第2話 お迎え

 ───時雨が和菓子屋に入店した頃。

 大阪府和泉市郊外。校門を跨いで桜並木の通りを抜けた先にある、私立遠國高等学校の校舎。その屋上の中心に、1人の男子生徒が立っていた。

「……さて、始めるか」

 彼の呟きは誰の耳にも届かない。肩まで真っ直ぐに伸びた深縹色の髪をヘアゴムで束ね、その場で跪く。 

 服装はブレザーにスラックス、青いネクタイを締めた、スーツとも見て取れる一般的な制服だ。けれども雰囲気だけは別段だった。

 彼の身に渦巻くは、人ならざるモノの気配。周辺の総ての生き物が本能で物理的距離を取る程の神妙さを醸し出していた。右手には墨で文字が書き込まれた形代を1枚、人差し指と中指で挟んでいる。此方はより気配が濃い。

「──京の鬼門、解錠。鬼神封印、限定解放。此処に宿すは金の光明。来たれ、十二天将が一柱──西より出てし吉将。“太陰たいいん”の名を冠する精霊よ」

 彼は少年の割に低い声で淡々と告げる。こうして紡がれるのは言葉だけではない。

 形代が彼の手を離れて宙に浮かぶ。少年と形代、それぞれが持つ独特な気が混ざり合い、調和して一つになった時、形代は本来の姿を紡ぎ始める。これは特別な力を持ってして生まれた陰陽師にしか成し得ない、神秘の所業だ。

「祖の契約に従い、現世の邪悪に陰を落とせ──!」

 その喚び声に答えるように、カッ──と形代の放つ光が周囲を真っ白に染め上げる。詠唱を終えた彼は眩しさに耐えられず瞼を閉じた。光が弱まってくると、彼の目に人影が映った。──否、影の正体は人ではない。

「よりによって儂を喚んだか。何の用だ、暁人」

 若々しい顔立ちの男は、白髪の頭から細い漆黒の角が二本伸びている。髪色が映える黒袴を纏っており、右腰には相当な年季の入った刀が2本。

 この男こそが男子生徒、もとい暁人が喚び出した鬼神──太陰である。

「夏向の援護を頼みたい。詳細はあいつに聞いて」

「お前さんにしちゃ随分と大雑把な説明だな。最後まで詠唱したんだ、緊急の案件じゃあないんだろ?」

「そうだけど……太陰、あんたは詠唱なしじゃ来ないことがあるだろう」

 静かに鋭い視線を向ける暁人を見るなり、太陰は露骨に目を逸らした。

 本来、陰陽師は形代──人を模して作られた和紙さえあれば鬼神を召喚できる。だが気紛れな太陰を喚ぶには、契約上の主である陰陽師に絶対命令権が与えられるという詠唱のメリットに頼るしかないのだ。 

「要は確実に儂の手を借りたかった訳だ。なら、今回は従うしかねぇわな」

「普段から主に従順でいてくれたら俺としては助かるんだけどね。……それより時間が無い。無駄話はいいから早く行け」

「可愛げのない奴だ、全く。当たりも強いしよ。もっと老人を労え」

「その外見で何を言って……」 

(いや、ちゃんと話を聞いていないという点では老人か。待てよ、一人称もその類じゃ) 

 今度は太陰が、言葉に詰まった暁人を睨み始める。

「何か失礼なことを考えてねぇか?」

「別に。考えてないよ」

 この時、暁人はお得意のポーカーフェイスでそう返したが、

「お前さんに嘘は向いてねぇな」

 銀の宝珠のような瞳は誤魔化せなかった。

「おっし、任せておけ。夏向の位置は割れてるか?」

「ここの最寄り駅。くれぐれも喧嘩するなよ。夏向は今、視える女の子と一緒に居るから」

 それを聞いて太陰は目を丸くしたが、すぐニヤリと笑みを浮かべる。元より悪の鬼神だった彼らしい表情。

「へぇ、其奴は興味深い」

「女の子にも絶対に手を出すな。これは命令だ、太陰」

「……チッ、完全詠唱の狙いはだったか」 

 相変わらず抜かりねぇ奴め。

 そう言い残して、太陰は屋上から静かに姿を消した。 

(漸く行ったか)

 暁人がほっと一息つくのも束の間、スラックスのポケットに入ったスマートフォンが音声で振動し始めた。 

『暁人、話し終わった?』

「終わったよ。直に太陰が合流するだろう。……それより夏向、もしかして電話、」

『ごめーん。切ったフリした』 

 話を遮った夏向の言葉に、暁人は眉間に皺を寄せた。文句は山ほどあるが、太陰との会話を聞かれたことが何よりも気に食わない。

『そう言う暁人も僕が切ったの確認しなかっただろ』

「………いや、そんな事は」

 妙に長い間が空いてしまった。

『下手くそ』

「うるさいな、どいつもこいつも」 

 今の暁人に夏向と話すことはない。もう自分の方から電話を切ってしまおう、と通話終了ボタンを押しかけた──その時。 

『うえっ、天ヶ瀬あまがせくん、上!』

 少女の焦った声が聞こえた。恐らくは岸波遥のものだろう。

『は? 上に何か……』


 ドォン――!


