ジニア泥棒
縦
ジニア泥棒
『久し振り!』
「……香?」
とある夏の終わり。
『庭のジニアがね、見頃なんだ。とっても綺麗なんだよ』
「じにあ」
『んーとね、ヒャクニチソウ。ちょっとオシャレなタイプの』
百日草なら知っていた。たしか高校の通学路に群生地があったはずだ。雑草のような顔をしておきながら、なかなか大きな花をつけた気がする。
香はのんびりとした口調で続けた。
『だからさ、見に来てよ』
この一言で充分だった。
翌日の金曜日、荷造りもそこそこに、繁忙期の職場を定時であがり電車に飛び乗った。
我ながらどうかしている。普段はもっと長考して、石橋を叩くことすらせず諦めることばかりなのに。
教えて貰った香の住所を何度も指でなぞる。その半分は見覚えのある文字列だった。香はどうやら、私達の地元に戻ってきているらしい。
伊坂香は私の幼馴染だった。
私の母と香の母が同じ産婦人科にかかっていた縁で、忙しい香の親に代わって、しばしば私の家族が幼い香の面倒をみていた。おかげで私達は姉妹みたいに育った。全然似ていない姉妹だった。香は明るくて優しくて強い、太陽みたいな女の子で、私は内気で地味な子供だった。でもきらきらな香は心まできらきらなので、付き合いが長いだけの私のことを親友と呼んで憚らなかった。毎日毎日二人だけで遊んで、その思い出は成人した今でも宝物となっている。
しかし子供とは大きくなっていくものであって、香は早々に自分だけの宝物を見つけた。
陸上はとても香に似合う競技だった。妨害も駆け引きも、やる人はやるらしいが、香は一切しなかった。彼女の目線の先にはいつも彼女なりのゴールがあって、その理想も恐ろしく高いものだった。私は運動と名のつくものが全て苦手だったので、陸での速さを極める香とは高校から別れることとなってしまった。
そしてそのまま交わることがなかった。
仲が悪くなったわけではない、と思う。高校以降は、仲違いの理由になるような事件も、喧嘩も、そもそもの交流すらあまりなかった。住む世界が変わったのだ。
最後の乗り換えを済ませると、海が車窓風景の八割を占めるようになる。夕日を反射するそれをぼんやり眺めながら、香が今になって連絡をしてきた理由を考えた。
しかし答えは出ず、気がつくと既に日は暮れて、背後の海が黒く沈んでいた。
*
潮風に錆びついた無人駅に、二両編成の電車が静かに身を寄せる。電車のドアが開いた瞬間、むわりとした熱気がなだれ込んできた。承知していたことではあるが、この地域は夜でも非常識に暑い。リュックサックを背負った背中がじわりと汗ばんだ。
「桐絵!」
駅の簡素な改札をくぐると、跳ねるようにまあるい声が辺りに響いた。
何年も会っていなくたって分かる。香だ。灯りがないのでおぼろげにしか見えないが、軽自動車の横で手を振る背の高い人影があった。私はどうにも堪らない気持ちになって、長旅に痺れる足を叱咤し駆け寄った。
「香、わざわざ迎えに来てくれたの?」
「だってこんな暗いのに、歩かせるなんて酷いよ」
それに、連絡くれたでしょ。
そう言って香は軽く笑った。確かに私は電車内で到着予定時刻を送った。でもそれには、急に来られても困るだろうという配慮以上の意図はなく、当然駅から歩いて向かうつもりだったのだ。私はなんだか幸せな気持ちで車に乗り込んだ。
しかし、香の全身が車内の安っぽいLEDに照らされるや否や、その喜びはかき消えた。
「香、か、髪」
「髪?」
「ショートになってる……!」
香の髪が短くなっていた。それも、項の辺りが刈り上げられたベリーショート。
「ええ、そんなにショック受けるもの?」
当の香は困ったようにへらりと笑って、私はやるせなさに唸った。そりゃあそうだ。だって香は知らないのだ。走る時、手を降る時、振り返る時、凛としたポニーテールがどれだけ美しく魅力的にひらめいていたかを。
髪型こそ変わっていたが、その性格は私の知る香そのままだった。常に笑顔を絶やさず、全ての人を思いやり、明るく楽しい話ばかりする。
