第百十六話
階段を降りる足音が遠ざかる。
名取さんは一度だけ目を閉じて、それから私たちに向き直った。
「いばらさんの荷物は、後日宅配します」
その言葉を聞いて、ほっと肩の力が抜けた。
荷物を送り返すというのは、つまり、そういうことだ。
「駅まで車を出しましょうか?」
「バス使うからいいよ。ね、時雨さん」
「少し歩くことになりますが」
「あ、はい。大丈夫です」
天気も良いし、まだ日も高い。いばらには土地勘もある。なにより、車中で何を話せば良いのか分からない。
「準備するから、ちょっと待っててね」
そう言って、いばらはスマホの充電器やスマホ等、身の回りの小物をまとめ始めた。
「──申し訳ありませんでした」
名取さんが、私に向かってそう言った。
この部屋に入ったときから、名取さんの表情はほとんど変わらない。感情を押し殺すような鉄面皮だ。今もまだ。
だけどほんの少し、憑き物が落ちたように、緊張が緩んでいる気がした。
「改めて、のばらさんに代わって謝罪します」
そう言って、名取さんは深々と頭を下げた。
「あなたの身辺を調べて、いばらさんへの脅迫に使いました」
「あ、いえ、それはもう別に」
成人前の娘が大人の家に入り浸っていたら、調査のひとつもしたくなるだろう。
脅迫は、まあ、弁解の余地はないのかもしれないけれど、何か実害があったわけじゃない。
私の答えに、名取さんは少しだけ目をすがめた。多分、不思議がっている。
「変わっていますね、あなたは」
口に出して言われた。
「こんなことを言われて、かえってご不快かもしれませんが……感謝しています」
「え?」
「のばらさんのことです」
恨まれこそすれ、感謝される覚えはまったくない。
「資産なんて売り払ってしまえ!」なんて、無茶苦茶なことを言っただけなのに。
名取さんが、遠くを見遣るように目をすがめた。
「昔から、真面目な人なんです。責任を果たすために、倒れるまで走ってしまう──走れてしまうような」
「……ああ」
親子だな、と思った。
親子だから似ている、というわけではないだろうけど。
「夜、眠れていないことは知っていました。頼まれて、庭の植え替えを手配したのも私です。ですが、どうしても『もうやめましょう』のひと言が言えませんでした。それでも支えていければ、と思っていましたが……」
ふ、とブラウンの口紅を塗った唇から息が漏れる。
「ご提案の件は、旦那様と話し合うことになるでしょう。当然、現経営陣や他の株主とも」
「はい」
「調整は、けして容易ではないでしょうが……おそらく、あなたの仰るとおりになると思います。いずれは、ここも引き払うかと」
「え……」
「応接室や子供部屋は、不要になりますから。旦那様のいる、静養地の別荘に引っ越すよう提案してみます」
「そうなったら、名取さんは……?」
「今と変わりませんよ。一人二人雇ってもらえるだけの資産は残るでしょうし、それを管理する人間も必要でしょう。それに──」
名取さんの口角が、わずかに上がった。
長らく凍りついていた氷が溶けたみたいに。
「私の人生は、のばらさんの物ですから。この歳では、再就職もままなりませんしね」
真顔のまま、冗談とも本音ともつかないことを言って、名取さんはもう一度、深々と頭を下げた。
†
控室のような場所で談笑していた菊乃さんにひと言挨拶をして、裏口から家をでた。
むせかえるような、緑と土の匂いが私たちを包みこむ。
白いカモミールに、蜜蜂が止まっていた。つま先ほどの翅が、光に透けてきらめいている。
陽当たりのいい、綺麗な庭だと思った。
足を止め、振り返って屋根を仰ぐ。
「どうしたの、時雨さん」
「いいの?」
「なにが」
「いや、だから……」
もしかしたら、この家で過ごせるのは、今日が最後かもしれないのに。
あるいは、名取さんやのばらさんと話すことさえ。
言葉にはしなかったけれど、不思議と伝わった気がした。
いばらは振り返って、息を吐いて、大きく深呼吸をした。
「いいよ。今さら、あの人たちと何話していいかわかんないし。多分、また喧嘩になるし」
「……そっか」
「だから、これでよかったんだと思う──よっ」
いばらが地面を蹴った。
軽やかに飛び込んでくる身体を受け止める。
全身で人ひとり分の重さを感じて、なんだかひどく安心した。
庭の草いきれが、シトラスレモンの匂いで上書きされていく。
華奢な身体を支えるように腕を回すと、倍くらいの力で抱きしめ返された。
首元に熱い息が触れる。
「時雨さん、ちゅーしたい」
「ここ、まだご実家の庭でしょ」
「やだ」
「やだじゃなくて」
「やだやだ、もうむり。我慢できない」
「駄目だってば。せめて、おうちに着いてから──」
頬を掴まれて、噛みつくように奪われた。
唇が唇を喰む。
この子はもう、ほんとうにもう。
拒めない私も私だけど。
ゆっくり唇を離して、熱で湿った息を吐いてから、いばらは耳元で囁いた。
「時雨さん、観光したい?」
「え?」
「駅前に大きなアウトレットとかあるけど」
「それは、楽しそうだけど……今日は、できれば早めに帰りたいかな」
正直、へとへとだ。
身体というより、メンタルが。
「でも、いばらが寄りたいなら」
「ううん、わたしも早く帰りたい」
離れて、後ろ手を組んで、花のように笑う。
真っ白なフリルブラウスに光が透けて、本物の妖精みたいだ。
私はもう一度、美しい庭を振り返った。
もし本当に、のばらさんたちが、この家を出ていくのだとしたら。
手入れするものを失った垣根や草花は、やがて夏の日差しを浴びて生い茂り、荊のように館を閉ざすだろう。
だけど、いつか王子様がやって来たとしても、お姫様はもういない。
今日ここで、わるい魔女が攫ってしまうから。
「はーやーく!」
「はいはい」
私は肩にハンドバックを掛け直して、木漏れ日の中へ歩き出した。
カモミールの花が揺れている。
水気を孕む風には、もう、初夏の匂いが溶け込んでいた。
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【謝辞】
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真夜中、我慢できずにし始めちゃういばらちゃんと、それに気づいた時雨さんの話です。
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