沈む夕陽がビル群に反射している。

　行き交う人の群れを焼き、黒く映す時間帯。これから営業が始まるはずもない、埃臭く、物が乱雑に捨てられたクラブに、黒い服装の男が二人。

　日焼けしたスキンヘッドに、歴戦を物語る傷がいくつも残る一方は、パーカーを脱いでソファーに丸めるとリングへ上がった。

　ファイトクラブだった。店側が用意した格闘家と誰かをリング上で殴り合わせることが、かつてこの場所の名物とされていた。

　だが、合意でない客（店側に嫌われた獲物）が無理やりリングに上げられ、一方的に蹂躙される実態が公にバレた末、廃業した。

　それでもまだここを使う二人は、慣れた準備に取り掛かるだけで会話もない。バイブスを増強する音楽も、陽気な喧騒も去った以上、ただ物音が響く。

　一方は、格闘に精通している者も、していない弱者も関係なく決闘を強要し、正義の網を掻い潜ってきた。

　もう一方、キャリーケースを運ぶ肥満の男はかつての従業員で、退散したオーナーや他の従業員が捕まる中でも逃れ、寡黙なファイターの趣味に付き合っている。訳も分からず廃れたナイトクラブに運ばれ、整理がつかぬままゴングを鳴らされ、なぶられる。罪なき一般人の悲劇を安全席から観戦するのが愉しかった。

　これが七件目だった。

　場所とやり方にこだわりを持つ代わりに、決行する日付や時間はバラバラ。拉致する対象も老若男女様々で、捕獲場所は郊外も範囲のため、連戦連勝だった。

　法律などという、生まれる前から勝手に在り、少数の意を汲まず、魅力のない俗物ばかりを一旦安堵させるだけの下らないものに縛られるのが億劫な二人にとって、今こそが夢の中。

　ただ表で生きているだけの凡俗には知り得ない、自分たちみたく深淵にのみ寄る辺を持つ者の間でのみ知られている『啓示』なるものがこの街に存り、それを受けたスキンヘッドが本能を堪えなければならない鬱屈な人生からの卒業を叶えたのだ。

　今回の獲物は贅沢なものだ。現役の女子高校生、この街の名物とも言える高嶺の花園、大（おお）天（あま）那（な）女子高等学校の生徒で、別嬪だった。今は目隠しとギャグボールにより美貌が隠れているが。

　性欲より闘争欲が原動力のスキンヘッドでも、街で見かけた彼女に目が眩むようだった。歩く姿は百合の花、他の有象無象が霞むほど輝いて見てた。

　その衝撃から今回の獲物として即決し尾行、人目のなくなった隙に華奢な体を車へ放った。

　一目惚れした少女を自らの手で蹂躙してしまうのだ。戦いの中にしか快楽はないと、あらゆる物事に対して斜に構えてきた男でも、その快楽を意識せざるを得ない。

　相方のデブなど試食を試みようとするほどだった。移動中、少女を詰めるキャリーケースを小気味よく叩いていた。起きていたら精神的苦痛となったはず。

　キャリーケースがゴッと音を立ててリングに乗り、中央まで滑らされる。大の大人と違い、華奢な少女の場合は中にゆとりができるため、自分以外が獲物に傷を付けることを良しとしないファイターは、デブの粗末な仕事に苛立った。少女の後でこいつも殺してやろうか、と。

　デブが三本のロープを揺らしてリングに上がり、キャリーケースを開き、丸い格好で寝かされた女子高校生を取り出す。

　自力で脱出する術などないため、拘束も施されていない。長い間、狭い空間で自由を奪われていただけでなく、拉致する際に麻酔を嗅がされたため、すぐには活発になれず、太い腕に支配されても無抵抗だった。

