㉒弁解
「
見られていた。
ちかりさんのループ能力にはひとつ不思議な特性がある。副次効果として瞬間移動してしまうというものだ。
ちかりさんとキスをすると世界が一時間巻き戻るけれど、その二人は一時間前どこで何をしていたとしても、キスした位置に瞬間移動することになる。
今回の件に当てはめて考えると、一時間前、僕たちは立入禁止区域の入口付近にいた。けれどキスをしたのは公園だった。だから僕たちは世界が一時間巻き戻ると同時に十七時の公園にワープしてきていた。
僕目線では、僕自身は移動していないので何も違和感がない。時間が巻き戻って少し世界が明るくなるだけの変化しかない。
しかしちかりさん目線はそうではない。立入禁止区域で『今から乗り込もう』としている気分から、瞬きをする間に瞬間移動するとともに誰かとキスしていることになる。
時間停止の異能を受けたときのような気分だろう。この世に時間を止める力なんて存在するのか知らないけれど。
ちかりさんは常にお酒に酔っていて意識が不安定なのでシーンが飛んでも気にしないとは言っていたが、今回の問題は第三者目線である。
もし一時間前のそこに第三者がいれば、その人にとって僕たちは急に現れたように見える。
キスをした状態で。
その第三者――
「いま、キスしてたかって聞いてるんだけど」
「いや、あの、これは――」
「イエスかノーで答えて」
赤みがかった伊原の瞳が燃えているように見えた。僕はその剣幕に圧倒されて、小さく首を縦に振る。
「そ」
伊原はそのまま上を向いて。
「また変なのに巻き込まれいたのはわかった。でも、キスは自分の意志なんだね」
そう言って、鞄をひっつかんで公園から出ていった。
「伊原っ!」
去り際の彼女の声は、涙ぐんでいるようにも聞こえた。
「いはらっ」
僕も追いかけようとして、ちかりさんの方を向いた。
「ごめんなさい、ちょっと追いかけ――ちかりさん?」
振り向いた先には、青ざめた表情のちかりさんがいた。
彼女は酔っぱらって顔を赤くしていることがほとんどだったので、僕はその新鮮な顔色に思わず足を止めた。
「どうし……大丈夫ですか?」
ちかりさんはずっと小声で何かをぶつぶつと呟いている。近づくとそれは「違う」と「ごめんなさい」を繰り返していることが分かった。
「ちかりさん? ちかりさん!」
彼女の肩を掴んで前後に揺さぶる。
しばらくすると彼女は「めぐみくん」と力なく言った。
「今のが、伊原ちゃんなんだよね」
「そうです」
「違うの。私はそんなつもりじゃなくて」
私?
ちかりさんは聞きなれない一人称を話した。彼女はずっと自分のことを「おねえさん」と呼んでいたはずだ。
「人のっ、恋路を邪魔するつもりなんてなくてっ! 私……私は……」
恋路と聞いて僕の胸が痛んだ。
恋路。伊原の見せた涙。つい先日に貰った誕生日プレゼントのマフラー。
ここまで見えても察せないほど僕は鈍い男ではない。
そしてちかりさんも、一瞬ではあったけれど伊原の表情や態度を見て、これまでの話からそれに気が付いていたのだろう。人の感情の機微に敏感な人だ。
いつの間にかちかりさんは涙を流していて。
「もう、やだぁ」
小さく呟いた。その声色はいつもと全然違っていて、酔いが醒めているようにも見えた。
結局僕は伊原を追いかけることができず、そのままベンチに座ってちかりさんが落ち着くのを待った。
「めぐみくん、ごめんなさい」
一時間ほど経った頃、ちかりさんが呟いた。
「ちかりさん」
「うん」
「謝ることはないです。僕が選んだんだ。僕が、ちかりさんとのキスを受け入れたんです。いいや、僕がキスしようと思ったんです。その結果伊原を傷つけることになったとしても、それはあなたに何の責任もない」
なんなら僕は、この状況を楽しんですらいた。
伊原に好意を向けられていながら、年上の美人なお姉さんとキスをする背徳感を。ぬるりと舌を絡め合う快感を。デイズと戦って街を救うんだという優越感を。
改めて自分の最低さを認識する。
僕はそんな自分の快楽のために、一人の女の子を傷つけた。
そして、それに責任を感じた目の前の女性も傷ついている。
「わた――おねえさんね。もう恋愛ってできないんだぁ」
