13.バイトと死神と黒蝶の縁
「さあ、フリッツ。食事の時間だ」
弥勒さんはそう言うと、こじ開けたフリッツ氏の口に黒蝶を捩じ込んだ。
「……ッ、……ぐ、ぅ」
「な、な、なにしてるんですか、弥勒さん!?」
フリッツ氏に蝶を喰わそうとする弥勒さん、という光景があまりにも衝撃的すぎて、おれは思わず叫んでいた。
けれど、ちっぽけなおれの声なんて、弥勒さんには届かない。フリッツ氏にだって届いていたか、どうか。フリッツ氏は嫌そうに顔を顰めてはいたけれど、はっきりとした抵抗なんて見せなかったから。
これは、一体、どういうこと。おれはわけがわからずに、呆然とすることしかできない。
蝶を口に捩じ込まれたフリッツ氏の喉が、おれの目の前でゴクリとなにかを呑み込んだ。なにか、なんかじゃない。サリさんの右腕であり、彼女の感情をあらわすバロメーターであった蝶だ。
元々は弥勒さんの蝶だったのかもしれないけれど、あれはサリさんの一部になっていたんじゃないのか。なんてことをするんだ、なんて、酷い。というおれの狼狽と衝撃は、弥勒さんの得体の知れない威圧感の前では言葉にすらならない。
「フリッツ。おまえは、ぼくの
フリッツ氏に蝶を喰わせた弥勒さんが、満足そうに嗤っている。サリさんが最期に見せてくれた笑顔とは真逆の笑みに、思わず吐き気を催すほど。
涙目になって口元を抑え、頭の中では弥勒さんの発言がぐるぐると廻っている。たまらず視線を下げた。俯いて、カンデラ堂の板張りの床をじっと見つめる。
「……ああ、そうだな。あのとき私が失敗しなければよかった」
口元を何度も何度も手の甲で拭いながら、フリッツ氏がぼそりと告げた。その声は憎々しげな冷たい響きと、過去を憎悪する熱が入り混じっているかのよう。
「失敗さえ、しなければ」
失敗? おれはフリッツ氏の失敗の話を聞いたとき、フリッツ氏が数日間寝込んだだけだと思っていたけれど。
それが文字通りの意味だったなら? それを救ったのが弥勒さんだったなら? でもフリッツ氏と弥勒さんは反目している。どうして? 頭中を埋め尽くす疑問と興味の狭間で、おれは知恵熱を出しそうなくらい。
そんなおれを見て、弥勒さんが目をすぅ、と細めたような気配。咄嗟に顔を上げると、弥勒さんが確かにおれを見ていた。弥勒さんの目は色の濃い遮光眼鏡に遮られていて、直接確認することはできなにのに。
「きみも失敗していたらよかったのに。そうすれば、フリッツのちょうどいい食事になったのになぁ、残念だ」
耳の奥にこびりつくような粘着質な声だった。おれを見て嗤う弥勒さんの口が、唇が、その奥の舌が、夢にまで出てきそうなほど赫かい。怖い、恐い。おれは恐れで震える手を硬く握りしめながら、石のように動かなくなってしまった舌を必死で動かして抗う。
「……それは、どういう意味ですか」
「そのままの意味でしかない。聞いていないのか? フリッツの顔も名前も、圭司から奪ったものだ」
「違う! 私は圭司さんから、なにも奪ってはいない!」
フリッツ氏が激怒していた。紅潮した白い頬に、吊り上がった眉。フリッツ氏は全身全霊で弥勒さんの言葉を否定していた。
「その記憶が誤りでないことを祈ろう」
弥勒さんは軽やかに笑う、というより、嗤っていた。三日月のようなニタリとした嗤いだけを残して、ふ、と唐突に姿を消す。カンデラ堂の店内に、疑惑と謎を残すだけ残して。
フリッツ氏と曾祖父さんの関係って、なに。奪った、というのは、もしかして曾祖父さんの顔と名前なのだろうか。だから、おれとフリッツ氏は、よく似た顔と名前も持っているのか。
聞きたいことは、山ほどある。けれど、チラリと見たフリッツ氏が酷く疲れたような顔をして、息を吐き出しているところだったから。
「……お疲れさまです」と、おれも短く息を吐く。そうして、今、確かめることは取りやめた。力なく笑うと、フリッツ氏が釣られたように微笑みを返してくれた。
