11.おれのはじめての仕事

 ひと仕事を終えたカズアキさんが満足そうに胸を張る。けれど、手紙を書く工程は、まだひとつ残っていた。おれはカズアキさんが選んだ甘いブラウン色をした封筒を手に取り、カズアキさんに渡す。


「カズアキさん、まだ終わりじゃないですよ。封筒に宛名と送り名を……」


 そう言って渡した手を、おれは思わず引っ込めた。封筒と一緒に触れたカズアキさんの手が、氷のように冷たかったから。

 冷たいなんてものじゃない。まるで火傷しそうなほどの冷たさだ。確かにカンデラ堂の外は十一月も中頃ということもあって寒い。寒くはあるけれど、店内に暖房が効いていないわけじゃないのに。


 動揺するおれに気づいたのか、気づかないフリをしているだけか。封筒を受け取ったカズアキさんは、手を引っ込めてしまったおれに気を悪くすることもなく、さらりと宛名と送り名を書き終えた。


「今度こそできたよ。ありがとう、カンデラ堂に迷い込まなかったら、きっと一生書けなかった。本当にありがとう……」


 手紙を書き終えたカズアキさんは、どこか清々しい表情で微笑んだ。まるでもう未練などない、とでも言うかのように。どうしようもなく儚さを感じて、おれは咄嗟に声をかけていた。


「か、カズアキさん……?」


 ペンを握ったままのカズアキさんの輪郭が、薄ぼんやりとぼやけている。いや、現在進行形でぼやけて薄れているじゃないか。薄れゆくカズアキさんの周りを、どこから迷い込んだのか、紫色の蝶がひらり、ひらりと舞っている。


 あっ、と思ったときには、もう遅かった。カズアキさんの姿は白く掠れて空気に溶けて、まるで夢のように消えてしまった。彼が夢や幻の類いではなかったことは、カウンターの上に残された手紙と封筒だけが証明している。


 呆然とするおれが正気に戻ったのは、しばらく経ってから。幸か不幸か、カズアキさんが握っていた青いガラスペンがカウンターにカツンと当たって跳ね、床に落ちて割れた音を聞いたから。

 驚いたおれはすぐさま後ろを振り返り、フリッツ氏に目を向けた。フリッツ氏はただ黙々と割れたペンを拾い上げ、ペントレイへ戻している。ペンの回収が終わってようやく、


「カズアキは生き霊のようなものだ」と静かに言った。


 生き霊。生きている人間の魂が身体から抜け出て彷徨っている状態。強い気持ちが生き霊を作り出すともいう。


「……あのカズアキさん、生身の人間じゃなかったんだ」


 カズアキさんは、推しへ手紙を書きたい気持ちと、書くのを躊躇う気持ちの狭間で揺れに揺れて、生き霊になってカンデラ堂へ来てしまうくらい強く思い悩んでいたのかもしれない。


 そう考える一方で、生き霊になるほど強かったカズアキさんの気持ちに、おれは少なからず衝撃を受けていた。けれど、カズアキさんが生き霊だった、と言われて納得する自分もいる。


 思い当たる節は、いくつもあった。


 まず、音もなくカンデラ堂へ入店していたこと。いくら扉にドアベルが取りつけられていないとはいえ、冷たい風の侵入で来店はわかる。


 次に、ときどきカズアキさんの姿や影が透けていたこと。照明の光の加減や角度によるものかとも思っていたけれど、違う。あれは本当に透けていたんだ。


 極めつけは、ドライアイスに触れたかのような痛いくらいの冷たさだ。カズアキさんが生身の人間でなかったのなら、あの冷たさも頷ける。


「じゃあ、さっきの手紙は……」


 おれは呆然としながらカウンターを見た。生身のカズアキさんが、今、どこでなにをしているのかはわからない。わかるのは、カズアキさんの推しへの手紙が、封筒にしまわれて封をされ、ポストへ投函されるのを待っていることだけ。


「生き霊だろうが、生身の人間だろうが、手紙は手紙だ。自身の気持ちを書き表して伝える手段だ。カズアキの推しへの純粋な気持ちが込められた美しい結晶だ」


 フリッツ氏はそう言うと、二枚の手紙を丁寧に折りたたみ、封筒の中へとしまい込む。それから糊で封をして、小さなトレイから切手を取り出して張りつけて、手紙として完成したそれを、おれに差し出した。


