08.あの日、聴けなかった推しの曲

「私の推しはね、メジャーなアーティストじゃないの」


 サリさんはうっとりと目を細めながら『推し』について語りはじめた。

 推しを語るサリさんは、死んでいるひととは思えないほど生き生きとして、頬も薔薇色に染まるほど。失われた右腕をかたどる黒蝶も、今は静かで落ち着いていた。

 冷静に、冷静に。おれはサリさんの表情や仕草を確認しながら言葉を選ぶ。


「……おれでもそのひと、わかりますかね?」


「知ってるといいな。去年、話題になったドラマで曲が使われたことがあるから」


「使われたって……もしかして、主題歌ですか?」


「そうだよ」


 サリさんは、少し照れたようにはにかんで、うなづいた。そうして、推しの名前を教えるよりも先に、ドラマのタイトルを口にした。


 正直おれは、あまりテレビを観ない。公共放送の天気予報を観るくらい。ネットの動画配信サービスを契約してはいるけれど、バラエティやドキュメンタリーしか観ないから、ドラマなんて数えるほどしか知らない自覚がある。

 そんなおれでも聞いたことがあるドラマで、もちろん主題歌も知っていた。そんな有名ドラマで、推しの曲が主題歌として使われたことを、サリさんは自分のことのように誇らしく思っているようだった。


「ドラマの主題歌に決まったって知ったときは、本当に嬉しかったなぁ……これであのひとが、あのひとの曲が、世界に知ってもらえる! って」


 おれは話を聞きながら、サリさんの推しが歌っていたという主題歌を頭の中で口ずさむ。ゆったりと染み入るような曲調で、どこか心の奥を引っ掻くような独特な歌詞。ああ、あの曲を歌っているひとが、サリさんの推しなのか。残念ながら、名前も顔もわからないけれど。


「……流行なんか気にするひとじゃなくてね、激しい曲なんてほとんどなかったな。二、三曲くらいかも。残りの曲は、全部バラードなんだ」


「ドラマの主題歌になった曲も、バラード調でしたよね」


「うん。感傷的なメロディと物語がね、すごく胸に刺さる……違うな。うーん……染み込む……そう、染み込むの。歌詞とメロディがいいだけじゃなくてね、声が……あのひとの声が好きなんだ」


 推しを思い出しながら語るサリさんは、まるで少女のようにキラキラしていた。


「知ってる? バラードってジャンルじゃないの。曲のテンポとか、物語性のある歌詞のことを言うんだって。私、あのひとの曲を深く理解したくて調べて、それで知ったんだ」


 サリさんは、どうして推しの曲にこだわるんだろう。推しの曲を深く理解する? そのためにバラードについて調べるだなんて。おれには全然わからない。曲が好き、推しが好き。そういう気持ちだけじゃダメなんだろうか。


 そう思って、いや、と思い直す。好きだけじゃ足りなくて、満たされなかったから調べたのかもしれない。サリさんのその献身的で勤勉な気持ちを、話を聞かせてほしいと言ったおれだけは、否定しちゃいけない。それだけは、どうにかして理解する。


 そうしていると、カウンター奥の小部屋の扉が遠慮がちに開いてフリッツ氏が顔を覗かせた。


「あ、フリッツさん。準備ができたんですか?」


「ああ」


 フリッツ氏は簡潔に頷いた。彼のスマホとスピーカーらしき黒い立方体を抱えて、カウンター内に戻ってくる。スピーカーにコードがないから、Bluetoothで接続されているんだろう。青く小さな光を放つスピーカーとフリッツ氏のスマホが、まっさらなカウンターの内側にコトリコトリと並ぶ。

 準備を終えて隣に立ったフリッツ氏が、おれにそっと囁いた。


「いいか、圭祐。迷える魂は丁寧にもてなすことだ。誤った方法で触れると、彼らが抱えた執着や激情で自滅することがある」


「……自滅、って? 失敗したらサリさんはどうなるんですか」


「自分の心配をしろ。自滅することになるのは君だ、圭祐」


 フリッツ氏の声が鋭い氷柱つららのように、おれの心臓に突き刺さった。ピシャリと浴びせられた冷徹な響きに固まるおれを見て、フリッツ氏が大きなため息を吐く。


「私はかつて、愛するひとを残して亡くなった魂を救おうとして、失敗したことがある。私の焦りが彼女の感情を刺激して逆立ててしまった」


「それで、どうなったんですか」と、思わず聞き返していた。

 サリさんを置き去りにしたままフリッツ氏の話を聞くのは接客員としてどうかとも思ったけれど、サリさんは気にした様子も見せずに、座った椅子をくるくると回して店内を眺めていたから。ホッと胸を撫で下ろして「どうなったんです」と、フリッツ氏に続きを催促した。フリッツ氏は一度険しい表情を浮かべると、