 電話越しに爆発音が響く。暁人はスマートフォンを咄嗟に耳から離した。屋上から多少は距離があるけれど、遠くで砂埃が高く舞っているのが見える。あの辺りは住宅街だった筈だ。

「うっわ……」

 溜め息より呆れ声が出る。太陰には「手を出すな」と充分言い聞かせたつもりだったが足りなかったか。絶対命令権と言っても、あまり効果を発揮していない気がする。

 住宅や一般人に被害が及んでいないことを祈りつつ、暁人は再びスマートフォンを耳元に近付けた。 

「夏向、大丈夫か」

『上から来んな、こんのクソジジイ!』

『誰が爺だ! その口塞がねぇと、お前さんの首吹っ飛ばすぞ!』

『あの、一旦落ち着いて……』

 精神年齢小学生と中身だけ爺さん、そして仲裁してくれる心優しい聖女がいる……なんて混沌。行き過ぎた比喩かもしれないけれども。

 現実逃避がてら、暁人は天を仰いだ。澄み渡る青色、雲ひとつ無い大空が果てしなく広がっている。

『ごめん天ヶ瀬くん、携帯借りるね』

 少女がそう言った途端、くだらない取っ組み合いの声が遠ざかった。 

『……ごめんなさい。勝手にお電話代わりました』

「もしかして、岸波遥さん?」

『はい! あなたは暁人さん、でしたっけ』

「そう、遠國暁人。俺とそこにいる夏向は岸波さんと同じクラスだから、よろしく」

『あれ、同い年だったんだ。よろしくね! 暁人くんって呼んでもいいかな』

「構わないよ」

 何気なく会話を進めつつ、暁人は安堵する。職業柄、陰陽師には変人が多い。多少は頭のネジが外れていないと続けられない仕事だからである。けれど遥に関しては一般常識を弁えているように思う。陰陽師志望ではないと聞いているが、まともな人が来てくれたのなら安心だ。

『じゃあ暁人くん。早速、頼みがあるんだけど……』

「何?」

『ふたりの喧嘩を止めてもらえないかな』

(やっぱり、こうなるか……)

 溜め息を吐き出して落胆する。夏向と太陰の言い争いを耳にした時点で、最終的に暁人が仲裁役を背負うことになるのは判り切っていた。初対面の遥には流石に厳しいということも然り。

 言ってしまえば、太陰に強い命令を下さなかった暁人にも分がある。仲裁役を遥に丸投げする訳にはいかない。

「分かった。スピーカーにして、夏向達にスマホを向けてくれ。それから、可能な限り近づいて」

 スマホ越しでも騒音が響くようになった。疑問を呈することも無く、遥は指示に従ってくれたようだ。

『……うん、できたよ』

「ありがとう。あとは耳を塞いでいてくれたら充分だよ」 

 大きく息を吸う。ありったけの酸素を肺に取り込む。面倒な役目だが仕方ない。 

「夏向、太陰。理事長命令だ、今すぐ帰って来い!」

 屋上に木霊す渾身の叫び。理事長命令というのは真っ赤な嘘だけれども、効果はあるに違いない。暁人がそう確信できる理由は1つ。

『ごめん暁人! まさか、ぐれ兄さん怒ってる?』

 夏向の素直な性格と暁人に向ける信頼の高さ。そして。 

「怒ってるよ」

『マジ?』

「大マジ」

『うーわ最悪……終わったな……』

 ぐれ兄さん──遠國高校の理事長である時雨を尊敬する思いの強さだ。

「落ち込むのは後で。今は岸波の護衛に集中して、國高に戻って来るんだ。太陰も、だからな」

『分かってらぁ』

 適当な返事。太陰は本当に根がブレない。

『暁人くん、また後でね』

「ああ」

『スマホ返して。……じゃ、切るよ』

「くれぐれも気をつけて」

 夏向の方から通話終了のボタンが押され、スマホは勝手に待ち受け画面に切り替わる。時雨に連絡してから、既に30分以上が経過していた。


 ──痴話喧嘩も収まったところで。

 太陰は遥と夏向を両脇に抱え、自動車を上回る速度で空を飛び、あっという間に遠國高校の正門に到着した。その側には屋上から下りて来た暁人が待っている。敷地内に入って桜並木の道に差し掛かり、そのまま徐々に下降するかと思いきや。 

 夏向は一瞬、身体が宙に浮いたような感覚に陥った。翡翠の双眸が捉えたのは迫って来る地面。

(何が起きた──)

 時すでに遅し。太陰が突然、5メートル程の高さから夏向を落としたのである。 

「は」

「えっ」

 無防備のまま落下する夏向と、それを目で追うしかない遥。状況を飲み込めずにいる2人から唖然とした声が洩れる。太陰だけが不敵な笑みを浮かべていた。 

 地上にいる暁人も当然、彼の企てには気付いていなかった。だが太陰より優先すべきことは瞬時に理解した。

 高校の敷地内に於ける無許可での術式使用は校則違反と規定されているが関係ない。後でどうとでもなる、と暁人は疾うに確信している。だからこそ反射的に身体が動く。ブレザーの胸ポケットから取り出した1枚の和紙は、召喚に使った形代とは別物。 

(間に合え……!)

 御札のような長方形の薄い紙切れを、暁人は器用に夏向の落下地点へ飛ばした。 

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星詠みは泡沫に 双葉ゆず @yuzu_futaba

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