06.顔を晒して名前を名乗る

「カウンターに入るのだから、帽子くらいは脱ぎなさい」


 顔を隠すために被っていたニット帽をそのままに、カウンターへ入ろうとしたところで、フリッツ氏の冷たい視線がおれの心にぐさりと突き刺さる。やるしかない、と思いながらも、顔面を晒す覚悟もできていなかったことを指摘されたような気になって、恥ずかしさが込み上げたから。


 意気地なしな自分を自覚して、深呼吸をひとつ。店内に微かに漂うインクと紙の匂いを吸い込むと、気合いを入れるために両頬をパチンと叩いた。おれとフリッツ氏が、名前だけじゃなく顔まで似ているだなんて、きっと思っていないだろう。

 なんだか悪戯を仕掛けるような面持ちで、カーキのダウンジャケットを脱ぎ去り、目深に被っていた帽子も取る。くしゃくしゃになった髪を両手で梳いて、後ろに撫でつけた。


 あらわになった顔を見たフリッツ氏のラベンダー色の双眸がまぁるくなる様に、腹の底がじんわりくすぐられるような感じがする。けれど、おれが期待していたような反応が返ってくることはなかった。


「名だけでなく、顔まで似てるのか。君は……」


 思ったよりも深刻な響きで、フリッツ氏の言葉は途中で途切れた。氏がふと扉の方を向いたから。つられて顔を向けると、店内にひとりの男性客が佇んでいた。

 いつ店の扉が開いたのだろうか。ドアベルがついていないとはいえ、秋の夜の気配が入り込んだら、すぐにわかるだろうに。それとも、客が訪ねてきたことに気づかないくらい、カウンター仕事に対する不安が勝っていたのだろうか。


 男性客の歳は若く、二十代前半か。周囲を和ませるようなリラックスした雰囲気を持っていて、おれやフリッツ氏ほどではないけれど長身だ。

 デカい図体の割には繊細な歩みで音も立てず、この店の店主であろうフリッツ氏にも目もくれず、つまり、おれ目掛けてやってきて、驚いた表情を隠しもせずに言った。


「あれ、フリッツさん。イメチェンでもしました?」


 フリッツ氏は唇だけで笑うと、カウンター入口で戸惑うおれを指差した。 


「彼は私の助手だ。名前を聞いても驚かないでくれ」


「まさか名前まで似てるだなんて言うんじゃないですよね」


 茶化して笑う男性客の言葉に、ぎくりと肩が跳ねる。自分で申告されるのと、他人から指摘されるのとでは、大違い。背中から汗が吹き出し、首元までびしょりと濡れた感触がする。いたたまれないとは、こういう状況を言うのだろうか。生じた焦りはおれの口を軽くした。


「……すみません、そのまさかです。不律圭祐っていいます」


「嘘だろ、マジか。名前まで似てるの。なんだか運命のようなものを感じるなあ」


 そのひと言で、腹の底に沈めたはずの戸惑いがプカリと浮上する。名前も顔も、他人が見ても似ているというのなら、おれとフリッツ氏にはなにか因縁があるんじゃないだろうか。たとえば、曾祖父さんの隠し子の系譜だとか。


 そんな馬鹿な。おれは日本人で、フリッツ氏は外国人じゃないか。似ているのは名前の響きだけで、名前そのものが似ているわけじゃない。あり得ない、と一蹴して、深呼吸をひとつ。おれはおれの仕事をするんだ。と、気を引き締めて男性客と対峙した。けれど、


「あ、あの……っ」


 開いた口からこぼれたのは、妙にひっくり返った声だった。八ヶ月に及ぶ流浪のバイト期間中、その多くを厨房で過ごしてきたおれにとって、対面での接客なんてずいぶん久しぶりだったから。

 ああ、とてつもなく恥ずかしい。どう振る舞えばいいのかわかない。どうしよう、どうすれば? 混乱するおれに助け舟を出してくれたのは、すました顔で佇むフリッツ氏——ではなく、客である男性の方だった。


「フリッツさんと不律くんか……紛らわしいからキミの方は圭祐くんって呼ぼうか。ボクはカズアキ。よろしくね」


「よろしくお願いします。えっと……今日はなにかお探しですか?」


 気を抜くと丸まりはじめる背筋をピンと伸ばし、ぎこちなく笑って尋ねると、カズアキさんはにこりと笑ってこう言った。


「実は、ボクの推しに手紙を書こうと思っていて」


 その短い言葉で、おれの心は完全に硬直した。

 推し——それは、ユキコさんを連想させる言葉だ。

 他人に執着し、プライバシーを無視して過剰に接触を図る傍迷惑なひと達。何度も何度もバイトをクビになった理由。そういうネガティブな感情を思い起こさせるから。気づかぬうちにおれの身体がわずかに引いてしまった瞬間を、カズアキさんは見逃さなかった。


「ごめんな、やっぱ引くよな」


 苦笑いするカズアキさんに、おれは慌てて首を振る。


「いや、そんなことは……あの、勘違いさせてしまってすみません。おれ、推しとか……よくわからなくて。でも手紙を書こうという気持ちは尊重します」


「ボクの推しが男でも?」


 目を細めて笑うカズアキさんの言葉に、今度は完全に言葉が詰まってしまった。


 男が男を推す? そりゃ、多様性を認め合う社会に変化してきているのだし、誰が誰を推すのかは完全に個人の自由だ。そんなこと、頭ではわかっている。わかっているのに、ユキコさんの焦点の合わない目が、同じ言語を話しているはずなのに意味が通じない会話が、興奮して崩れた口紅の色が、脳裏をよぎる。


 ああ、おれはユキコさんが怖いんだ。おれのプライバシーを無視して追いかけてくる彼女たちよりも、なによりも、ユキコさんが怖い。境界線を簡単に超えてくる彼女が怖い。


 あんな迷惑行為を、過剰な行為のぶつけ合いを、男に対して、カズアキさんが? こんなにも人の良さそうな爽やかな笑みを見せてくれるカズアキさんが? けれど彼の目尻はなにかを諦めたように、あるいは失望したかのように下がっていた。


 しまった、対応を間違えた。冷たい汗が背筋から流れ落ちる。おれの仕事は接客なのに、カズアキさんを拒絶するような態度を見せてどうするんだ。自分の顔から血の気が失せてゆくのがわかる。

 けれど、どうしていいのか、わからない。どうやってリカバリすればいいのか、わからない。おれは助けを求めるように、静かに佇むフリッツ氏に縋るような視線を投げることしかできなかった。



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