「ああ。ご苦労だった、圭祐。片付けをして店を閉めよう」
そう言われて店内を見渡すと、弥勒さんが去ったあとの店内は酷く荒れていた。なぜ、こんなにガラスが散乱しているのだろう。と首を傾げたくなるほどに。
「うわぁ……めちゃくちゃですね」
頬を引き攣らせて呟きながら、あっ、と思い出す。
このガラスは、サリさんが暴走したときに割れてしまったガラスペンの残骸ではないか、と。いくらカンデラ堂が迷える魂を導き、救うための店だとしても、物理的に壊れて散らかった店内の時間を巻き戻し、修復することはできないらしい。
「圭祐、昨日も言ったが、カンデラ堂は分割払いに対応している。好きなだけ働いて返してくれれば構わない」
フリッツ氏の言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。氏がなにを言っているのか。悟ったところで顔が、さぁ、と青褪める。
「えっ。……えぇー!? アレって事故扱いなんじゃないですか!?」
「事故ではない。圭祐が自分でやる、と言い出してからの出来事だった」
「……あっ。ああー、確かに言いました……」
自分がサリさんの相手をすると意気込んで、その後、彼女の感情を刺激してしまった結果が、つまり、今目の前に広がっている荒れた店内というわけだ。
なんてことだ、これは完全におれの責任じゃないか。一体、何本のガラスペンが割れてしまったのだろう。インク瓶が無事だったことに胸を撫で下ろし、けれどレターセットがバラバラになってしまったことを思い出して気が滅入る。
「圭祐」
暗く落ち込むおれに、フリッツ氏が微笑みかけた。その目はちっとも笑ってなんていなかったけれど、少し気が晴れたかのようにさっぱりしていた。
もしかして、片付けを手伝ってくれたりするんだろうか、と期待を込めてフリッツ氏を見た。見たのだけれど。
「カンデラ堂へ来るときは、必ず私に連絡を入れなさい。道を開けておく」
フリッツ氏は持ち前の冷静さを発揮して、カウンター内に置いていた彼のスマホを掲げてみせた。
そういうわけで、バイト二日目にしてようやくカンデラ堂の店主と連絡先を交換することができたおれは、心の中で泣きながらも、少しだけホッとしていた。まだ、この店で、バイトを続けることができるんだ、と。
そんなおれの沈黙をどう受け取ったのか。フリッツ氏のほうから躊躇いがちに声をかけてきた。
「……圭祐、弥勒の言葉は気にするな。君を食べるつもりはない。私は、圭祐が座っている椅子を横取りして生きながらえたいとは思わない」
と、一度言葉を区切って、深呼吸をひとつだけ。息を短く吐いて、深く吸い込んだ。フリッツ氏がおれの目を真っ直ぐ見つめて、真摯に告げる。
「君もまた、私にとっては救うべき客なのだから」
その言葉を聞いて、おれは心臓がぎゅう、と握り潰されてしまったかのような鈍い痛みを覚えた。腹の底がずしん、と重くなるような。
きっと、それはフリッツ氏の優しさだったのだろう。おれは安堵して喜ぶべきだったのかもしれない。けれど、である。けれど、フリッツ氏がおれを客扱いしたことに、どうしようもなく寂しさを覚えてしまったから。
ああ、くそ、悔しいんだ。おれでもこの店の役に立てるんじゃないか、と思っていたところだったから。どうしたらフリッツ氏に認めてもらえるんだろう。一体、どうすれば。
おれの頭の中には、もう、割ってしまったガラスペンの弁償だとか、そんな金銭勘定はすっかり消えていた。カンデラ堂のバイトを続けられることに喜びを見出していた自分も、もういない。
今はただ、フリッツ氏に店員として認められたい、という悔しい気持ちだけが残っていた。
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