熊蟄穴 〈くまあなにちっす〉

 イズにヒントを貰って、少し自分の中でぼんやりしていた考えが纏まりつつあった。

俺があいつに出来る精一杯。

あいつを笑顔に出来る精一杯。

それに向けて、動き始めていた。

 コータは、俺がコソコソ動いてるのを知っていて、見て見ぬ振りをしてる。

それ絡みの連絡が来て、部屋に戻って電話してたりしても、わざと風呂に行ったりして、何事も無かったようにしてる。

そういう何気ない気遣いみたいなの、コータらしくてたまらない。

喜んでくれるといいな。

  

 ただ、1つだけ気になる事があるとすれば、ナイトだ。

 あんなに俺にくっついて、甘えていたナイトが、最近実家に行っても顔すら見せない。

 子供だと思っていたナイトも、来年の春には中学生。瑞穂に恋をしてから、身体も心もグッと成長した。

イズとの離婚。コータの引っ越し。否が応にも分かってしまう、俺たちのこと。ましてや、コータは瑞穂の父親だ。ナイトの中で消化しきれないのは、よく分かる。

今はまだ、理解出来なくても当たり前。でもいつかきっと分かってくれる日が来る。そう思ってる。

 だけどそれは、少なからず俺の心に影を落としていた。


「今日、ちょっと実家に寄ってから帰るから、鍵忘れないようにね」

朝食の洗い物をしながら、バタバタと出かける準備をしているコータに声をかける。

俺が先に帰ってる安心感で、コータはよく鍵を忘れていく。

「分かった」

玄関で靴を履き始めて、そう返事もしているのに、鍵はテーブルの上にある。

コータがせがむように俺を見る。

「もう」

洗い物を中断して、鍵を取って玄関に向かったところで、差し出した鍵ごと引っぱられ、抱きしめられる。

「最近、玄関まで来てくんないから、確信犯」

コータの言葉が、耳をくすぐる。

確かに、コータが就職してから、朝はお互いに忙しくて、見送りもちゃんと出来ていなかった。

「行ってらっしゃい」

仕返しのように、コータの耳元で言った。

コータの腕が、グッとまた俺を包む。

「電車遅れるって」

力を失った腕が、スルスルと俺の身体を下って離れ、まだ起きたままの前髪をかき分けて、おでこに口づける。

「行ってくる」

残念そうなその声に微笑んで、もう一度

「行ってらっしゃい」

と見送る。

 抑えてないと、隠してないと、好きが溢れ出て、俺が俺でなくなるみたいな気がしてしまう。

ごめん、コータ。

本当の俺は、お前が思うほど強くはないんだ。

口づけられたおでこに右手で触れる。

強がってるけど、ホントはもう、お前無しではいられない、ヤワな奴なんだよ俺は。

薄っすらお前も気がついてんだろ、なぁ。


 俺が用意してきたリストを見ながら、マチルダさんが呟いた。

「愛だねぇ」

時折、紙越しにこちらを見ては、意味ありげに微笑む。

「こないだナイトがね、コウちゃんに聞いたの。『ほだは小さい頃どんな子だった?』って」

俺は何て答えていいか分からなくて、黙ってその続きを待った。 

「コウちゃんが『甘えん坊で、母親から離れない子だった』って答えたら、ナイトびっくりしてた」

 もうずーっと昔の話だ。

母ちゃんが大好きで、大好きで、離れたくなかった。

母ちゃんは、いつも甘い香りがして、寝る時はいつも綺麗な声で歌ってくれた。

後から知ったけど、俺の聞いていた子守唄は、親父が母ちゃんに送った曲だったらしい。

母ちゃんは、本当に親父が好きだったんだ。

どんな親父でも、愛してた。 

そして、親父を愛していたからこそ、出ていった。

愛が、害にならない為に。

「『それなのに、ここに残った。俺の大切な息子だ』って、ちょっとグッときちゃったよね」

マチルダさんが潤んだ瞳を誤魔化すように、紙で顔を隠した。

「ナイトは、ほだに憧れてた。年の離れた兄ちゃんとして、もう1人の父ちゃんとして、そして友達として。ほんの少しだけ時間ちょうだいよ。あいつ今、マーベルヒーローでも、ウルトラマンでもない、ただの男川島穂高を見つめ直してるとこだから」

そりゃ、親だもんな。気が付くか。

全てを悟ったナイトに、少し冷めた目で見られた時、背中からアイスピックで刺されたみたいに、言葉を失い、動けなかった。

赤ん坊の頃から、親みたいな気持ちで見守ってきた弟。可愛い弟。

名前の事で揶揄われて、友達出来ないって泣いてた時、俺の昔の話とコータの話をして、『いつかきっと心を許せる友達が出来るよ。それまで俺が友達な』って言った。

あの時の、あいつの笑顔を、俺は裏切ったのかもしれない。

 俺の僅かな表情の変化を、マチルダさんは見逃さなかった。

「ほだ、そのままでいな。そして、全力でコータの誕生日祝いしな。何も恥じることなんかないよ。責任とかも感じなくていい。その背中でナイトに見せてやんな。川島穂高という男の生き様を」

