第24話 老いぼれ犬は昔日を語る、灰色狼の栄光と墜落、時代は変わる、だが彼らの行き先は誰も知らない
「モーガン・デイヴィスが会食の返事をしてきた。喜んで承る、だそうだ」
執務室の椅子に腰掛けるマリオに向かって、グラスが報告した。
「そうか。ピッポ・ビアンキは?」
「こちらも大丈夫だ。ボス・マリオのお好きなように、と」
マリオはため息をついた。
「やつには迷惑をかけることになる」
「フォローは最大限にする」
「ああ」
マリオはしばらく考えこむように目を閉じてから言った。
「エルマを厨房の手伝いに立たせろ」
「わかった」
「ジーナにはいつもと違う格好をしてくるようにと。そうだな……たまにはドレスでも着てもらおうか。タイトなやつじゃなくて、ふんわりとした女の子っぽいやつだ。体のラインが隠れるような」
「わかった」
「お前はいつもどおりでいいだろう、グラス」
グラスはにこりと笑ってみせた。
「それはよかった。ボスにドレスを着ろと命令されたら、逆らえないところだった」
「そんな命令をするくらいだったら、俺は毒を飲んで自殺するよ。さて、ジイさんとの飯を楽しみにしながら、今日も一日お仕事を頑張るとするかね」
「了解、ボス」
レストラン・ビアンキは中級の店だった。決して安くはないが、かといってむやみに高くもない。庶民がちょっと気取った格好をして、デートや祝い事に使うような店だった。店内は落ち着いた調度品に囲まれ、天井のシャンデリアからは暖かい光がこぼれ落ちている。心からリラックスして食事を楽しめる、いい雰囲気だった。テーブル席がいくつかと、あとは小さなバーカウンターがあるだけの狭い店だったが、その分行き届いたサービスを提供できるのがこの店の売りだった。
ピッポ・ビアンキはこの店のオーナーであり、名シェフでもある。マリオは彼の一人娘を以前にこの世界の泥沼から救い出してやったことがあった。
それ以来、マリオたちはこの店をたびたび利用して、美味い料理とそれに合うように選びぬかれた酒を楽しんでいたが、席について辺りを見渡したモーガン・デイヴィスはあまりこの店を気に入らなかった様子だった。白いものがまじる太い眉を一瞬上げてみせた。だが、メニューを開いて料理を吟味し始めたデイヴィスはすぐににっこりとして、対面に座るマリオに言った。
「この店に来たのは初めてだが、実を言うと、さっきまでボス・マリオには店選びのセンスがないと思っていた。だが、それは私の間違いだったようだ。メニューを見てみればそのことがわかる。この店は本物の白傘茸を使っているのかな、ブラザー?」
「もちろんだ」
マリオは微笑んだ。
「この店の店主と俺は友達なんだよ、ボス・デイヴィス。彼は正直者で信用の置ける男だ。偽物を使うなんて考えられない」
「素晴らしい。この値段で白傘茸のパスタを提供するとは。この店の経営は大丈夫なんだろうね?」
「実を言うと、少し前までは危なかった。悪いやつらがこの店を食い物にしていてね、うちが間に入ったのでもう問題はないが。今は店主とその一人娘が頑張って、よく繁盛している」
「それは素晴らしい」
デイヴィスは素晴らしい、と何度もつぶやいた。
シャンデリアの暖かい光の下でデイヴィスは柔和な笑みを浮かべていた。モーガン・デイヴィスは感じのいい老人だった。褐色の肌には染みが浮かんで、縮れた髪には白いものが入り交じっていた。シルクのスーツに包んだ体は大柄だが、いくらか筋肉が衰えているのが見て取れる。だが、深い眼窩に収まった大きな瞳はいたずらっぽい子供のような光を宿していた。
「私は白傘茸のパスタをもちろん頼もう。それとこの赤爪唐辛子を使った四種の前菜というものを。辛いものは苦手なんだが、これはなんだか興味をそそられるよ。あとはシェフに任せることにしよう」
マリオが合図をすると、店主のピッポ・ビアンキが微笑みを浮かべてやってきた。今日のレストラン・ビアンキは貸し切りで、マリオとデイヴィス、その関係者以外は誰もいない。また、ウェイターやソムリエ、シェフなどの全ての仕事をピッポが一人で行うことになっていた。
《狼の血族》と《牙犬の魂》の両首領の会食となれば、これは当然の措置だった。マリオとデイヴィスの背後のテーブル席にはそれぞれの組織の構成員がついて、自分たちのボスが和やかに食事をしているのを見守っていた。
剣呑な雰囲気はいっさいなかった。これが敵対するギルド同士の会見だったなら、事前のボディチェックや店の警備などで物々しいはずだったが、マリオとデイヴィスの様子はまるで久しぶりに会った祖父と孫が互いに積もる話をしているかのようだった。それぞれの背後で会食を見守る構成員たちもリラックスした様子だった。いつもと違う装いに身を包んだジーナは、着慣れないドレスの裾が気になるのか、ときどき足を動かして居心地が悪そうにしていたが。
《牙犬の魂》のボス、モーガン・デイヴィスは一年前にマリオと兄弟分の契りを交わした仲だった。だが、ボス・デイヴィスと《狼の血族》との繋がりはそれよりもはるかに昔からあった。彼はもともとドン・ルチアーノとも兄弟分だった。二人は若い時分からそれぞれのギルドを率いて、互いに力を貸しあった仲なのだ。もっともデイヴィスによれば、ほとんどはデイヴィスが世話になるばかりで、対等というには恐れ多い関係だったということだ。彼はドン・ルチアーノに世話になった恩を返すためといって、二代目のマリオにいろいろと便宜をはかってくれていた。
モーガン・デイヴィスは今ではほとんどの実権を子分に譲って、《年経た牙犬》の運営を任せているが、こうしてたまに顔を合わせて食事をすると、マリオにアドバイスを与えてくれるのだった。
マリオとデイヴィスが食前酒と前菜、そして互いの近況報告と他愛ないおしゃべりを楽しんでいると、一つめの主菜がやってきた。デイヴィスは白傘茸のパスタが醸しだす芳醇な香りに驚いているようだった。いささか興奮した調子でフォークを手に取った。
「これは素晴らしい!」
パスタを口に運んだデイヴィスは大袈裟な口調と仕草で感嘆した。いささか行儀が悪かったが、マリオは特に咎めることもせずに微笑むだけだった。
「ピッポの腕は確かだろう、ボス・デイヴィス?」