そんな香が、この空白の四年間に全く触れないということは、つまりそういうことなのだろうか。
訊きたいことは沢山あった。でも、香を困らせてまで訊きたいことは何一つなかった。私は意図的に口数を減らして、香の気まぐれによって繰り出される、毒にも薬にもならない雑談に応じていた。
「すぐそこにね、久方病院があってさ、窓から見えるんだよ」
「久方……?」
「覚えてない? 私と桐絵が産まれたとこだよ」
ふと左側に顔を向けると、確かに大きな白い建物が見えた。
「懐かしいでしょう」
香は楽しげにそう言った。
私はもう一度気味の悪いほど白い外壁に目を遣った。私たちの取り上げられた大病院。ほとんど記憶がないのでろくな郷愁も生じなかったが、なんとなく頷いておいた。
住所を知った時点で分かっていたことだったが、香は香の実家ではなく、小ぶりな借家に住んでいた。それは寂しい平屋だった。大きな門があり、緑の垣根があり、外見は立派だけれど、室内はモデルルームさながらにがらんとしていた。一般の民家の持つ有機的な綻びのようなものがまるで無かった。つい昨日、季節外れの大掃除をしたのだと説明されたが、本当かどうかは分からない。
突き当りの寝室に一組の布団が用意されていた。
もう夜も遅いので、風呂も食べ物も要らないと伝えると、当然のようにそこに寝かされる。
少し経つと、軽くシャワーを済ませた香が同じ布団に潜り込んできた。一つしかなくてごめん、狭いよね。そう言いつつ、大して気にはしていないようだった。幼い頃は身を寄せ合って眠るのが当たり前だったからだろう。
香は一瞬で眠りに落ちた。なんという無防備。どうやら私を嫌っている訳ではないらしい。それが分かっただけでもここに来た価値があったと思えた。
*
翌朝。私が覚醒したときには既に、香は朝食作りに取り掛かっていた。上半身を柔らかい毛布に包まれて、下半身に畳の仄かな冷たさを感じながら、卵か何かが焼ける音を聞いていた。優雅な朝寝坊だった。
布団の誘惑を振り切ってリュックサックから衣類を取り出し、やっとの思いで着替え終わると、起こしに来てくれたらしい香と目が合う。ぎこちない挨拶を交わした後、私はずっと気になっていたことを尋ねた。
「ジニアって、どこ?」
香はにっこり笑って手招きをした。
「着いてきて」
居間の少し奥に進むと褪せた縁側があった。香は建て付けの悪そうなガラスの引き戸を開け、日当たりの良さを喜ぶように伸びをした。
「桐絵、ほら。あれがジニアだよ」
家主は、庭の一角に人差し指を滑らせ言った。
それは見事なジニアだった。通学路のものとは全然違った。赤、オレンジ、ピンク、紫、白。香の心みたいな明るい色。一体いくつあるのだろう。小さい鉢と中くらいの鉢がきゅうきゅうに並べられ、随分賑やかそうにしている。
香が電話口で言ったように、確かにこれは誰かが鑑賞し、感じ入り、愛でなければいけないものだった。
突っ掛けを貸してもらって庭に降りる。これらの鉢は全て、香が近所のホームセンターで買い集めたものらしい。ジニアをまじまじと見つめると、花は無垢な子供みたいに見つめ返してきた。
ふと、一際花が立派な赤いジニアの鉢に、不自然な空間を見つけた。気になって根元をかき分けると、ちょん切られた茎があった。
「へえ、このジニア、ブーケにでもするの?」
「ん? しないけど」
「え、でもこれ……」
そこで香は心得たように言った。
「あ、それはね、妖精さんの足跡なんだよ」
香によると、毎週土曜日、庭に小さな妖精さんがやってきて、その時一番輝いているジニアを貰っていくのだそうだ。
私はギョッとして、香の顔と、ジニアと、開け放しの門とをしばらく見比べた。
「ええ、花泥棒、が、来るの? ここに?」
「花泥棒! いいね、それ。なんか格好いいね。私そういう題名の本読んだことあるよ」
そういう話ではない。たかが一本の花だとしても、窃盗は抑止されるべき犯罪だ。しかし香は全く気にせず、むしろ嬉しそうでもあった。
多分、今日も十三時位に来るよ。そう言い残すと、家主は朝食作りに戻って行った。
