第2話 最高の仕事


 白い埃とグレーの汚れが視界から消えていく。代わりにツルッと輝く窓硝子が明智英明あけちひであきの顔を写すも、英明はじーっとさらにその奥を見入っていた。


 陸上部女子の鍛えられた太腿と脹脛が桜の下を駆け抜けていくのだ。違う場所には、紺色のブレザーに奇麗な灰色のスカートを短く着たギャル達が横切っていく。


 故に、隣の窓の汚れがその鑑賞を邪魔した。


 英明は右手にある濡れタオルで、勢いよく隣の窓硝子を拭く。掃除も出来、鑑賞も出来る、まったく最高の仕事である。英明の手際の良さは、プロと遜色が無いほどに精緻であった。


 ただ、それを不気味がる生徒は背後を通り過ぎるなり、ヒソヒソと噂をする。


『前生徒会長、明智英明は頭がオカシクなった』のだと。


 噂の渦中である英明は聴覚が敏感になっていたこともあり、当然聞こえていた。


 窓へ伸ばしていた右手をだらんと落とし、左手で首の辺りを掻く。


「……まぁ、これでいいだろ」


 窓硝子を掃除し終えたので、足元にあるバケツへ雑巾を落とした。水滴が跳ねるのをぼんやり見下ろしていると、バケツの表面が小刻みに振動しだした。


 近づく足音へ視線を向ければ、英明の親友である睦月奏汰むつきそうたが右手をあげていた。清涼感のある短髪で、英明とは違いスラリとした体躯だ。端正な顔はいかにもモテそうである。白シャツの襟下から垂れる赤色のネクタイは彼にマッチしていた。因みに、青が三年。黄色が一年だ。


「おっ、遅刻の罰掃除は終わったか?」


「遅刻しただけで窓掃除って、修行僧かオレは」英明の軽口に睦月はぽっかりと口を開けたが、口許はすぐに歪み、笑いになった。腹をわざとらしく抱えているが、睦月が普段からそうやって笑う癖があるのをこの二ヶ月で理解した。


「そう遅刻を安く見積もってるからだ。それより、生徒会室に早く来いよ」


「あぁ……でもいいのか? オレはお前らの知ってる明智英明じゃ」睦月は笑った表情を変えずくるりと背を向けた。右肩の上から手招きをしつつ、彼は歩き出す。


「なに言ってんだ。どうだろうが、お前は、明智英明だよ」


 睦月の後ろ姿が遠のいていく。


 英明には、得体の知れない孤独感があった。周りを見れば知らない景色と人に染まっている。病室で目覚めたあの日から殆どの人を知らない。


 もっとも、周りは英明のことを知っていると口々に言う。なんらかの冗談かと思った。


 英明はこの中央高等学校を一年の後期で生徒会長を務め、陸上部のエースだったという。県大会一位の実績で、インターハイの出場経験があると。加えて、学力も優れ学年一の秀才。中学も陸上部では無いが、ほぼ同じスペックだったという。

 

 そんな漫画のような設定を聞いて、はいそうです、なんて受け入れ切れない。誰の相談にも親身に聞き、学校中のお手本だったそうだ。


 一月四日。


 明智英明は、落雷に打たれた。もっとも、直撃ちょくげきしたのではなく、大木に落ちた雷が近くにいた英明に飛び移ったのだ。側撃そくげきである。


 担当医からは雷撃を受け、記憶障害を引き起こしていると。平たく言えば、記憶喪失だと診断された。記憶が元通りになるには長い時間がかかり、長ければ数十年の単位を要するらしい。


 英明の記憶は高校と中学の時期がガッポリと抜け落ちている。医者曰く、珍しいケースとのこと。


 確かに、記憶の欠損は雷に打たれた者に見受けられる事象だが、それは往々にして直近の出来事に留まる。


 英明みたいに四年間の記憶が欠損するのはもっと何かしらの要因があるのではと述べていた。


 例えば__英明自身が記憶に蓋を閉じようとしているとか__と。


 先に、今朝叱られた学年主任の元へ終わった旨を報告しようと、英明は職員室に向かった。


「あのギャルの子達、スカート短かったな。うへへ」


「お前、本当に明智か?」ニワトリみたいなトサカヘアーをした学年主任の大塚と対面していた。下っ腹が出ており、運動など十数年ほどやっていないような不健康そうな見た目だ。


「いや〜、そう言われても〜てへへっ」英明のたるんだ顔に大塚はあからさまな溜息をつく。二年初めての登校だった昨日もそんな態度をされた。遅刻した英明が悪いのだが。


「信じられん。こんな締まりのない顔をする奴じゃなかった」


 大塚の発言に英明は身が硬くなる。誰かと比較されるのはどうだっていい。赤の他人と競うなんて、馬鹿らしいからだ。


 だが、自分の過去と比べられるのは自分の存在を否定されているように感じてしまう。


「お前、生徒会には面倒掛けるなよ、頼むから。それか、迷惑をかける前に辞めるのもいいな」汚らしく口角をあげたトサカに英明は目を細める。


 込み上げてくるドロドロとした塊を目の前のトサカにぶつけてやろうかと思った__その時だった。


 英明の隣に軽やかな柑橘系の匂いがふありと漂う。


「大塚先生。今の発言は撤回してください」


「あぁ?」大塚の視線の先には、中央高校指定のブレザーを着た女子高生__鳴海詩織なるみしおりが立っていた。

 