「ああ、素晴らしい。ここのシェフは本物だ。本物の素材を本物の技術で調理する。実に素晴らしいことだ」
あっという間に空になった皿を満足げなため息をつきながら下げさせると、デイヴィスは感慨げに目を閉じた。老人の皺が刻まれた額や目元をマリオは黙って見た。
「こういう本物を出す店は大事にしなければならないよ、ブラザー」
しばらくして目を開けたデイヴィスはゆっくりと口を開いた。
「このベガスの街はいまや偽物だらけだ。どんどん本物が少なくなっている。安っぽい飾りで客を引き寄せて騙す賭場や風俗。寄生虫入りの肉に、最高級を謳った偽物の毛皮。そういうものだけじゃない。今じゃ、安い言葉をわめきちらして刃物を振り回す若造が本物の男だといわれている。信じられるか、ブラザー? 安酒場のちゃちな喧嘩で人を殺したら、本物の男だと仲間内で褒め称えられるらしい。時代が変わったといえばそうなんだろうが、私のような老いぼれにはまったく理解できない価値観だよ。私が若い頃にはそんなのは恥さらしもいいところだった」
デイヴィスは首を振ると、ワインを飲んだ。
「その点、ドン・ルチアーノは本物の男だった。彼がいなかったら、私はこの年まで生きて美味い食事を楽しむことができなかっただろう。下手すれば、ベッドに死人のように寝たきりになって、ぐちゃぐちゃの粥をスプーンで無理やり口に流し込まれる体になっていたはずだ。今の私があるのは彼のおかげさ」
マリオは頷くと、ワインのおかわりをデイヴィスに注いだ。
「ありがとう、ブラザー」
デイヴィスはまた一口ワインを口に運ぶと、首を傾げて言った。
「二代目ボス・マリオ。あんたに私とドン・ルチアーノの関係を話したことはあったかな? 老いぼれた犬と今は亡き灰色狼の昔話を? かつてのベガスの暗黒と栄華の日々を?」
「以前にも何度か聞いているよ、ボス・デイヴィス。だが実際のところ、それは俺にとっては何度でも聞きたい話なんだ。あんたも知っていると思うが、俺が親父と一緒にいることができた時間はとても短かった。もっといろんな話ができていたらと今でも悔やむ。親父の昔話を聞くことができるのは俺にとって大きな喜びなんだ」
デイヴィスは柔らかく微笑んだ。引退した老人が孫に向けるような笑みだった。
「それならばリクエストにお答えして、ロートルの昔話を披露しよう。といっても、ドン・ルチアーノについて話せることはとても少ないがね。ほとんどは以前にも話したことだと思う」
コホンと小さく咳払いをすると、デイヴィスは厨房の方に立つピッポに軽く目を向けた。シェフは頷いた。二つ目の主菜はゲストの語りを妨げない頃にサーブされるだろう。もちろんピッポがプライベートな話を立ち聞きするようなこともない。ピッポが意を察して奥に引っ込んだのを確認すると、デイヴィスは静かに語り出した。
この歳になるとこうして若い人に昔話をする機会も多くなる。まあ、それは私が誰彼構わずに若い頃の話をしたがるからなんだろうが……だがそれを別にしても、最近では昔のことを思い出すことが多くなってきた。くだらない年寄りの感傷だとは自分でも思うがね。それでも組織の運営をチャドに任せてからというもの、暇な時間が増えたせいか、妙に昔のことを思い出す。
いや、もしかしたら原因はそれだけじゃないのかもしれん。街を歩いていると思うんだよ。〝昔はこうじゃなかった〟とね。これもくだらん年寄りの戯言だというのはわかっているさ。でもね、やっぱり私の若い頃とは違うよ。変わらんところもあるがね。
昔は今のように四大ギルドと警察が街の実権を握る仕組みが築かれていなかった。このことは絶対に理解しておいてもらわないといけないよ。特にあんたにはね、二代目ボス・マリオ。何しろ、ベガスを安定させたこの制度はあんたの親父さんが確立させたものなんだから。ベガスはこの制度のもとで発展してきたようなものなんだ。
当時のベガスはひどかったよ。今もひどいが、それよりももっとだ。群雄割拠、といえばいいのかな。街には無数のギルドが溢れかえっていた。荒くれ者たちがそれぞれの子分を率いて、自分たちのシマを広げようと毎日血みどろの抗争をやっていた。暗黒の時代だよ、ブラザー。今だってそうじゃないかって? それは違う。確かに今も鬼の一派の後釜を狙って、クズどもがバチバチにやり合っているがね。少なくとも、四大ギルドのおかげで一応の安定は保たれている。その証拠に四大ギルドの傘下の組織のシマにはたいした被害が出ていない。一般人の死人がたくさん出ているのは、それ以外の中小組織のシマと鬼の一派の残したシマだけさ。まあ、それもあんたたちのおかげで一時に比べればだいぶマシになったが。
だが、当時のベガスはそんなもんじゃなかった。死の嵐がベガスに吹き荒れていた。たとえばそうだな……今のベガスで川に一つでも死体が浮かんでいれば大騒ぎになって、警察もきちんと捜査に乗り出すだろう? しかし、昔はそんなことがあっても誰も騒がなかった。今日は何体死体が揚げられるか、住人のあいだで賭けが始まるぐらいさ。警察もまったく役に立たなくてね。今でこそ、警察も多少の捜査能力と武装部隊を持って、独自の権力を確立してはいるが、あの頃の警察は葬儀屋と陰口を叩かれていた。死体を引き揚げて回収するぐらいしか能がなかったんだ。
一般人の暮らしもひどかった。よくもまあ、あんな劣悪な環境の中で暮らしていたものだと思う。彼らはみんな貧しかった。ギルドが卸す素材を加工したり販売しても、ほとんど手間賃はもらえなかった。筋者や一部の大商人が脂のしたたる肉を食べているときに、彼らは革靴を煮て食べていたんだ。いや、誇張じゃない。これは本当のことさ。冬になると、そういうやつらがちらほら街角にいたんだよ。もっとも、革靴を食べることができたやつらはまだ恵まれていたがね。そもそも靴を履くことすらできない連中もいたんだ。それくらい貧しかったから、彼らは他に行くこともできず、ベガスの街にしがみついているしかなかった。
そういう環境にいる人々が真っ先に求めるものが何かわかるかな? 食べ物? あたたかい服? 落ち着いて眠ることができる家? いや、そうじゃない。彼らが欲するのは現実からの逃避さ。そう、薬物だよ。男は労働力を、女は体を売って、辛い現実を忘れることができる薬を買い求めた。
