソウルは技量の低い者には扱えないカードではあるが、この男の場合は、マナも、操作も、センスも、すべてがダンを下回るゲロカス野郎だった。


よーいドンで、同じカードで、同じ条件で戦ったら、百回中百回、ダンが勝つ。その程度のレベルの相手だった。


だが、ダンはもう一度舌打ちした。


(クソッ……持っている手札に差がありすぎる……やり方を変える必要があるな)


このままではなぶり殺しにされて終わりだった。


それでは敵の思惑通りだった。


数日前から、このゲロカス野郎がこちらの様子をうかがっていたのは知っていた。現在、ダンの戦績は九連勝。あともう一回勝てば、次はBランクに上がることになり、ゲロカス野郎と対戦する可能性も出てくるはずだった。


新聞や雑誌でも騒がれている将来の有望株をその前に潰しておこうということなのだろう。同じシルバーランクのソウルを持たれては勝つことができないから、敵はプレイヤーズクラブで絡んでくる振りをして、こういう実力行使に出たのだ。


(だが、甘い)


口元に笑みを浮かべる。一瞬、トロールの動きが止まった。ゲロカス野郎がこちらを見て、わずかに怯えたような顔を見せていた。


ダンは大量のカードをドローしながら思考する。


(野郎の仲間は他にいねえ。そいつは〈ゴブリン偵察兵〉で確認済みだ……やるか)


ドローした手札を見ながら考える振りをする。


実際のところは考えるまでもなく、答えはとっくのとうに出ていた。


敵が徒党を組んでいるのか、とか――


そいつらが復讐にやってこないか、とか。敵はこちらの手の内をどれくらい知っているのか、とか。


こんなところでカードを消耗してメリットがあるのか、素直に逃げたほうが損害は少なくて済むのではないかとか。


そういったことが頭の中に浮かばないわけではなかったが、それら些末なことはすべて、たったの一言で切り捨てることができた。


(くだらねえ)


ペッと唾を吐き捨てて、敵の男を睨んだ。ゲロカス野郎は、うッ、と怖気づいたように一歩下がった。


(この野郎で、おれは飛べるのか)


ダンの頭の中にはそれしかなかった。


ゴブリンをさらに追加で数体召喚する。


これで場に出たゴブリンの数は十二体。


それらのゴブリンはすべて、歯を剥き出しにして野良犬のように怒り狂っていた。


なにに対して怒っているのか。それはやつら自身にも知れないことらしいが、そんなことはどうでもいいことなのだろう。


ただこの怒りをぶち撒けることができれば、それでいい。


ダンのソウルとはそういうものだった。


自身の怒りをぶつけることができる獲物を前に、ゴブリンたちは口元から涎をこぼし、低い唸り声を牙のあいだから漏らしていた。


それらが醸し出す狂乱に当てられたかのように、男の喉元がゴクリと鳴った。


「……これが噂の〈十二匹の怒れるゴブリン〉デッキか。じょ、上等じゃあねえか……」


(知らねえよ、んなこたぁ)


心中で鼻を鳴らしながら、ダンは思った。


世間が自分のことでいろいろと騒いでいるのは知っている。もしこのまま十連勝すれば十年ぶりの快挙だとか、もしそうなれば新ヒーローがトーナメントに登場することになるとか、ダン・ギャラガーの〈十二匹の怒れるゴブリン〉デッキはBランクに上がっても通用するのだろうかとか、いろいろと言われているらしい。


その一方で、自分に関する不穏な噂が流れていることも知っている。ダン・ギャラガーは、イースト・エンドの貧民街出身の、馬鹿で野蛮で無教養なアイルランド人で、過去には人も殺したことのある危険な人物であり、おまけにとんでもない赤毛の持ち主なのだ……という記事が先日、ゴシップ誌に載っていたことをカードショップの店員から教えられていた。


そのときの店員は興味津々の様子でこれは本当のことなのかと訊いてきたのだが、ダンはそれをジロリと睨んで黙殺していた。


(だったら、どうした)


そういう思いが、ダンの中にはある。


すべてが事実だったとして、どうするのだろうか。


それでなにかが変わるのか。自分の過去は変えられるのか。イースト・エンドでひったくりを繰り返し、大人たちから袋叩きに遭い、それでも生きるために盗みを働いていた過去の事実がどうにかなるのか。


どうにもならない。赤毛の野良犬、と大人たちから呼ばれ、追い立てられ、底辺の人間の中でもさらに蔑まれる存在だった自分の根幹はどうにもならない。


ダンは自分のソウルを動かした。ゴブリンはロクに言葉も喋れやしない低能ソウルだ。だから、やつらがなにに怒り狂っているのかはまるでわからない。


だが、十二匹のゴブリンはダンの半身であるかのようによく動いた。


「お、おい、ま、待てよッ、そりゃちょっとナシだろう!?」


ゲロカス野郎がどもりながら叫ぶが、だからなんだ。


これはトーナメントのお上品な試合ではないのだ。他に誰一人いない、タワーのフィールド内の喧嘩なのだ。


だったら、相手プレイヤーを直接狙ってなにが悪い。


(これがイースト・エンド流だ)


生きるために、やる。それだけのことだった。


四体をトロールの足止めに使い、残りはすべてゲロカス野郎に突撃させた。


「ま、待てって! ちょ、ちょっと話し合お――」


(馬鹿じゃねえのか)