 ハーフアップの綺麗にまとまった彼女の髪は揺れ、キリッとした眸が大塚に注がれている。大股な脚は黒のタイツとスカートで全て隠されていた。


「辞めるだの、迷惑をかけるなだの、プレッシャーを与えるような発言のことです」

「……あくまでも、客観的な意見だ。判断材料を与えたに過ぎん」

「そう言った言葉の積み重ねが、未熟な学生を追い詰めるとはお思いにならないのですか?」


 唸るような大塚の声に周りにいた先生達がチラチラと窺い始めた。


 二周り以上年も離れた大塚に対し、瞳をブラさない彼女の横顔に見惚れる。


 たくさんの視線に気づいた大塚は辺りを見回すと、鼻息をついて英明へ向き直る。

「悪かった」軽く頭を下げ、パソコンの方へ椅子を回した。


「ほらっ、行くわよ」すでに大塚から離れていた鳴海の後を英明は追うも、後ろからは小さく『覚えてろよっ、鳴海』と物騒な声が聞こえた。



 鳴海の背中は鉄筋が一本入ったように真っ直ぐだった。


 沢山の生徒に『生徒会長、さよなら』と声をかけられ、『さようなら』と返す。


 近くに学生が居なくなると、鳴海はスピードを落とし、英明の隣に来る。


「さっきのは大塚先生が悪いけれど、貴方も悪いわよ」

「はっ?」

「なぜ、遅刻した理由を言わなかったの?」太陽の淡い光が校舎内の二人を包み込む。


 あの場に鳴海は居なかったはずだが、まるでお見通しと言わんばかりの表情である。


「……轢かれた猫を病院へ連れて行ってました、ってか?」


 今朝、英明がゆとりを持って登校した際、幹線道路の傍らに一匹の猫が横たわっていた。それも非道く息を弱めている。


 辺りを見回すも、まだ朝早いこともあり誰もいない。英明は胸元で猫を抱え、必死に近くの動物病院へと向かった。


「猫を救えなかったオレが言うことじゃねぇよ」


「そう、だったの……」穏やかな目元だった。罪悪感を感じさせないようにと、気を遣ったようにさえ思えた。


 おそらく鳴海は、英明が猫を抱えて走っているのを偶々反対側の歩道で目撃していたのだろう。


「オレもそんな感じだったんだろ? 雪が積もったあの日も、君たちがオレを背負ってさ」

「……」


 一月四日。英明は落雷により気を失ったが、その場にいた彼女たちが病院へと担いで連れていったのだ。救急車を呼ぶよりも早いとの判断だった。


「だったら、オレもそうならないと、こうやって命があるんだからさ」


 自分の胸を強く叩くも、咽せてしまう。


 カッコつかない英明に少しだけくすりと笑い、鳴海は生徒会室へと向かっていった。


 生徒会室へ生徒会長と共に入る。公立校だからだろう御立派な生徒会室ではなく、簡素な作りだった。


 必要最低限の長テーブルとパイプ椅子が並ぶ。生徒会室の両脇には過去の生徒会が纏めた書類が整列されている。


 睦月の真正面にもう一人の女子がいた。


「ヒデアキくん、おそぉ〜い」女子で唯一、下の名前で呼んでくれる少女__徳橋エマ。猫っ毛の髪は外ハネパーマボブと、英明が好みの髪型をしている。


 彫りがやや深く、ハーフっぽい顔をしているが、生粋の日本人である。祖祖母がイギリス人ではあるのだとか。


「すまん」英明は右手を顔近くへ上げ、睦月の横に腰掛けた。


「他の二人は?」鳴海が睦月を通り過ぎながら問いかけ、一番奥の上座へと座る。しかし、睦月からの返答がなかったので、『どうしたの?』と眉を上げながら再度問いかける。


 睦月は『困ったことになってな』と前置きをしてから続けた。


 どうやら、英明を陸上部に戻せと声が上がっているらしい。近々、短距離と中距離の大会があり、何としてでも結果を出したいとのこと。生徒会が顧問へ英明の出場を辞退させるよう動いていると知り、先程反発が起きたのだ。


 最初、鳴海生徒会長と共に後から行く旨を睦月が伝えた。しかし、『お前じゃ話にならん』と聞く耳を持たない状況のため二人がその鎮静に向かったのだ。


 徳橋はそういう荒々しい男が怖いとのことでここにいる。


 鳴海生徒会長は今の今まで日直をしていた。日誌を担任へ提出しに来た所、先ほどの一件を目の当たりにして今に至る。


「オレ、モテモテ過ぎんだろ」


 英明の緊張感ない発言には誰も笑わない。鳴海は指を組んで検討する。


「百聞は一見に如かず。言葉を労するよりも彼らが納得するものを見せた方が早いかしら」

「待ってよ、しおりん。今の__」

「大丈夫大丈夫。何でもバッチコイだぜ!」自分が何をするか分からずに、徳橋から好かれようと口先で適当なことを言う。


「お前なぁ〜」と机に頬杖をついた睦月は呆れたような声を漏らした。

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