それで多くの職人たちが体を壊しても、ギルドの者たちはまったく困らなかった。大量の労働力を乗せた船が旧大陸から毎日ニューアークへやってくるんだから。移民の大半が現実にはありえない夢を見て、ベガスへと流れてきていた。彼らは旧大陸の厳しい環境からやっと抜け出して新天地にやってきたつもりだったんだろうが、大間違いだった。彼らは結局似たような穴に突き落とされることになっていた。アコギなやつらによってね。
あの頃のもっとも貧しい連中のことを思い出そうとすると、彼ら自身の姿ではなく、家畜小屋の豚のことが思い返される。私は旧大陸の貧しい農家の生まれなんだがね、そのときに飼っていた豚のことを思い出すんだよ。エサを求めて精一杯の鳴き声をあげる豚。私が尻を叩くと、哀れな声を上げて逃げまわる動物。最期には食い物にされるしかない哀れな生き物。
私は若い頃に、貧しい家を飛び出して移民船に潜り込んでベガスへやってきた。そこで生まれ故郷よりもひどい現実を目にした。私は豚にはなりたくなかった。クソにまみれて路地裏でラリっている男たちの一員になりたくなかった。
ひたすら奪われるしかない貧しさから脱却するには、奪う側にまわるしかなかった。私は同じ国から出てきた若者を集めた。ギルドを作って魔物を狩った。その素材を売って得た資金で商売を始めた。もちろん薬物は嫌いだったから、もう少しクリーンな商売、花売りとかそういったものに手を出した。
商売はなかなか順調だったよ。あの頃のベガスは確かに暗黒の時代だった。今のように上下水道や石畳なんか整備されていないから、川にはクソがぷかぷか浮かんでいたし、街中から異臭が漂って病気も流行っていた。砂埃が立つ街を歩くと、死体やそれに似たような中毒者をしょっちゅう目にしたし、酒場でちょっと飲もうと思ったら、ありったけの武器を身につけて行かなきゃ安心して飲めなかった。
だが同時に、何といったらいいか……街には熱気があった。みんな毎日を命がけで生きていた。多くの人が生きる力に満ちあふれていた。いつかビッグになってやろう、いつかこの暮らしを変えてやろうとたくさんの人が思っていたんだ。そういう街の空気というものを知っているかな? 熱いんだよ。比喩じゃなくてね。何というか、本当に熱いんだ。
一歩道を踏み外せば絶望の淵に落ちる。だが、それでも明日の希望を胸に毎日をシノいでいく。そういう生きる力に満ちあふれた熱気に包まれていたのが、当時のベガスだったのさ。
仲間と始めた女衒の仕事は好調だった。ベガスは移民の若い男たちであふれていたからね。それに加えて、女たちも身内を食わせるために必死だった。需要と供給だよ。その間に入って、私たちはうまく立ちまわっていた。
だがもちろん、商売敵というものがいた。もう今じゃ名前すら覚えていないが、私たちと同じような連中だったよ。移民の若造の群れさ。当時は似たような連中がたくさんいて、いろんな商売に手を出していたんだ。
私が行きつけの酒場で飲んだ帰りに襲ってきたのも、そんな連中だった。原因はなんだったか……まあシマがどうとか、向こうの女を無理やり引きぬいたとかそんなことだったかな。まあいずれにせよ、そんなことはたいした問題じゃなかった。ようはお互いが気に入らなかったんだ。向こうもこちらも血の気の多い連中の集まりだったからね。近くで似たような商売をしているやつらがいれば、鼻につくもんだ。もっとも、それで腹を割って話し合うこともせずにすぐに刃傷沙汰になるのは若者だけだがね。
私は酒場に一人でいるところを突然襲われたが、恐怖はまったく感じなかった。それどころか、やっとこのときが来たかと興奮したくらいだった。だが、私はしこたま酔っていた。ナイフを取り出そうとして、ずっと自分のムスコをまさぐっていたくらいさ。棍棒で頭をかち割られてようやく私は目が覚めた。とりあえずはその場から逃げることを選んだ。頭はぐわぐわん揺れていたが、劣勢を挽回するのは難しいってことくらいは理解できたんだ。
もちろんやつらは追ってきた。多かったな。あれは結局何人ぐらいいたのかな。十人はいただろうね。そんな数の連中が血走った目で武器を片手に追いかけてくるんだ。もう必死だよ。どこをどう走っているのかもわからない有り様さ。当時のベガスは今ほど区画整理されていなかったし、似たようなボロボロの建物でひしめき合っていたから、慣れた通りから一本外れてしまえばたちまち迷子になった。
逃げて、隠れて、また逃げて……ふらふらになった私はとうとう暗い路地にうずくまってしまった。頭からは大量に出血していたし、脳みそはまだ揺れていた。それに足はガタガタさ。だが、遠くからはまだやつらの声が聞こえてくる。おまけにひどく寒い夜だったなあ。うずくまっているうちに雪が肩に降り積もってきてね。そう、あれは冬の日のことだったんだ。
そう、私が初めて彼に出会ったのは冬の日のことだったんだ。
「おい見ろよ、ロメオ、エリナ! 麗しき我が家の前でおねんねしてる野郎がいるぜ!」
今にもくたばりそうになっていた私の体にその男の声はガンガンと響いた。でも、決して嫌な感じじゃなかった。何かに引っ張られるようにしてのろのろと顔を上げると、そこには一人の若者がいた。私は目を見張った。不思議な熱気をその男は発していた。その男に降る雪は片っ端から溶けて湯気になっていくんだ。この男の血管には溶岩が流れているのかと思ったよ。私がぼうっとして眺めていると、男は言った。
「あんたには悪いけどよ、ここは俺らの家の前なんだ。まあ確かにボロっちい家だから、人が住んでるとはわからなかったのかもしれねえけどよ。とにかく、くたばるんならよそでくたばってくんねえかな」
「そんな言い方ってないでしょ、ルチアーノ」
女の声がしたが、私はもう限界だった。ずっと張り詰めていた意識は途切れかけていた。
「ルチアーノ」
今度は別の男の声だった。
「こいつはあれだ、最近ここらでノシてるデイヴィスとかいう……」
「ああ、じゃあさっきのやつらが探しまわってたのは……」
「それより早くこの人を中に」
そこで私の意識は途切れた。