私は拍子抜けしてしまって、なんだかどうでもよくなった。
香がいいなら、まあ、いいか。ここは私の家ではなく、香の家だ。香のものは香のものであり、それはどんな偉人であろうと、暴君であろうと、侵食できない当然の原理なのだった。
信じられないくらい美味しい朝食をいただき、それからいくつか話をした。話すといっても、その内容は話した先から忘れていくような些細なもので。会話と言うより、形式的な親愛行動と言った方が正確だった。昔馴染みだからだろうか。これだけ長く離れていたのに、香との会話はまるで七並べの最後の1枚みたいに私という存在にぴったりとはまっていた。
会話があれば沈黙もある。香はその少しだけ続いた静寂に、躊躇いがちに、今暇か、という伺いを差し込んだ。
「手伝って欲しい事があるんだけど、その、いいかな」
私は一も二も無く首肯した。どんなものであろうと、香の願いは全部叶えたい。香のやりたいことが、今の私のやりたいことだった。
*
どこに仕舞われていたのか、『かんたんかわいいブーケのつくり方』という本を渡された。香の手伝ってほしいことというのは、ジニアのミニブーケ作りだった。
「桐絵、花屋でバイトしてたことあるでしょ」
確かに、していた。でもそれは高校1年生の半年間だけで、その後は花になんて一切触れていない。そもそも花屋では外注と受付の仕事ばかりを任されていたから、フラワーアレンジメントのノウハウなど全く学ばなかった。
「ちょっとかわいい感じにしてあげてね。あんまり子供っぽすぎるのも、良くないと思うけど……」
ん? 私は内心首を傾げた。香が誰かのニーズに沿おうとしている。
「誰にあげるの?」
「妖精さん」
「ええ!」
私はひっくり返りそうになった。香が優しいことは知っていたが、まさかそれが泥棒にまで発揮されるとは思っていなかった。
「か、香。やめなよ」
香は眉を下げて、困ったように微笑んだ。私は知っている。これは人の否定意見を棄却しようとする時の顔だ。
「お願い桐絵。私ここにずっと一人で住んでたから、定期的に妖精さんが来てくれるの、結構嬉しかったんだ。まあ自分から一人になりに行ってたんだけど……」
この案自体、思いついたのは大分前なんだ。でもひとりじゃできそうになかったから。
香は駄目押しのようにそう付け足した。
結局私は香の作業をを手伝うことになった。若干不本意ではあったが、それよりも、言葉の殆どが過去形で結ばれていることが気になった。
ブーケ作りはまず材料調達から始まる。本当は何種類もの花を使うのだが、私たちが扱うのはジニア、たった一種類だ。
香は、どこから持ってきたのか、庭のジニアの花を大ぶりの裁ちばさみで切り取った。赤、オレンジ、ピンク、紫、白。カラフルな花々がテンポよく落ちていく。
あまりに躊躇いなく切り落としていくので、私が耐えきれなくなって、香の肩を軽くはたいた。
「いくら泥棒って言っても、そんなに多いんじゃ全部は持って帰れないよ」
「ああ、確かに」
香は裁ちばさみを置いた。なぜだかホッとした。
花を紐でしっかりと束ね、茎を揃えてカット。ブーケとして長持ちさせるには、ティッシュを水で湿らせたものをアルミホイルで包んで、茎部分にセットしておくのがよい。
ここまでは私も知識として知っていた。問題はラッピングだ。装飾ペーパーは角が出るように折り曲げて包むと綺麗に仕上がる、らしい。
とりあえずあり合わせの二色のボール紙と赤いリボンで包んでみた。想像以上に“ぽく”なった。二人共なんだか楽しくなってしまって、どんどんデザインや装飾を凝り始める。ネットで拾ったオシャレなリボンの結び方をお互いに教え合ったりもした。
どう考えても作り過ぎだったが、香と同じ歓びを共有できているこの時間が貴重で、言い出さなかった。いつまでもこうしていたかった。
取って来た花を全部ブーケにしてしまうと、香はいよいよブーケの一つを門の端に置いた。
来るかな、と香が言った。来るよ、と応えた。まだ十二時前だったし、彼らが来る可能性は大いにあった。
