2 - 生存バイアスとドラゴンの肉
春の季節に差し掛かり、着込む服が一枚減った。どこか灰色がかっていた風景も、少しずつだが鮮やかに息づくようになってきた。いや、アジルにとって風景はいつも灰色だった。色が見え始めたのはもしかしたら、押しつけがましい
(今日か明日くらいでしょうね、研究室を追い出されるのは。過去の影響に
さっさとコーヒーを流し込みたい。研究室のドアにカギを差し込み開けた後、液体がこぼれないよう慎重にドアを開け、そして確実に閉める。すぐにカギを二重に閉め、本棚で仕切られた先に誰かいないものかを期待して中を覗くと……。
「アージールーさーん!」
蛇の木製の仮面。大きな牙が四本、舌が正面に長く突き出されている。
「ご飯にします?」
左手には細く鋭く大きく長い包丁、右手には
「お風呂にします?」
革製のエプロンと手袋。使い込まれているのか、獲物の命の
「それとも……タ・マ・ゴ?」
よくよく見れば、エプロンと手袋以外、身を隠すものを着ていない。コーヒーを一口飲んでから溜息をつく。いつものデスクに座った後、ヴィーラの肩周辺を横目に見る。
「なんて古典的な。人間の新婚初期において妻が帰宅した夫を玄関で出迎える、お約束的な展開ですね。全ての欲を満たそう妻が前のめる様が微笑ましい場面なのかも知れません。しかし、朝食はこのコーヒーで十分ですし朝はシャワーを浴びました、そしてタマゴづくりは
「はい! 解体でいつも使ってます!」
「それは人間を?」
「さすがにラミア族でもそこまでしませんよー。でも最近ドラゴンは解体しましたね。鱗が硬くて大変でしたぁ」
「ふむ。お強いんですよね? ドラゴンって」
「うーん……ラミア族が五人いれば半日で狩れます! 人間だと、どうなんでしょ……
「なるほど。ドラゴンが絶滅した噂の正体は、目撃者は大抵死んでいるっていう生存バイアスなんでしょうねぇ」
「ところでずっと目を
動揺しているとは思われたくないので、風邪を心配する話から別方向経由で「服を着てください」とお願いをした。ヴィーラは仮面をずらして
*
ソファに座り、包丁を使ってジャグリングをしている。そういえばヴィーラの服装と髪型が、前に会った時とは違う。そんなにコロコロ変えるのは、ラミア族の移り気だろうか。ヴィーラを眺めているうちに、気が付くとアジルはコーヒーを飲み切っていた。
「そういやアジルさん、朝ごはん、本当にそれだけなんですか?」
「いつもこれですね」
「それだけですか? だからそんなに細いんですか? もっと食べましょうよ肉とか肉。ドラゴンの肉も持ってきましたし、食べます?」
「それは……さすがに興味ありますね」
「ですよねぇーよかったー。ラミア族では大人気なんですよ、ドラゴンの肉」
大きな葉に包まれた塊を取り出した後、ふと動きを止め「汚れるの嫌ですよねアジルさん、どこに置けばいいですか?」と聞く。折り畳みの机を部屋の奥から取り出してから「ここにどうぞ」と手で示す。
「でも正直、興味があるとは思わなかったです。アジルさんって、なんかいつも食欲を感じない感じなので」
「そうかもしれません。あまり食にこだわらないので」
「普段、何を食べてるんですか。人間って結構グルメだって聞きましたけど」
「はい。コーヒーにジャガイモ、焼いたトマトとインゲン、ウィンナーと目玉焼き、ですね」
「それは朝食ですか?」
「いえ、これを毎日三食です」
「うげぇ……食べられれば十分ってタイプなんですね」
「ヴィーラさんは違うんですか?」
「美味しくないは罪深い、です。ちょっと待っててくださいね」
葉の結びをほどき広げると、白い肉、両手で持ちきれない程の大きさ。
「
「待ち伏せる子は白いですよー、宝をため込むのって獲物を誘いこむ狙いですし。ずっと動き回ると体が大きい分、栄養足りないのかもです」
「あーそういう生態系なんですか、これはこれは面白い」
「……きっとアジルさんのは真っ白ですね!」
「ヴィーラさんのは真っ赤っ赤でしょうね」
ヴィーラは、さきほどから散々
「んふふ。じゃあ、まずは少量」
「これでも多いくらいですけど。まぁ頂きます」
鼻に近づけると、何か
「うーん……うん、うん。鼻に嫌な臭いが抜けますね。しかし味はいいですね。あとは噛み応えが想像以上なのと……うま味が中々に強い。でも、この燃料みたいな匂いが気になりますね」
「そうなんですよー。生のままだと危ないんです。火を少しでも近づけると、森ひとつが消し炭になるくらいお盛んなので。だから干し肉にするんですー」
「なるほど。水気を抜けば安定するということですか」
「はい! 干すと匂いも落ち着くし、小さく切って持ち運びやすいので、ラミア族にはすっごく人気なんです。この暖炉は魔法の熱なので大丈夫でしたけど、普通の火だと……」
「先に断りを入れましょうね。魔法省が爆発したら私の首も綺麗に飛びます」
「あとですね……ドラゴンの肉が人気な理由がありまして。食べた後、どうです? お体の様子とか」
「そういえば、カッカしますね。暑いというか血の巡りがよくなっているというか」
「そうなんです。アジルさんの真っ白な体を赤く染め上げるくらいの……これは
「あー、だから持ち運びやすい干し肉なんですね。人気の理由が嫌って程にわかりました」
「と! ここまで来たらアジルさん!」
ヴィーラは、第一ボタンをはずし、第二ボタンを弄り始めた。首筋を伝う一筋の汗。下目使いは、アジルの瞳をじっと捉えて離さない。ヴィーラのきめ細かい肌の下が、ほんのり赤く染まっている。
「ドラゴンの肉を食べたんですよ。その肉のせいってことでいいじゃないですか。アジルさんのせいじゃないよ。アジルさんは悪くないよ。ヴィーラとのタマゴづくり、森が燃えて消えるくらい、一緒に熱くなりましょう……」
ドアが強くノックされる音。窓が勢いよく開けられ、ヴィーラが外に飛び出していく。やはり人間と魔族の
震える手でカギをあけると、そこには先日の新人研究者がいた。「アジル様、今日は顔色がよろしいですね」と言われる。そうですかね、とはぐらかした。
そのデータが記されたメモを見る。ふむ、予想以上の進捗だ。後ろから追い出され消えるだろうコンプレックス、しかしヴィーラの純粋さを思えば、まずは目の前を応援すべきだろう。
「この方向性でいい。
その方が私の身も安全だ、と心の中で付け加える。新人研究者を見届けドアを閉めた時、かつての自分なら絶対にしなかった行為を
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