次に私が目を覚ましたのは粗末なベッドの上だった。頭の怪我はたいしたことはなかったが、三日間私は起き上がることができなかった。エリナが看病をしてくれた。その間にルチアーノとロメオが私たちと連中の間に入ってくれて話をつけてくれていた。私たちが女を丁寧に扱っていることをルチアーノたちは評価していたんだ。いや、この言い方は正確じゃないな。本当に私たちを評価していたのはエリナだったんだ。氷のようなリアリストで、砂糖のように甘く優しい女だった。エリナがルチアーノとロメオに何かを言ったんだろう。おかげで私と仲間たちはごくごくわずかな上納金と引き替えに、《狼の血族》の懐にかくまわれることになった。そうして安全に商売を続けることができたよ。四十年以上もね。
ルチアーノ、エリナ、ロメオ。
生涯忘れることのできない三人だ。残念ながらエリナは出会って数年後に死んでしまったがね。嫌な事件だった、あれは。ルチアーノが変わったのはあの事件からだったと思う。それまではどこか冷酷さがある男だった。自分と仲間さえよければいいといった感じだった。だが、エリナの死をきっかけにルチアーノは本物の男になった。
ロメオはどうだったんだろうか。彼が本物の男になったのはいつのときだったんだろうか。
あの男はいつもルチアーノのそばにぴったりとくっついていた。不思議な距離感だったな。ロメオは護衛やカバン持ちではなかった。かといって、兄貴分のあとについて回る幼い弟分でもなかった。まるでルチアーノの影絵のような男だった。光と陰。ルチアーノとロメオ。一心同体。
腕っ節や人望はルチアーノの方が優れていたが、ロメオには頭脳があった。おそらく四大ギルド制度や警察の抑止力強化を提案したのもロメオだったんだろう。もちろんそれを実現できたのはルチアーノの力があってからこそだったが。だがロメオがいなければ、《狼の血族》が四大ギルドの一角として名を馳せることがなかったのも確かだ。ルチアーノとロメオは綿密に根回しをしてこの街でもっとも危険な連中に声をかけた。その話し合いの席に市民の代表として大商人や警察のお偉いさんを入れることも忘れなかった。そしてルチアーノたちは成功した。ベガスを安定させる制度を確立したんだ。
《狼の血族》《竜の心臓》《妖女の乳房》《屍者の王》。
この四つのギルドと警察、市参事会の下でベガスは発展した。このシステムは優れていたよ。常に抗争をしていた無数のギルドは四大ギルドのいずれかの傘下につくことで、互いに手を出しづらくなった。パワーバランスってやつさ。それぞれのギルドのトップは抗争が拡大して商売の景気が悪くなるのを恐れていたからね。強固な上下関係のおかげで大規模な抗争にはめったにならなかった。警察と市参事会は調整役のようなものだった。完璧にその役割を果たしていたとはいわないがね。汚職や賄賂は当然のようにあったから。だが、一応はパワーバランスの役に立っていた。
四大ギルド制度が確立したことで、街には経済発展する余裕がようやく生まれた。それまでは常に戦争状態だった。商売をするどころではなかった。ところが勢力の均衡が生まれた途端に、街はとんでもない勢いで栄えていった。でっかい建物がにょきにょきと立って、ちょっと前までは裸足だった連中が四頭立ての馬車を乗り回すようになっていた。四大ギルドのシマでは競争するように街並みが整えられていった。馬の糞まみれだった土の道には石畳が張られ、上下水道が整えられた。川に死体や人の糞が浮かぶようなことはなくなった。
四大ギルドにとってはこれも一つの戦いだったわけさ。経済戦争というやつだ。蓄えた金はそのまま力につながるからね。選挙、賄賂、労働力、そして武器。金は全ての源さ。相手に力をつけさせないためにも、四大ギルドは競って金を蓄え始めた。
それが街にとってはいい方向に働いたわけだ。優れた労働力を集めるためにはいい環境を用意する必要がある。できる職人は好待遇で迎えられた。美しい女は下手なやくざ者よりも稼ぐことができた。もちろんそうして市民にやった金は、賭場や風俗で抜け目なく回収したがね。商店に客を集めるために街の美観は整えられた。いい評判のギルドの下にはいい人材が集まるということで、慈善活動までするギルドもあったぐらいだ。もっとも《狼の血族》がやっていた慈善活動がそういう目的のものだったとは思わないが。
私もドン・ルチアーノの下でずいぶんといい思いをさせてもらった。私は発展の波にうまく乗った船頭だった。大規模な抗争がなかった時代といってもね、小競り合いはやはりあった。特に私はなかなか大きな商売をやっていたから、危険な目に遭うことも多かった。だが、その全ての場面で彼に助けられたんだ。若い時分に偶然ドン・ルチアーノと兄弟分の契りを交わすことができたおかげで、私は何度も命と商売の危機を乗り越えることができたんだよ。
さて、これらのベガスの発展が完全なる正の方向へのものだったとはいわない。巨大な賭場や風呂屋の通りを外れて一歩路地裏に入れば、そこには相変わらず裸足の貧者と絶望の淵に落ちた薬物中毒者がいたわけだからね。かといってベガスは堕落への道を突き進んだわけでもない。わかるかな? このベガスでは全てが一緒くたになっているんだ。光と陰さ。華々しい飾り窓が並ぶ通りの裏で血みどろの戦いが繰り広げられ、美しい石畳の上で中毒者が死に、澄んだ水が流れる川に生活困窮者が身投げする。
全ては光と陰なんだ。
ルチアーノとロメオ。あの二人も結局そうだったんだろう。
思えば、ロメオは常にルチアーノの闇の部分だった。組織のトップというのは難しいものだ。きれい事だけではやっていけないが、汚いことばかりやっていると下は恐れてついてこない。なんだかんだいっても人間というのは美しいものを見たがる生き物なんだ。上の者に正義がなければ、人は離れていくものさ。
ルチアーノは裏の仕事をいつもロメオに任せていた。もちろんルチアーノは汚い仕事を弟分に押しつけたがらなかった。彼はいつも自分の手で事の始末をつけたがったが、それは周囲のことを考えれば許されることではなかった。彼は縛られていたんだ。
彼は象徴だったんだよ。《狼の血族》という組織のトップは象徴でなければならかったんだ。
彼はパワーだった。王様だった。みんなの太陽で、善の体現者だった。
わかるかい、ブラザー?