「……?」
唐突にわけのわからないことを言われて僕は戸惑いを隠さず首を傾げた。ちかりさんはまだ二十七歳だし、そもそも恋愛に年齢は関係ない。中年になっても、おじいちゃんおばあちゃんになっても恋愛を楽しむ人はいるだろう。
しかし続くちかりさんの言葉で、僕は自分の無神経さに気付いた。
「キス、できないからね」
「あ」
「めぐみくんは男子高校生だからもうわかると思うんだけどさ。恋愛と性欲って近いところにある人が多くて。私もその一人。好きだな~って人はぎゅーってしたいし、ちゅーしたいし、えっちもしたい」
「……」
僕は目の前の女性から発せられる少し淫靡な発言に少しだけどぎまぎした。
ちかりさんも、そんな経験があるんだろうとつい想像してしまう。ぬるりとした舌の感触を思い出す。
「私も最初からこんな能力があったわけじゃなくて。十代の頃はそんな恋愛を経験したし、それのお陰で幸せになったり、それのせいで最悪な気持ちになったりした。そのどれもが、いい経験だったなって今は思う」
彼女はうっとりとした表情で呟いた。誰かを思い浮かべているのかもしれないし、行為そのものを思い浮かべているのかもしれない。
「でもある日急にそんなことできなくなっちゃったんだぁ」
「……」
「どれだけ好きになっても、ちゅーしたら時間が戻るの。どれだけ気になっている人でもね、雰囲気とか過程が全くなくて突然顔が目の前にあったらね。怖いんだよ」
「……それ……は」
ちかりさんは平気だと言っていたはずだ。キスする相手は選ぶから、大丈夫だと。
「それにね~、まだ自分の能力がわからなかった頃に大好きだった人から向けられた、バケモノを見るような目は、一生忘れられないと思う」
「……」
「情けないよね。だから私は逃げたんだ。現実から」
「あ……」
「私はもう恋愛できない。でもね~、世の中って本当に殺してやりたいくらいのカスもいて。無理やりキスされることだってある。気付いたら知らない男の舌が絡んでいて、そいつにバケモノを見るような目で見られるんだよ。それが耐えられなくて」
だから。
だからこの人は、いつも酒を飲んでいるのか。
僕は唇を強く嚙んだ。
それを僕は茶化して。
能力を都合よく使って。
「お酒を飲むようになってからはね~無理やりされることはなくなったし、もしループしても私自身もよくわかんなくなってるから問題なかったんだ。でもね」
ちかりさんはゆっくりと時間をかけて、息を吐いた。
「私は今日、自分の恋路だけじゃなくて、人の恋路まで壊しちゃった」
あはは、と彼女は笑った。
力のない笑い声だった。
「ね、めぐみくん」
「……はい」
「キス、しようよ」
「……なんでですか?」
「やり直すの。さっきのキス――伊原ちゃんに見られたキス、なかったことにしようよ」
僕はゆっくりと首を横に振った。
「クールタイムがあるって話してくれたのはちかりさんです」
「あはは。そうだよね。そうだよねぇ」
「……」
「…………」
僕たちの間を、無言の時間が流れていった。
僕は自分の右頬を右手で強くぶん殴った。
「ちょっ、なにを!?」
「ちかりさん。ごめんなさい!」
「なに? めぐみ君が謝ること、ある?」
「ちかりさんの酒癖を馬鹿にしたこと、ループ能力をいたずらに借りたこと、これまで配慮のない発言、本当にごめんなさい」
「……言ってなかった私が悪いよ~」
「それでも、謝らせてください」
「…………謝られても、おねえさんのループ能力は消えないから」
「っ」
「でもまあ、謝られておく。受け取りました」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「めぐみくんのことを責める気持ちは本当にない。難しいと思うけど気にしないでほしい。むしろおねえさんがごめんなさい。なんだけど、今日はもう疲れちゃった」
僕は立ち上がれなかった。
「じゃあね」
そう言って、ちかりさんも公園を出ていった。
一人残された僕の頬を、冷たい冬の風が撫でていく。
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