「君が届けてあげなさい。圭祐、それが君の仕事だ」


 きっと、この手紙はカズアキさんの推しに届くことを望んでいる。すでに宛名は書かれているから、あとはポストへ投函するだけ。それだけなのに、とても重大な仕事のように感じた。

 いや、大切なことを教えてもらったのは、おれのほう。


 カズアキさんと話さなかったら『推し』に夢中になる人間に対する嫌悪感が薄れることはなかっただろう。

 それまで抱いていた強い偏見が、ほんの少し、本当に少しだけだけれど、緩んだような。周りに迷惑をかけずに誰かを応援することはできるのだ、と知ったから。そんな凄いことを当たり前のようにしているひともいるのだから。

 だからおれは、フリッツ氏が差し出した手紙を静かに受け取った。


「わかりました、おれが責任を持って投函します。……ところでおれ、上手く接客できてましたかね?」


「はじめての仕事にしては、よくやった」


 フリッツ氏の平坦でありながらも言葉の奥に優しさが滲む声に、おれの気持ちが華やぐように明るくなった。

 年齢と髪と目の色は違うとはいえ、おれと瓜二つの容姿を持つフリッツ氏に褒められたからだろうか。妙な達成感に心臓がくすぐられるような感覚がじわりじわりと広がってゆく。


 胸の内で嬉しさを抑えておくことができなくて、とうとう口の端や目尻なんかがムズムズ動き出したところで、


「……と言いたいところだが」と。冷や水を浴びせるようなフリッツ氏の冷たく厳しい声が、おれの鼓膜をビリリと揺らした。

 おれは恐る恐る「な、なんでしょうか……」だなんてもごもご言う。するとフリッツ氏は、床に落ちて割れてしまった青いガラスペンが乗せられたペントレイをおれに突きつけた。


「ペン先とペン軸を一体化させた形のガラスペンが開発されたのは、一九八九年。骨董品アンティークと呼ぶには早すぎるだろう。だがこのガラスペンを作った職人は、ガラスペンを発明したという佐々木定次郎氏の技術を受け継ぐ工房——佐瀬工業所の職人だ」


「お、お詳しいんですね。もしかして、ペン一本一本、インク一つ一つのエピソードを全部記憶してるんですか」


 少しでもこの場の冷えた空気を和まそうと抵抗を試みた。けれどおれの抵抗は無駄に終わってしまった。


「台東区にある佐瀬工業所で作られたこのペン——カネモオリジナルの二層式」


 まるでガラスのように硬質なフリッツ氏の声に、おれはヒュッと息を呑んだ。無意識に後退りした踵がカウンターにコツリと当たる。

 おれを精神的に追い詰めるフリッツ氏の言葉と声が身体中に染み込んで、汗となって背中から噴き出しているのがわかった。


「インターネット通販で気軽に購入できるとはいえ、これを取り落として割ったのはいただけない。職人が一つひとつ丹精込めて作り上げたガラスペンは一点ものの工芸品だ。割れたペンの代金は、圭祐が負うべき弁償金に追加しておこう」


「えっ……えぇ!?」


 あれは不幸な事故ではないのか。だってあのとき、カズアキさんが生き霊だったなんてこと、おれはこれっぽっちも知らなかったのだから! という抗議が、おれの口から飛び出すことはなかった。

 だって、仕方がないのだ。フリッツ氏がその美貌で冷たくニコリと微笑んでいたのだから。 


「心配するな、圭祐。カンデラ堂の支払いは分割払いに対応している」


 有無を言わさぬフリッツ氏の笑みに、おれは力なく「はい……」と答えることしかできなかった。前向きに考えれば、弁償金を支払い終わるまでこのカンデラ堂で働くことができる、という罪深い事実に気づいてしまったから。

 それに、生き霊の客に手紙を書かせるカンデラ堂やフリッツ氏に興味が惹かれないわけがないのだ。


 おれは積み重なってしまった弁償金の存在に項垂れながらも、これから起こるであろう不思議な客や出来事を思う。なんてことだ。もう期待しか湧いてこなかった。


 ふと、木製の枠に切り取られた大きなガラス窓を見ると、細く美しい三日月がおれを見て笑っていた。



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