当時のベガスに暮らす人々は善と悪を両手に持たなければ生きていけなかった。妻や子供を養うために親の仇に頭を下げる職人。やがて生まれてくる父なし子のために通りに立ち続ける女。ゴミ箱の食べ物を漁る日々から抜け出すために殺しをする子供。
そんな彼らの目に《狼の血族》というギルドはどういう目に映ったんだろうか。
《狼の血族》のシマで彼らの世話になったことのない人間などいなかった。そこに暮らす人々にとっては役所や警察は何の意味も持たなかった。それらは法律と権威を振りかざすことがあっても、人々のために尽くしてくれることは決してなかった。彼らにとっては《狼の血族》こそが政府であり治安であり法律だった。仕事を斡旋し、夜の警邏を行い、生活が破綻した者には一時的な支援金を出してくれた。もちろんこれらのことは《狼の血族》にとってもシマの安定という一応の利益があったわけだが、実際はほとんどルチアーノの善意によるものだった。私と出会ったばかりの頃の彼では考えられないことだがね。自分に大切な血族がいるように、見知らぬ他人にも大切な家族がいることを想像できる優しさ。砂糖のように甘い優しさだ。シマに暮らす人々もルチアーノのそれを知っていたんだ。
そして彼らは蟻のようにドン・ルチアーノに群がった。彼らはドン・ルチアーノに期待した。夢を見た。彼らもルチアーノがやくざ者だというのは理解していたが、やっぱり人間というのは美しいものを見たがる生き物なのさ。市民はルチアーノに優しい王様の役回りを期待していた。組織の末端の人間でさえもそうだった。
愚かしいことだ。《狼の血族》は悪魔のように油断ならない三つのギルドを相手にしていたんだ。王様とはいえ、汚いことに手を染めないわけにはいかないだろう。そうしなければ国を守ることはできないのだから。
だが血に濡れた王様に人がついてこないのも事実だった。結果、ルチアーノは愚かな人々の鎖に縛られ、汚れ仕事をロメオに一任するしかなかった。そして自分は王様の椅子に座って、人々に称賛の声を浴びせられるほかなかった。ルチアーノには耐えられないことだっただろう。
それが原因だったのかはわからない。いや、それをいえば原因なんて今でもわからない。
ロメオ。
彼はいつから考えていたんだろうか。いや、そもそも何を考えていたんだろうね。思えば、彼とはもっと話しておけばよかったと思う。だが、今ではもう互いに気軽に話すことができない立場にある。
ロメオ。
彼は本物の男と呼べるのだろうか。ルチアーノは間違いなくそう呼ぶことができる。あんなに強く優しい男は他にいない。ロメオのしたことを思えば、もちろん彼の方は本物の男ではないんだろう。だが、偽物と断じてしまうのにも躊躇いがある。
彼は何というか……もっと別の何かだと私には思える。いや、実際はよくわからない。わかったところでそれを表現する言葉が見当たらない。
だがそれを言うことができたところで何になるのだろう。結局のところ私は引退した老いぼれで、時代の変化についていけないロートルだ。
時代は変わった。
灰色狼は魔狼の手によって王の座から引きずり降ろされた。魔狼は自分の群れを率いて、四人の王の内の一人に成りかわった。そして灰色狼はこの世界を去り、若き狼がわずかに残った彼の群れを率いている。
そんな中で、老いぼれ犬が昔日の栄光を語っても何にもならない。
モーガン・デイヴィスは長く深いため息をついた。生気が顔から抜け落ち、急に老け込んだように見えた。
「ボス・マリオ、最後にとっておきの……本当にとっておきの話があるんだが、聞きたいかな?」
「もちろんだ、ボス・デイヴィス」
マリオが言うと、デイヴィスは疲れた顔に微笑を浮かべた。萎れた薔薇が急に蘇ったような微笑だった。
「灰色狼というドン・ルチアーノの二つ名は誰が初めに言い出したと思う? おや、驚いているね、ブラザー? そう、この私さ。このモーガン・デイヴィスが最初に彼のことをそう呼んだんだ。もっともほとんどの連中はその意味を知らないがね」
マリオは身を乗り出した。
「どんな意味が?」
「白と黒さ。混ぜると灰色になる。光と陰。善と悪。組織のトップに立つ者にはぴったりの名前だと思わないかな? もっとも、人々はドン・ルチアーノに真っ白に光り輝く役回りを期待したようだったが」
マリオは口を開きかけたが、結局閉じた。吐き出したい思いはあふれているのに、言うべき言葉が見つからなかった。そんなマリオを見て、デイヴィスが優しげに言った。
「さて、ずいぶん長い昔話をしてしまった。シェフは寝ていないかな? 二つ目の主菜を頼もうか」
「待ってくれ、ボス・デイヴィス。あんたの話をもう少し考える時間が欲しい」
「いいとも。店は貸し切りで、老人には時間があり余っている。ゆっくりしようじゃないか」
マリオは目を閉じて考えた。テーブルに肘をつき、組んだ手の上に顎をのせていた。そうすると、周囲とは隔絶された時間が流れた。マリオは自分の内にこもって、あらゆる問いを自分自身に向かって発していた。そしてその全てに答えていた。その過程を繰り返すことでマリオはデイヴィスの話に対する自分なりの結論を得た。
が、それは口に出すべき結論ではなかった。代わりにマリオは言った。
「二番目の主菜を持ってきてもらおうか」
ピッポはもちろん寝ていなかった。最高の出来の料理は最速で持ってこられた。これには厨房に立つエルマの手も加わっていることをマリオは知っていた。
「たくさん話をしたおかげで、だいぶ腹が空いてしまった。早速いただこうか」