　少女の鼻息は荒く、頬も朱色が濃い。

　ただし、これまでの獲物と比べて発汗量が少なく、何より動揺が窺えなかった。

　違和感を察知して目配せする男たち。罠か、と冷たいものを感じるも、尚のことさっさと始めてしまおうと非言語で通じ合う。

　キャリーケースを蹴飛ばして場外に落とす。

　猿轡を外すと、女子高校生は即座に口を大にした。それでも小さな口だ。普段から声を張り上げることがないのだろう。格闘など更に無縁。

　目隠しは外されず、羽交い絞めで青コーナーへ引きずられた。

　黒緑色のブレザーとスカートにアレンジはなく、細い両脚にタイツを履いている。若い娘にしては遊びがなく、黒髪を赤い紐で横に結んでいるのも大人の印象。

　つまりは怯える素振りもないということで、それは余裕とも取れるため男たちは警戒を強めた。

「やけに大人しい。絶望しているだけというわけでもないはずだが。例のお嬢様校の生徒だろ？　みんな君みたいな感じなのかい？」

　デブが柔らかい物腰で問うも、少女は答えなかった。

　絶体絶命の状況。弱肉強食の下位の側。長く閉じ込められていたことで体が痺れ、自力で立ち上がることもできない脆弱さ。

　過去には実績のあるボクサーを拉致したこともあった。そのボクサーでもこれだけの窮地に立たされれば狼狽えていた。

　しかし、この少女からは一切、困惑する素振りさえも窺えない。

「……どうする？」

　デブの中で不安が色濃くなる。

　二人も能無しではない。六回も拉致と撲殺を成功させてきたくらいだ。

　スキンヘッドは少し考えたフリをしてから「さっさと始めよう」と答えた。

　あの衝動を忘れるな。立場を失くしたうえ、衝動さえ拒むようでは自分が自分でなくなる。

　最優先は闘争心を満たすこと。餌が同じリングにいるのに、引き下がる選択肢などない。

　例えばこの少女が囮で、忌まわしい、欺瞞なる正義の鉄槌を受けるオチが待っていたとしても、それでも譲れない信念がある。……あったはず。

「フン、後がないのは俺も同じだ」

　スキンヘッドの事情は知っているため、たとえこの橋が真ん中で崩れるものと決まっていても進むのだと分かっていた。

　この悪運でどこまでやれるのか、半ばヤケになりつつ少女の目隠しを外した。

　ゆっくりと少女の目蓋が開かれる。

　照明のもと、久々の光に臆しているからではなく、元より切なさを醸す垂れた瞳なのだと、目元の黒子も含め、高校生離れした色気に男たちは感嘆した。

「惜しいな。やはり試食すべきだった」

　デブは眉を上げ、リングから降りた。

　青コーナーへ運ばれてそのままの少女を見下ろし、自分の拳でこの美しいものを壊すのだと決意する。

　デブは近くのソファーにふんぞり返り、テーブルに置かれたリモコンを手に取ると、照明と、あちこちに設置されたスピーカーを操作した。躍動を促すアップテンポの音楽がやかましく流れると、冷静な少女も流石に顔を歪めた。

　栄光の時代だった。ゴングが鳴る日も、鳴らない日も、このように狂乱のクラブを演出していたものだ。

　今でも満員の客席から喝采を浴びているような幻覚に溺れることができる。誰に対してでもなく、ファイターは自らのために両手を掲げ、無人の客席に雄叫びを返した。

　ただ、今回の獲物は反応が薄い。「俺は君（きみ）島（しま）徹（てつ）だ」と名乗るも、聞こえていないような少女に項垂れた。

「お嬢さん、名前を教えてくれよ。分かるだろ？」

　少女は少しムッとした。子供扱いが癪だったのか、君島にとって意外な反応だった。

　少女がようやく立ち上がった。赤コーナーに寄り掛かる君島がだらしなくなるほど、きめ細やかで静謐な所作だった。

「お嬢さん、何故ここに運び込まれたのか、これからここで何をするのか、何をされるのか、聡明な印象通りなら全て察しているはずだ」

「……勿論です」

　少女の声には、年齢以上に女としての経験が感じ取れる、あるいは厳かとも取れる重さが掛かっていた。一音ずつに芯があり、やはり怯えは窺えない。君島の中で、あるいはこの娘が、という期待が芽生える。