本当は来ないでほしかった。
*
リビングの机を見ると、香が事切れたように突っ伏して眠っていた。私が手洗いに立ったわずか数分の出来事だった。
私達は直前まで昼食の献立について議論を交わしていた。しかしこうして家主が寝ているので、昼は抜くことになるのだろう。正直なところお腹は空いていなかったのでちょうどいい。
ブランケット等軽く掛けられそうなものは見当たらなかったので、私は寝室から毛布を引っ張ってきて、香の肩に掛けた。
そして縁側に出て、庭のジニアをじっと睨むように見つめていた。
はたして泥棒は十三時ちょうどにやって来た。
予想よりもずっと幼い、お揃いの麦わら帽を被った兄妹だった。キョロキョロと人目を気にしながら、音を立てないよう庭の土を一歩ずつ踏みしめている。花束の存在は認識できなかったようだ。
しかし私という大人の影には直ぐに気が付き、お手本のように震え慄いた。それから左斜め後方をちらりと見た。その方向には、病院がある。
ああ、と直感した。お見舞いだ。彼らはジニアをお見舞いの花にしているのだ。
香が彼らを疎まない理由がよく分かった。香は人の愛情にすこぶる弱い。
私は今朝使ったまま放置していた突っ掛けを履き、門に向かった。かわいい花泥棒達は、この隙に逃げればいいのに庭の隅で小さくなっている。私はささやかな花束を掴み、大股で彼らのもとに歩み寄ると眼前にそれを差し出した。
「これ、持っていって。周りの飾りは途中で剥いでいいから」
子供は不気味そうにブーケを観察していた。その視線が不快でいやに喉が渇いた。苛立ちを抑えるため、私は空いている左手を強く握りしめる必要があった。
少しの静寂の後、彼らは緊張した面持ちでそれを受け取った。ぺこりと頭を下げ、幼い兄が呟く。
「ごめんなさい。もう、来ないから……」
「来てよ」
無意識に声を出していた。
「来てよ、絶対、来てよ」
どうしてこんなに必死なのか、とっくに理解していた。私は何より、香を裏切ってしまうことが怖いのだ。
*
妖精たちが帰った後も、香は長いこと起きなかった。
起床時にはきっと空腹に苦しむだろう、何か用意してあげた方がいいと思い立ち、冷蔵庫を覗く。コープ生協を利用しているらしく、予想以上に食材が詰まっている。その中に冷凍のチキンライスがあった。卵もあった。
そうだ、オムライスを作ろう。私の記憶が正しければ、昔の香は、ケチャップのたっぷりかかったオムライスが好きだった。
しかし肝心の作り方は知らないので、とりあえずチキンライスを電子レンジにぶち込み、フライパンに油を敷いた。ここまでは分かる。
私が卵の割り方に困り固まっていると、いつの間にか目覚めていた香が見かねて続きを担ってくれた。よかった。私は料理が下手くそだ。
香のオムライスは幸せの色をしていた。生まれたての雲みたいに柔らかい黄色。慣れているのか、なんと半熟である。私だったら焦がしていただろうから、早めに起きてくれてラッキーだった。
向かい合わせで食卓に着きながら、花泥棒が例のブーケを持っていったことを伝えると、香は分かりやすく嬉しそうにした。
「あの子たち、喜んでた?」
静かに頷いた。そうすると香は益々喜んだ。私はこれが正解だと知っていたので、罪悪感はなかった。
*
翌日は透き通るような晴天だった。
この日、私達は本当の子供のように遊び過ごした。
トランプ、UNO、人生ゲーム、DS。ゲームと名のつくものにただただ時間を費やした。嬉しい時、暇で暇で仕方がない時、落ち込んだ時、昔の私達はよくこうして遊んだのだった。
楽しかった。楽しかったから、時間は理不尽な程早く過ぎ去った。
帰りの電車の時刻が迫っていた。
香が車のキーを弄んでいる。有り難いことに、香はまた私を駅まで送ってくれるらしい。
居間の床に敷かれた新聞紙の上には、私たちが制作したブーケがずらりと並べられている。香は、私がリュックサックのジッパーを閉じるのを見届けると、そこから一つのブーケを手に取った。
「これ、桐絵が持って帰ってよ。一番綺麗に出来たんだ」