デイヴィスは湯気を上げる肉料理をがっつきはじめた。瞬く間に皿がきれいになる。ソースすら残さなかったデイヴィスだったが、料理に対する評価は先ほどとはうってかわって微妙なものだった。
「この料理だが……香草が少し合っていなかったように思うね」
「そうかな?」
「ああ、苦味が強かった。肉の焼き加減もソースの出来も大変よかっただけに残念だ。どうしてシェフはこんな香草をたくさん乗せてしまったんだろうか。いや、狙いはわかる。肉もソースもかなり濃厚な味だったからね。そこに微妙な変化を加えたかったんだろう。だが、少し失敗したようだったね」
「そうか。あとでピッポに伝えておこう」
「頼むよ。本物を出す店は大事に育てなければならないからね」
次の料理も片づけ、食後のデザートとコーヒーを待っているとき、ずっとおしゃべりをしていた二人の間にふと沈黙が落ちた。会話の切れ目によく発生するタイプの沈黙だった。デイヴィスは気にした様子も見せずにまた口を開きかけたが、マリオの方を見た瞬間にぱたんと閉じた。
「ボス・デイヴィス」
「何だろうか、ブラザー? どうしたそんな恐い顔をして。何か私に相談事かい? シマで面倒事でもあったのかな?」
「いや、そうじゃない」
マリオは首を横に振った。
「あんたに一つだけ訊きたいことがあるんだ。さっきのあんたの話を聞いても、一つだけわからないことがあるんだ」
「いいとも、何でも訊いてくれ」
「どうして、今のあんたはヤクを売りさばいているんだ?」
今度訪れた沈黙はさっきのものとはまったく質が違った。硬質で重い質量を持つ沈黙だった。周囲の空間一帯が押し潰されそうだった。
誰も身じろぎしなかった。マリオもデイヴィスもそれぞれの背後に控える部下も誰一人として動かなかった。両組織の構成員たちは自分たちのボスが爆弾の導火線を握っていることを知っているかのようだった。そして自分たちが下手な動きをしてその導火線に火がついてしまうことを恐れているようだった。マリオの背後でグラスは腕組みをしてじっと事の成り行きを見守っていた。鮮やかなドレスに身を包んだジーナも同様だった。
孫と祖父が談笑するようなさっきまでの温かみは消え去っていた。今テーブルに座っているのは冷酷な目をした若い狼とかつては群れを率いていた老犬だった。
沈黙を打ち破ったのは老犬のほうだった。
「ボス・マリオ、何の話かわからない」
肩をすくめる様子には愛嬌があった。その場の空気を一瞬で緩ませる力だ。だが、マリオは相手のおどけた動きを一瞬で封じ込めた。懐に手をやったのだ。デイヴィスの肩が一瞬震えた。
「ブラザー、大変な誤解があるようだ」
「いや、誤解などしていない」
マリオは何の感情もにじませない声で言った。
「あんたのところの下っ端がタレこんできたんだ。ビッグ・ベンが全てを話してくれたんだよ。末端の人間でも家族と思って接するべきだとアドバイスをくれたのはあんただったな、デイヴィス? だが、あんたは自分自身の家族についてしっかりと理解することを怠ったようだ。ビッグ・ベンに薬物依存症の妹がいることを知っていたか? 知らなかっただろう? 失恋の痛みを忘れるために軽い気持ちでヤクに手を出した馬鹿な妹がいて、ビッグ・ベンが死ぬほどヤクの売人を憎んでいることをあんたは知らなかったんだ」
マリオはグラスにわずかに残っていたワインを飲み干した。
「さて、うちとあんたのところの関係を確認しておこうか。あんたはそれを忘れていたようだから。毎月うちはあんたのところから上納金をもらっている。たいした額ではないがね。それに対してうちはあんたのシマの安全を保証してやっている。親父の代からの麗しき伝統だ。あんたの話によれば四十年以上続いている伝統だな。だがもちろん、この契約には注意事項がある。いや、掟といった方がいいかもしれない。ヤクに手を出す者は破門。それが親父の定めた法律だった。だが、今では時代が変わった。近頃のベガスでは薬物の出回り方が尋常じゃなくてね。その被害も洒落にならなくなっている。よって、俺の法律は親父とは違う」
マリオはじっとデイヴィスを見た。豚を見る視線だった。
「死、あるのみだ。ヤクに手を出した者には死んでもらうしかない。さて、最初の話に戻ろうか、ブラザー? どうしてあんたはヤクを売りさばいているんだ? どうして誇りを失った?」
「やはり何か誤解があるようだ、ボス・マリオ」
デイヴィスの顔には笑みが張り付いていた。
「デザートとコーヒーがまだ来ていないが、今日のところはこれで失礼させてもらおう。日を改めた方がよさそうだ。互いの誤解が解けるまで」
デイヴィスは席を立ったが、マリオの話はまだ終わっていなかった。
「さっき、あんたが苦いと言った香草だが――」
マリオは導火線に火をつけた。
「あれは悪魔草だ」
デイヴィスはすさまじい勢いで振り返った。顔には狂人一歩手前の表情が浮かんでいた。それは恐怖だった。何を食べさせられたかを知ったデイヴィスは死の恐怖にとらわれていた。
「あの肉料理はピッポとエルマの合作だったんだよ、デイヴィス。メニューの説明はした方がいいかな? 悪魔草が遅効性の致死毒であることはすでに知っているようだが。ああ、もちろん俺とあんたのメニューは違うものだ」
デイヴィスは再びマリオの前に座った。すでにその顔は引退した老人のものではなかった。死の恐怖に彩られた顔でもなかった。そこにいたのは老いてなお鋭い牙を持った闘犬だった。
「交渉、というわけかね、ルーキー・マリオ?」
死の刻限が一秒ごとに刻まれているとは思えないほど落ち着いた様子でデイヴィスは口を開いた。
「悪魔草の解毒が困難であることは私も知っている。今から薬を調合したのではおそらく間に合わないだろう。だが貴様は持っているはずだ、混血の魔女エルマが作った解毒薬を」