　駆け引きの粋を知らないデブが、始まらないショーに苛立ってウイスキーを取るも、君島は、少女が本物であるのならゴング前のこの一時をも愛おしく感じた。

「失礼をした。いや、うるさくない女は素敵だ。惚れてしまったのかもしれんな。だが、出会い方が悪かった。俺と君は今から殺し合う間柄。俺は君を撲殺するし、君も俺を殺しに来ていい。武器も使用可能だ。運良く隠し持っていたらの話だが」

　説明中も嫌な予感は消えなかった。何か合点がいったように瞬きをした少女を見逃さなかったうえ、二つした予想のうちの悪い方が当たってしまったらしく、時間を稼がれているように感じた。

「これが正しい行いではないことを理解しておりますか？」

　自発的に口を開いた獲物の問いがこれだ。

　命乞いや動転ではなく、正義の味方の位置からこっちを睨める。これまでの被害者でしかない被害者たちと違い、少女の揺るがぬ眼差しが君島を惑わせた。

「君には分からない。いや、誰かに理解されたいわけでもないんだ。それでも俺は、もう戻れない」

「それは――」

「おい、煽りはもういいだろ！　さっさとショーに移れよ！」

　客席から野次を飛ばすデブも悪寒を払えない。ウイスキーも胃に運んでいるだけで、舌で感じられていない。

　しかし、少女は野次にも臆さず正面の男へ問いを投げた。

　それが、君島の予想を的中させる証となる。

「貴方が『ゴーレス』だからでしょうか？」

「……何だと？」

　君島の額に汗が浮かぶ。

「元凶どころか『啓示』を受ける条件さえ未だ定かではありません。今の問いも当てずっぽうです。貴方をここで止めることができなければ、貴方たちという、この街の闇が世に知られてしまう恐れもありますから、私（わたくし）も生半可な覚悟でここにいるわけではないとご理解ください」

「お前は何者だ？　どうしてそれを知っている？」

　か弱く哀れな獲物として扱うのは間違いだった。

　それを知るのは、この街の影に身を潜める者たちの更に一握りとされているはず。その証拠すら見せていないのに自分の正体を暴いてみせた眼前の少女にこそ恐れを感じてならない。

　ゴングが鳴るまでは手を出さない。そのルールからではなく、自らの痩せこけた信念が足を引っ張っていて、眼前の華を無下にできずにいる。

　もう遅い。君島はこれから迎えるオチを想像し、沈む夕陽に心を重ねた。

「私が何者かを答えるつもりはありません。貴方たちとはこれきりなのですからね。ですが、名前なら名乗りましょう。私は由（よし）埜（の）小（こ）撫（なで）と申します」

「由埜？　覚えがあるな。それにやる気はあると見た。君からは手練れ特有の余裕が見受けられる。悪いが強者と弁えてやらせてもらうぞ」

　両の拳を顔の前に備えると、君島の貌が獣に化けた。殺す意志を明確に表している。

　凡庸な女子高校生であれば腰を抜かす意気だが、小撫はそれにも動揺しなかった。

　垂れた瞳には慈しみか憐れみの意味が感じられ、臨戦態勢となった君島には不快に映る。

「いいえ、貴方の相手は私ではありません。私が相手をしてもいいのですけど、彼女はきっと譲ってくれないでしょうし」

「彼女だと？」

　無防備なまま肉食獣と向き合っているのに、無警戒にも小撫は視線を逸らし、入り口の方を見た。

　警戒していたため、男二人がそちらを振り向くのも速かった。

　そして、それより速いものがやってきた。

　入り口の外にも廊下が続く。そこからピンク色の棒状のものが飛来して、一番大きいスピーカーに突き刺さった。

　不協和音は断末魔、火花を散らして壊れたスピーカー。爆破に巻き込まれて周囲の照明も砕ける。

　男たちが小撫の倍大きい口を更に広げて愕然とする中、対照的に小撫は得意気だった。

　喜びと安堵。いつも通りの彼女に微笑してみせた。

「おまたせ小撫！　大丈夫？　酷いことされなかった？」

　小撫とは異なるグレー基調のセーラー服を着た、比較して溌剌とした印象の少女は、普通この場面で感じ取るべき恐怖に無関心なまま手を振って歩いてきた。