しかし予定時刻が来ても、過ぎても、電車はその気配すら見せなかった。二人して顔を見合わせる。
スマホを操作すれば、その理由が直ぐに分かった。あらゆる電車が遅延しているらしい。それも、数時間。
「……どうする?」
香が戸惑ったように投げかけた。その背後では、広大な水源が夕日に輝いている。
私はさもたった今思いついたかのように声を上げた。
「海に行こうよ」
香とはよく海に行った。海遊びには大抵保護者が付いてくるものだが、それを振り切って二人きりで遊んだ記憶が多い。砂に塗れて潮に塗れて、くちゃくちゃに笑い合ったあの頃がどうしようもなく懐かしかった。
簡易的な堤防にリュックサックと靴と靴下を並べ、裸足になった。私は美しい花束の所在に迷って、結局持っていることにした。久方ぶりの砂浜に足を埋めると、案の定香が体勢を崩し、慌てて花の無い方の手で引っ張り上げた。香の手は老人のように骨張っている。
香は痩せた。本人に告げる気はさらさらないが、首は細く、背骨が浮き出て、腿は真っすぐで、肌の艶も失われている。それでも彼女の瞳だけは昼の海のようにきらきらしていて、それが救いだった。
香が離さないので、何となくそのまま、手を繋いだまま歩き出した。
「この海、初めて来たよ」
香がぽろりとそう零した。
どうして? 何も訊かないつもりだったのに、思わず尋ねてしまった。オレンジ色の太陽の光が柔らかく香に注いでいた。香はぱっちりと丸い目をさらにまあるくさせて、ちょっと首を傾けて、海を見た。夕暮れ時の海は香という人間によく似合っていた。似合いすぎているようにも感じた。
どうしてだろうなぁ。行こうと思えなくて。そう囁きながら、香はずっと、海を見ている。
薄々気がついていた。香の一連の明るさは、空元気だ。
流木の落ちた砂浜で、ただ海岸線を歩く。確かに波の音がしているのに、痛みをおぼえるほど静かだった。どちらも何も話そうとしなかった。
不意に、なんの前触れもなく、香が駆け出した。手を繋いだままだったので、私は転びそうになる。転びそうになりながら、小さなブーケを力の限り握り締め、彼女の背を追いかけた。香が走っていた。青白い脚で、短い髪で、足元のぐらつく砂浜を走っていた。
伊坂香は足が速かった。高校二年生の時、陸上の全国大会の団体リレー決勝でアンカーを走った。頂点を獲ることは叶わなかったが、香の最後の追い上げでチームは表彰台に登ることができた。快挙であった。しかし香は悔しさに両手を握りしめながら涙を流した。それを傲慢だ、不遜だと言う人がいたけれど、そんなことはない。だって香は足が速いのだ。それは香の持つ個性であり、才能であり、それ以上のものでもあった。少なくとも私はそう信じていた。学校の誰と走ったって、かけっこは香ちゃんが一番で、親友の私はそれが自慢で—―。
思い出した。香と連絡がつかなくなる少し前、香は陸上日本選手団の一員に初めて選出されたのだった。夏だった。香は久しぶりに地元に帰って来ていて、同じく帰省していた私とばったり会った。私は香に、おめでとう、と言った。がんばれ、と言った。がんばれ、きっとうまくいくよ、がんばれ。
二十五歳の香による砂浜ダッシュはそう長く続かなかった。彼女は緩やかに減速し、立ち止まったかと思うと、その場でふらふらとたたらを踏んだ。肩で大きく呼吸をしていた。私も、息が苦しかった。まるでマラソンの後のように汗がどおっと出て、香もそうだった。でも慢性運動不足の私が追いつけていたほどだから、実際のところあまりスピードは出ていなかったのだろう。海風の蒸し暑さにたった今気がついたみたいに、けほ、と香がひとつ咳をして、そのまま滴り落ちるようにはにかんだ。
「楽しいね!」
香は笑っていた。それは眩しく、切なく、悍ましいまでに正しい笑顔だった。産毛の先まで歓喜に染まっていた。
私はまるで笑うことができなかった。そこには諦めに似た恐怖があった。私は知っている。香はいつだって正しくて、綺麗だ。だからみんな香のことを欲しくなる。そしてそれはきっと、ちっぽけな人間に限った話ではなくて。