デイヴィスは微笑んだ。
「それを使って交渉を進めるつもりなんだろう? ひよっこが考えそうな浅知恵だぞ、それは」
「アドバイスはもういい。それより、あんたは俺の質問にまだ答えていない。なぜヤクに手を出した? 食っていくだけならばあんたのところは十分すぎるほどの金を得ていたはずだ」
「金だけならばね。だが時代は変わったんだよ、ルーキー・マリオ」
「どういうことだ?」
「灰色狼が去った《狼の血族》の下では私たちも安全ではないということだ。一年前にドン・ルチアーノが殺されたときから、《牙犬の魂》はあんた方の側に立っていろいろと動き回ってきた。だがそれももう限界だ。四大ギルドの商売の邪魔をする狼たちに協力している私たちを心良く思わないものたちがいるということだ」
「なるほど……」
マリオはつぶやいた。
「つまり、あんたはそのギルドの者にこう言われたわけだな――狼の時代はもう終わった。狼はお前たちを守る力を失ったんだ。うちが卸すヤクをさばけ。そうすれば金と安全をやる、と」
「その通り」
難問に正解した生徒を褒める教師のようにデイヴィスは微笑んだ。
「さて、ここからが交渉の始まりだ。あんた方にとっては《牙犬の魂》が四大ギルドの傘下に入ると非常に困ったことになる。長い年月の間に私たちは《狼の血族》に関するあらゆることを知りつくしていたからね。当然その中にはあんた方の弱点となる情報も含まれている。それに――」
「デイヴィス、あんたは勘違いしているようだ」
マリオが口を挟むと、デイヴィスは怪訝そうな顔つきになった。
「何をだ?」
「解毒薬なんか、ない」
マリオはため息をついた。
「俺はあんたと交渉するつもりなんかない。言っただろう。死、あるのみだと」
マリオは片手を上げた。
その瞬間、グラスとジーナが動いた。
突風のようだった。ずっと腕組みをしているように見せかけていたグラスだったが、その手にはすでに小型の隠しナイフを握っていた。左手と右手に一本ずつ。それでデイヴィスの背後にいる五人の護衛の内、二人を片づけた。お揃いのようにナイフを胸から生やした二人の男は、何が起きているか理解できない表情を浮かべながらゆっくりと倒れていった。
ジーナのふんわりとしたドレスの裾は破り取られていた。大型のナイフが太ももに巻きつけられていた。ジーナは獣のように低く素早く動いた。この一年で鍛えられた判断力は護衛の中で一番早く事態に反応していた男に狙いを定めていた。ジーナは突進した。腹の内臓を狙った一突きを繰り出したが、男がかわしたせいで脇腹をかすめただけだった。だが慌てなかった。突進の勢いをそのまま利用して、自分の肩を相手の不安定な足腰にぶつけると、男を床に打ち倒した。その上に馬乗りになって喉を素早くかっ切ると、次の獲物に狙いを定めるべく、ジーナはドレスを返り血で濡らしながら素早く立ち上がった。
だが、そのときにはもうほとんどが終わっていた。
残る護衛の二人はマリオが片付けていた。破壊された人体がそこにはあった。一人は首の骨が折れていた。もう一人は肋骨と内臓を潰されていた。
全ての戦いがそうであるように、長く短い戦いだった。時間にすれば、ほんの数秒間の出来事だった。デイヴィスが懐からようやく得物を取り出した頃には彼の護衛はすでに倒されてしまっていた。血に飢えた若い狼たちは俊敏で、老いた牙犬の反応速度はあまりにも遅すぎた。
「ボス・デイヴィス」
唇の端についた返り血を舌でそっと舐めとりながら、マリオは言った。
「最後にもう一回だけ訊いてもいいかな?」
あっという間に始まり終わった出来事にデイヴィスは呆然としていたが、それでもマリオの問いかけはきちんと耳に届いたようだった。ぽかんと開かれた口からは気の抜けた返事が帰ってきた。
「何を、何を訊きたいんだね?」
「あんたはドン・ルチアーノを敬っていたんだろう」
マリオの声は悲しげといってもいいくらいだった。
「どうしてヤクに手を出したりしたんだ? もしドンが生きていたら、あんたを軽蔑したんじゃないか?」
すでに何度も発された問いだったが、それは気付け薬のような効果をデイヴィスにもたらした。
「なぜかって? あんたがそれを私に聞くのかね?」
怨嗟の声だった。
「最後のアドバイスだ、ルーキー・マリオ。人はみんながみんな強く生きられるわけではないことをあんたは知っておくべきだ。そして大切な者を守るためには善と悪を両手に持たなければいけないことを覚えておくべきだ。これが私からの最後の忠告だよ、ブラザー」
デイヴィスは大振りの刃物を構えた。
マリオにとって、老犬の最期の牙は重く、苦しく、そして哀れだった。
デイヴィスが振り下ろした腕をマリオは軽々といなした。そして顔面に頭突きを食らわせて動きを止めると、老人の頭を片手でつかんで硬い床に叩きつけた。
ぐしゃりという音がして、一輪の真っ赤な花が咲いた。
それが灰色狼と同じ時代を生きた老犬の最期だった。
レストラン・ビアンキに《狼の血族》は再び集まっていた。貸し切りではなかった。少し離れたテーブルには遅めのランチを楽しむ人々が数組いた。ビーチェ・ビアンキがその間を軽やかな足取りで歩いて給仕している。
モーガン・デイヴィスの死から数日経った日の昼間のことだった。すでに後処理は全て済ませてある。《牙犬の魂》で薬物の販売に関わっていた連中は全て、その日の晩の内に始末していた。そうすると、もともと彼らは少人数の組織だったせいもあって、《牙犬の魂》に残ったのはほんの数人だった。彼らをまとめることになったのは今回の件の発端になったビッグ・ベンだった。自分には大きな責任と義務があると考えたビッグ・ベンは組織のボスを自ら買って出たのだった。彼が《牙犬の魂》のボスになって最初に行ったことは組織の再編成ではなく、マリオに忠誠の誓いを立てることだった。