ダンはゲロカス野郎に突っ込ませたゴブリンに呪文カードをかけた。


〈ゴブリン式交渉術〉――ゴブリン一体を生贄に捧げて、対象に爆発ダメージを与えるカード。


一体、二体、三体――四体目の爆発で十分だった。


ゲロカス野郎の〈赤銅の衣〉による防御を破壊した手応えがあった。


ゴブリンたちに敵プレイヤーを生け捕るように命じながら、トロールのほうに意識を集中する。


(やっぱり固えな……)


ゴブリンたちから魔術回路を通して伝わってくる情報で、ゲロカス野郎が爆発の衝撃で半ば意識を失っていることはわかっている。だが、マスターの操作を離れてなお、強靭な肉体を持つ〈鈍重トロール〉はゴブリンたちの攻撃を一切寄せ付けようとしなかった。


ダンはトロールを囲うゴブリン四体に意識を集中した。


マスターの操作を離れてマナの供給が乏しいシルバーランクのソウル一体に対して、こちらはマナもマスターによる支援も十分なブロンズランクのゴブリンが四体。


どういう結果になるのか、興味があった。


(……こんなに差があんのか)


試しに突っ込ませてみたゴブリン四体が一瞬で破壊されるのを見て、ダンは舌打ちした。


――重い。そして速い。


遅いイメージがあったトロールだった。確かにシルバーランクの中では遅いソウルなのかもしれない。だが基礎能力値そのものが違った。ブロンズランクのゴブリンでは話にならないレベルの速さだった。手を抜いていたつもりはないのだが、ゴブリン四体だけではまるで相手にならなかった。


ダンの双眸に燃えるような笑みが浮かんだ。


(面白え……)


ダンは集中した。


意識を宙へと飛ばしていく。昔、あの男に教わったやり方だ。思いっきり息を吸って、遠い――どこまでも遠い空の向こうへと意識を拡散させていく。


全身からバチバチと赤い雷のようなマナが迸るのを感じる。


ダンは目を閉じていた。今の場合、自分の視界など要らない。必要なのはゴブリンどもの意識と五感だけ。やつらをすべて自分の手足のように操ることこそが、今もっとも求められていることだった。


――世間のこととか。


自分に関して流れている噂とか。幼少時代のイースト・エンドでの忌まわしい記憶や、自分を残して姿を消したあの男のことや、イートンでの孤立した生活のこととか。


そんなことのすべてがくだらなかった。


ダンの意識は今、空の高みにあった。その空高くから、ダンはすべての物事を俯瞰していた。それでいて、すべての事象を己の手のひらの上の出来事として感じ取っていた。


わかる。ゴブリンの手足の繊細な感覚までもが、自分のこととして感じられる。


ダンはゴブリンを四体、トロールの足元からすっと、滑り込ませた。


トロールがそれに反応して上半身をかがめた。手に持った棍棒を振り下ろす気だ。


その背後に三体、ゴブリンを回り込ませた。


そして使った。


〈ゴブリン式暗殺術〉――つい先程、ゲロカス野郎に使った呪文カードと同じ効果を持つカードだ。


ドカンッ、と三体のゴブリンがトロールの背中で自爆した。


それに対してトロールは、今の音はなんだったのだろうかと、訝しむように背後を振り返った。


その隙を狙った。


足元に潜り込ませていたゴブリン四体がまったく同じタイミングで、トロールの左右のすねを切りつけた。


ゆっくりと大木が倒れるように、トロールの巨体が傾いでいく。おッ、おッ? というようにトロールの表情が鈍く変わっていく。


そこを突いた。


残りの一体――ダンが最初期から使っていた〈隻眼のゴブリン〉が、鉈を振り上げた。


トロールの巨体が落ちてくるタイミング、そこへ下から上へと振り上げられる鉈。


(固い)


渾身のマナを込めた攻撃は、しかし、トロールの喉元にわずかに傷をつけただけだった。それどころか、その攻撃はトロールの怒りに火を点けてしまった。


怒りの咆哮を上げて、地震のような地響きを起こすトロールだった。その地響きだけで傷ついていたゴブリン数体が燐光となって破壊された。


怒り狂ったトロールが獣のような速度でこちらに向かって迫ってくる。その体当たりだけでダンの身体など木っ端微塵に砕け散ってしまうはずだった。


(……死ぬか)


こめかみから汗を流し、荒く息をつきながら、ダンは思った。


くだらなかった。すべてのことがくだらなかった。


なにも考えたくなかった。


過去のことも、未来のことも。今現在のことですら考えたくなかった。ガキの頃、親父とおふくろが死んでイースト・エンドの路上に放り出されたときから、ずっとそうだった。


帰る場所も、行くあてもない。家族も友達もいなかった。


過去の記憶に安らぎはなく、未来の可能性に期待することもない。


あるのは今このときだけ。泥のように冷たく、どうしようもない現在だけだった。


そんな冷たい泥濘の中で、野良犬は生きていた。


だが、この瞬間――すべてを忘れて、カードと獲物だけに集中する、このギリギリの死線だけが、赤毛の野良犬が生きる一本の線だった。


迫ってくる脅威を仕留めるべく、〈赤毛〉のダン・ギャラガーは自身のソウル引き抜いたドローした

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