夕日の金色に縁取られた香は、宗教画みたいに美しい。もし私が神様で、誰かひとり人間を手元に連れていくことができるのなら、香を選ぶだろうと思った。
少し経って、香は、戯れに足元を濡らしながら来た道を戻り始めた。お互いの手がぴったりとくっついているせいで、自然と私も海に入ることになる。海水は重く、生き物みたいに温かった。波が母親の手のひらのように優しげに私たちの足指の間をくすぐった。
「あっ」
声を上げたのはどちらだったか。
私たちの歩いてきた遥か遠く、一輪のジニアが放られていた。手元の花束に目をやる。確かに一本、足りなかった。
香はそれに真っ直ぐ歩み寄ると、丁寧な仕草でつまみ上げ、砂を払った。一度波に攫われたらしい。赤いジニアはくったりとして、花弁に黒い粒子が満遍なく付着している。お世辞にも美しいとは言えない姿だった。
香は呆気なく告げた。
「捨てちゃおうか」
「えっ」
「え?」
香のきらきらの瞳がこちらを向く。
「いや……」
私は何も言えなかった。いや違う。言わなかったのだ。
電車の時間が近づいていた。
*
香は身内以外の全ての人と連絡を絶っていた。友人も、陸上仲間も、少しいい雰囲気だったあの男も、全員。
それは他でもない香が決めたことだった。だから当然、式は身内だけで行われたし、まだ枯れてすらいなかったブーケ達は棺桶に入れられ燃やされたのだ。
私はそれらの情報を信じられない気持ちで聞いた。
あの日以来、香との連絡が途絶えた。
四年間も音信不通だった前例があるせいで、私は一切既読の付かなくなったメッセージにさほど不安を抱かなかった。
それでも、寂しいものは寂しい。だから偶然東京で香のお母さんに出会ったとき、これまでの経緯を話し、そっと相談してみた。すると彼女は蛇口を捻ったように泣き出して、私に何度も何度も謝った。
ごめんね、もういないの、と。
少し落ち着くと、お母さんは香の病気のことも教えてくれた。例の久方病院に通い詰めていたらしい。あの平屋は、通院のためのものだったのだ。
「お庭にたくさんお花があるでしょう、あれはまだそのままなの」
彼女は涙を拭いながらそう言った。
「うちにはあんなに置けないし、処分するのも…って感じでしょう。でもね、この間貰ってくれる人が見つかったから、その人にあげるつもり」
「も、らう人がいるんですか」
「ええ。お隣の園芸好きのおばあさんが——」
その後の話は覚えていない。
*
木枯らしの吹きすさぶ町に、白い自動車と共にやってきた。大型のミニバン。こんな大層な代物、上手く運転できるかどうかわからなかったが、きちんとお金を払って借りた。カーナビにかじりつきながら、慣れない運転に悪戦苦闘していると、いつの間にか見覚えのある風景に囲まれていた。
門をくぐり、庭の芝生に足を踏み入れた。背の低い雑草は草臥れて、茶色が混ざり始めている。しかし花は前回と同じく美しいままだった。
ジニア。香の心みたいに美しい花。
あの兄妹がどうしているのかは分からない。今はもうどうでもよかった。
鉢植えを一つ、二つ、と運び出した。段ボールに入れて、成人が二人寝転べるほど広いトランクに詰め込み、乗り切らない鉢は養生テープで座席に固定する。茎が折れてしまいそうで恐ろしかった。折れたら取り返しがつかない。きっとこのジニアたちは再生などせず、ただ朽ちていくだけなのだ。何よりも、誰よりも、大切に扱わなくてはいけない。
私はジニア泥棒になった。
意味もなく遠回りして海辺を走った。助手席に座らせたジニアの葉一枚一枚が月光に照らされて、濃い影を作った。
経年劣化でぼやけた街灯に、目がチカチカして、胸がムカムカして、喉がきつく締まって。叫び出したい気分になった。全部全部殺してやりたい気分になった。
ごめんね香、私、本当は、誰にもあげたくなかったんだよ。
ジニア泥棒 縦 @tatetatetate
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