マチルダさんは、相変わらずかっけーな。

「おう」

小さく言うと、眼を合わせずに微笑んだ。

 取り繕ったってしょうがない。

元より、そのままの俺で、ありのままの俺で、いることしか出来ない。

それで、あいつに何か伝わるものがあるのなら、それでいい。

「コウちゃんやイズとも協力して、準備はしとくから、頑張んなよ」

ずっと手に持ったままだったリストを置いて、マチルダさんが言った。

その激励に素直に頷く。

「親父のバイトまで休ませちゃってゴメンね」

「サボる口実が出来て、万々歳よ」

親父は今年の冬、隣町のワイナリーでバイトをしている。

「ほだから連絡来てから、正直ワクワクしちゃってんのよ、コウちゃん。ああ見えて、息子の幸せ喜んじゃってるの。可愛いでしょ?」

可愛いでしょ? には頷けなくて、困り眉になりながらマチルダさんと笑い合う。

 玄関に靴があったし、ランドセルも置いてあったのに、結局今日もナイトは部屋から出てこなかった。

寂しくないって言ったら、嘘になる。

めちゃくちゃ寂しいよ、ナイト。

深い溜息1つ吐いて、俺は実家を後にした。


 当たり前に、コータが先に帰ってると思っていたのに、部屋に灯りがついていない。

駐車場に車を入れながら、バックミラーに映る暗い部屋を何度も確認する。

スマホを見ても、特に連絡は入ってない。

どうしたんだろう、コータ。

 車の鍵をかけて、歩き出した時、走って来る人影が見えた。

多分、コータだ。

「おかえり、今帰ったの?」

声をかけると驚いたように、コータが立ち止まる。

「えっ何、走って帰って来たの?」

息を切らしながら、バツ悪そうに頷く。

「ちょっとのつもりで同僚とお茶してたら、思ったより遅くなったから……。帰って来ていなかったら、穂高心配するかと思ってさ」

 同僚。

言わなくても分かる。きっと、あの女の人だ。

忘れていたあの日の光景が、フラッシュバックして、急激に女々しい俺が頭を擡げる。

「別に子供でもあるまいし、ちょっと遅れたからって心配しねぇよ」

自分でも分かる。いつもより、無駄に声が大きい。

スタスタと玄関に向かう俺の後を、コータが早足に追いかけるのが分かる。

「どうしたの?怒ってんの?」

「怒ってねーよ」

「穂高……」

左手首をコータが掴んだ。

「ダメだよ、言いたいこと飲み込んだら」

大人げない、カッコ悪い俺。

認めたくない俺。

「カッコ悪いから、言いたくない」

言い終わらないうちに、後ろから抱き寄せられる。

「何? ヤキモチ妬いたの?」

右耳を喰むように囁くから、首を竦める。

「こないだ、見てたんでしょ。同僚と一緒に帰ってきたの。顔にショックって書いてあった」

全部バレてたじゃん。

俺は恥ずかし過ぎて、両手で顔を覆った。

「ごめんオレ、あの顔めっちゃ可愛いって思ってた」

「可愛い言うな」

唇が耳から這って、こめかみに口づける。

「寒いから、中入ろ」

わざとヤラしく言ってんな。

コータの吐息を感じながら、俺はポケットから鍵を出してドアを開けた。

靴を脱いで、部屋に入ると同時に、身体を反転させられて、問答無用に口づけられる。

「お前、自分だけが妬いてると思ってんだろ」

行動と裏腹の優しいキスに溶かされたところで、コータが問う。

「オレはちゃんと言ったよ、仲良すぎて妬けるって」

ああ、イズとのお茶の事……

「ずっと聞けなかったから、今聞いていい?」

コータが照れと真顔を、交互に見せて、目を逸らさずに問いかける。

「お前……女としたいって思わないの?」

思ってもみなかった質問に絶句する。

「だって俺……」

「イズには反応したんでしょ? イズなら出来るかもしれないじゃん?」

「でもイズは……」

「分かってる。分かってても妬ける。そこはお前と一緒なんだよ」

そうか、女と一緒で気を揉むのは、俺の方だけって思ってたけど、つまり……

「つまり……」

「つまり何ですか、コータさん?」

口籠るなよ、らしくねぇな。

眼力強めに訴えると、コータがくしゃりと笑った。

「愛してるよ」

「知ってるよ!」

ちょっと食い気味に答えて笑い合う。

「穂高は、まだまだオレに遠慮とか、色々あるからな。じっくり、ゆっくり、素の穂高にしていくから覚悟しといてよ」

「なんか怖っ」

そう言って笑いながらも、コイツと一緒にいられる幸せがこみ上げてくる。  


「穂高が女苦手なのってさ、あれもあるんじゃない?スティーブン・キングの超能力者ものの……」

「ファイアスターター?」

それだ!とコータが指をさす。

自分でも思い当たる節がある。

「思考弄られまくった医者がさぁ、生ゴミ粉砕機を最高に気持ち良い穴って思い込んで、腕入れたくなる衝動止められなくなるやつ、読んだあと暫くお前めっちゃ怖がってたじゃん」

そんな事もあったっけ。

「あれはグロかった。確かに、暫く排水溝とかにめっちゃビビってたし、穴という穴に嫌悪感持ったわ」

確かに、俺はまだコータに全部さらけ出せてないのかも。

女がダメになった理由、ちゃんと言えてねぇし。

最近のナイトの事だって、話せてない。

心配かけたくない。

それは遠慮があるってことなのかな。

この先ずっと一緒に歩んで行く以上、ホントは話してかなきゃいけないことなのかもしれない。

「よく覚えてんな」

楽しかったあの日々を思い出しながら、今コータがここにいる奇跡に微笑む。

「お前と図書室で話すのが、最高に楽しかったからな。お前、案外怖がりなのに、よく怖いの読んでトラウマくらってたな」

「怖がりじゃねぇから。こう見えてとっても繊細なんですよ、わかります?」

「知ってる」

コータがゆっくりと手を伸ばし、優しく髪を撫でた。

「だから、大切に、大切にしたいんだ」

喉元まで出かかってる言葉は、来週までとっておくよ。

お前を全力で幸せにしてやるからな。

覚悟しとけよ、コータ。








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