「彼女の魂は霧散した。私は彼女が叫ぶたびに、彼女の未練や怒りに共鳴し、冷静さを失っていった。彼女の未練だというのに、自分の未練にしてしまった。そうして気づいたときには彼女の魂は消え、残された私は破滅してしばらく普通の生活を送れなかった」


 と。思い出したくないことを口にするように声を絞り出していた。


 冷静さの塊のようなフリッツ氏にも、そんな過去があっただなんて。フリッツ氏の言葉が心に重くのしかかる。サリさんを救えなかったら? おれが対応を間違えて彼女の魂が霧散してしまったら? 考えるだけでも背筋が震える。

 だって、あのフリッツ氏だって失敗したことがあるんだから。この世に一〇〇パーセントなことなんてないのだと思い知らされた気分だ。


「あのままサリさんの魂を鎮めることができなかったら、君は君ではなくなっていたかもしれない。まったく、君の向こう見ずな善意には、私も驚かされる」


「えぇっ。まさか、おれ……めちゃくちゃ危なかったってことですか!?」


「そうだ。いいか、彼女を正気に戻らせたことは称賛に値するが、やり方がいけない。次は触れずに対処しろ。……圭祐、さっきはよくやった」


 思いも寄らない言葉に、おれはぽかんと口を開けていた。おれが不思議なものを見るような視線を送っていたことに気づいたのだろう。フリッツ氏が、ふい、と視線を逸らす。その耳の先端が照れたように赤く染まっていたのは、きっとおれの見間違いなんかじゃない。


 これは、まさか。まさかフリッツ氏の、遅ればせながらの褒め言葉だろうか。

 そう思った途端、腹の底がカッと燃え上がった。額が熱い。熱くて暑くて、汗が出そう。きっと顔は真っ赤だろうから、フリッツ氏の顔を見ることもできない。


 時間差で照れるおれをよそに、早々に気持ちを切り替えたのだろうか。フリッツ氏が淡々と言葉を残して背中を押した。


「圭祐、気を抜くな。まだ、はじまったばかりだ」


 そうだ。サリさんが推しへの手紙を書くまでの道のりは長い。フリッツ氏の失敗談を聞いたくらいで、怖がっている場合じゃない。カンデラ堂の客として訪れたサリさんのために、おれが今、できることをしよう。

 大丈夫、冷静になれ。失敗は、繰り返さなければいいだけの話なのだから。


 だからおれは、パチンと両頬を叩いた。気合を入れて、サリさんを向かい合う。サリさんの気持ちを聞き出すために。サリさんの拗れた気持ちを探るために。


 筆記スペースの椅子に座って待っていたサリさんは、どこか緊張した面持ちだった。膝の上で握りしめた小さな拳が、ガチガチに固まっているのがわかるほど。


「サリさん、心の準備はいいですか?」


「はい。お願いします」


「あなたが聴きたがっていた曲は、この曲で間違いないか?」


 フリッツ氏はそう言うと、スマホをとととと操作してBluetoothスピーカーに曲を流す。店内に流れはじめたのは、バラード調でありながらアップテンポで明るい曲調。それでいて歌詞を歌い上げる声は、サリさんが語ってくれたように感傷的で、心に染みる曲だった。


 一小節、二小節とコードが進行してゆく。いつの間にか目を閉じて聴き入っていたサリさんは、何度か小さく頷いた。そうして、ぐすりと鼻を鳴らしながら、


「間違いありません。あのひとの声とメロディです。新曲……ミドルバラードなんだ。私が一番、好きなやつ」


 と。そう言ったまま俯いてしまった。曲調に乗るように座ったままの身体を左右に揺らす。サリさんのその姿は、店内に波のように満ちてゆく曲を、全身で感じ取ろうとしているかのよう。


 サリさんの推しの新曲は、少し変わった歌詞だった。


 恋を歌ったわけでもないけれど登場人物は『僕』と『彼女』で、近いようでいて遠い関係らしかった。いつも彼女がくれる言葉に励まされている僕。けれど最近、彼女を見かけなくて不安に思う僕。葛藤の末、どうかお元気で、いつでも戻っておいで、と彼女の新しい旅路を応援する僕。

 そうして僕は最後に「君が誇れる僕になって、いつもの場所で待っているから」と歌い上げるストーリーだった。


 まるで、サリさんと推しのことを書いたような歌詞だった。

 サリさんのことも、サリさんの推しのこともよく知らないおれが曲を聴いてそう思うのだから、きっとサリさんもそう思うに違いない。

 大丈夫だろうか、と恐る恐るサリさんの様子を伺う。


 彼女の腕となった黒蝶が、ざわざわとざわめき立っている。風に煽られた水面のように揺れていた。



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