固い金属音が店に響いた。四人の狼は一瞬ピクリとしたが、それは客の一人が食器を落とした音だった。ビーチェが何事もなかったかのように回収すると、店内にはざわめきがすぐに戻った。
レストラン・ビアンキで数日前に凄惨な殺人が行われたことを知る者は、《狼の血族》《牙犬の魂》、そして店主であるピッポだけだった。他にこの件を知る者は誰もいない。街ではデイヴィスが狼に粛清されたと噂が飛び交っているが、その事件の舞台がレストラン・ビアンキだったことはその筋の者にも知られていなかった。
レストラン・ビアンキは今日も通常営業だった。
店主であるピッポが自らマリオたちのテーブルに食前酒を運んできた。店には常に狼たちの席が用意されていた。周囲を警戒しなくてもいい位置にあるテーブルだった。その席を常に空けておくこと。全てのサービスを自らの手で行うこと。そしてボス・マリオの心に全てを委ねること。それがピッポ・ビアンキなりの忠誠と信頼の証であるらしかった。
ピッポが厨房に戻ると、マリオたちはワインを手に取ったが、特に何かに唱和することはなかった。ごく普通に口をつけて感想を言い合うだけだった。その後に続く料理を片付ける間の話題も似たようなものだった。
モーガン・デイヴィスの話題が出たのは、カップに満たされたコーヒーが残りわずかになったときのことだった。
「ボス・デイヴィスの人生を心から尊敬していた」
そういえば、といった感じでマリオが唐突に口を開いた。
「彼がときどきくれたアドバイスは毒にも薬にもならなかったが。親父と一緒の時代を生きてきた人だったからな、ボス・デイヴィスは。俺の知らない親父を知っている彼のことを尊敬していた。彼の話を聞くのも本当に好きだった」
「それじゃ、彼を殺して後悔しているのか?」
グラスが興味深そうに訊いた。
「いや、別に。あれは仕方がないことだったと思っている」
「ああなってしまった原因は自分にあるとか考えているんじゃないかい?」
エルマが訊いた。マリオは考えるように顎に手を当てたが、返答は早かった。
「もちろん原因は俺にある。彼らに対して安全と安心を与えてやることができなかった俺にも問題はあったんだろう。だが、掟は掟だ。彼らを粛清しなければ、また同じようなやつらが傘下のギルドから出てくるかもしれない。そうなればまたヤクに傷つけられる家族が増える。ビッグ・ベンとその妹のように」
そしてマリオは肩をすくめた。
「ボス・デイヴィスの最期のアドバイスは正しい。人は善と悪を抱えなければ生きていけない。組織の長も例外じゃない」
「それはつまり善のために悪を行うということか?」
「いや、なんというか……それとは少し違うと思う。いや、実際のところはそうなのかもしれないが……」
マリオは顎先を胸にうずめて考え込んだ。
「なんといえばいいのか……どんな人間にも光と影があるんだと思う。ようはバランスなんだ。親父は黒にも白にもなりきれなかった。そこが親父の美点でもあったし、弱点でもあったんじゃないかと思う。いや、俺は何を言ってるんだろうな。自分でもよくわからなくなってきた」
「いや、なんとなくわかるよ」
グラスがぽつりと言った。
今なされた会話について、四人はそれぞれ考えた。コーヒーのおかわりを注ぎにピッポがやってきてまた去っていった。ランチタイムを過ぎたレストランに残っているマリオたちだけだった。
コーヒーのおかわりが冷める頃になって、ジーナが口を開いた。
「ボス・デイヴィスは私にとっては優しい叔父さんでした」
淡々とした口調だった。
「子供の頃、たまに家に遊びに来てお父さんとお酒を楽しそうに飲んでました。私もよく遊んでもらいましたよ。歌とかダンスを教えてもらったりして。そういうのがすごく上手な人でしたね、デイヴィス叔父さんは」
「ジーナは後悔しているのか、ボス・デイヴィスのことを?」
マリオが訊くと、ジーナは先ほどのマリオそっくりに肩をすくめた。
「いえ、別に。あれは仕方がないことでした」
それで会話は終わりだった。四人はレストランを出ると、それぞれのやるべきことをこなした。マリオはビッグ・ベンと今後のことについて話し合った。ジーナは彼の妹の見舞いや新たに増えたシマの住人の挨拶に回った。グラスとエルマは組織が出資している薬物中毒治療の病院へ行き、そこで患者の受け入れ体制や予算のことについて話し合った。別になんということはないいつもの仕事、いつもの一日だ。
この一年で、狼たちにとって殺しは日常のことになってしまっていた。
だが実際のところ、この日常を積み重ねた先にどういう世界があるのか、彼ら自身にもよくわかっていなかった。
血に塗れた道だった。この道は積み重なった屍と固まった血でできているのだと思うようなことが、この一年間次々と起こっていた。彼らは自分たちが信じるもののために血塗られた道を歩んでいたが、行き先を照らしてくれるのは今は亡き父親の教えのみだった。だが、その教えをこの暗黒の街で実践しようと思えば、血を流さないわけにはいかなかった。
人は善と悪を抱えなければ生きていけない。
黒か白か、光か影か。
彼らの行き先は誰も知らない。
異世界で冒険者ギルドに入ったら、そこはマフィアだった 霜田哲 @tetsu_9966852
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