四
しかし教師たちは、微妙な形でいつもその責任をとらされる。書いた言葉ほどに言葉はまっすぐ出てゆかない。言葉はいつも曲っている。自己弁護のために卑屈になったり、悪意ある毒をふくんでいたり、酔いにまぎれて感情を誇張している。相手にさほど響かなかったのならまだしも、忘れてくれることを願わずにはいられない。ことわれるはずだのに、口にすると、言葉は曲った。そのいやな後味が口のあたりに
超越性は君のなかで皆無か? 身体として純粋であるか? それだけがのぞましい。君は君なりの役目を負って生まれてきたのであり、貢献したところの社会の益〻の興隆を、君は死して見護るのだ。それだけだ。それが宗教の凡てであればいい。後代君はたたえられ、仏の一体となり、
・
私のなかで、魂は、いかんともしがたく水として凝結してきた。否まことに魂とは水のことではなかったか。私は水を吞むごとに、魂を呑んでいると思った。
或る風の
私たちはさしむかいに心地よい静寂を噛み合っている。まして今日は
手をにぎり合い、瞳のなかをのぞき合ってたしかめるような愛では、私たちの間はとうになくなり、たがいの予測可能性のしきいを守ってうごき合うことが、今ではたがいの愛をあかし合う方途だった。私は私の予測を裏切るような私自身へと挺身することができないで幾星霜を
しかし私たちが実のところ嚙みつづけているのは、自殺者を出した家庭の空気そのものであり、口に入れたものは、お
斧の下にたちわられた夜の
電燈がいつもより暗い気がした。蒼ざめた壁紙の見なれぬところに私は黒い染みをみつけた。眼鏡をかけていなかったので、目を細めた。妻の頭ごしに、古い冷房が
私は心だけで身構えた。この雨だ。何が
それは大きくて、莫迦に動きのおそい
「どうかした、さっきから?」
私は彼女を妻の目から匿いたい気がした。どうしてだか、動物の子育てをするすがたを見るのが――人がそうするのにもまして――、いつも人間らしい思考を拒むにくらしい彼らが生を遂行しようとする
妻は振り返り、「いやだもう。なんで見てるだけなの」と言いさま席を立った。
そこの勝手口を下りてすぐのアルミサッシに夜が体当たりを仕掛けてきた。
妻は金属光沢の赤いスプレー缶を手に、いきなり薬液を噴射した。白い
母親は長い脚を隙間なくちぢこめて、
「すごい」
見とれていた私を、妻がはげしく
「ねえ。見てないでちゃんと潰してよ」
と言いながら母親の体を、半ばやぶれた卵ごとティッシュに包み込んで、屑籠へ捨てるのだった。
「まあ、いいじゃないか。そこまでせんでも」
「自分のお部屋じゃないからってそんな」
ろくに見えもしないものを二人して捜した。シンクの上を歩いている蜘蛛の子を、私は潰すふりをして見のがしてやった。
その夜、私の夢寐に長男があらわれて、
「父さん。俺も人生ってのをやってはみたんだ」
と言った。私はあいつがこんな感傷的なことを言うはずがないと思ったが、彼の嫁には申し訳がなかった。人生を人生と詠歎調に物質化してしまう文学的な男に息子に育ってほしくなかったところから、人生そのものをすすめたのも、他ならぬ私だった。かくして第三の轍は生じた。
人の美点をつなぎ合わせて一個の架空の人物を仕立て上げ、あれが人生だと叫び、そんな継ぎはぎ状の
目がさめた。もういくら眉根を
暗い中にしとどにぬれた瓦の手ざわりが思われる。雨足に踏み
樋を伝いきらない水が滝のように落ちている。それさえが、
思い出のなかの白さは、とびたつ翼の輪郭の白さから微妙に乖離して見えるものだ、などという、わけのわからぬことをそれからの私は寝床でまじめになって考えていた。私の目のなかで白くひらめく光りの正体を追って、しかと捕えようにも、とびはねる形に、私はついに何かを捕えたような気がした。しかし、やはり夢のいつものやり方で、ふたたび覚醒したとき、夢のなかでつかんだものは置き去りにさせられた。
小止みになってきたのを合図に、いいかげん起上がった。
私の目は北のかた、笹藪をこえて、緑の丘の起伏の間を落窪んでゆく田が、雨に
一歩戸外へ踏み出したら、そこは洪水だった。
みなもは間断なく雨に刺されて、消えるそばから、そこにあらたに
こんなにも雨は降っているのに、雨粒の一つ一つは、けっして中途では交わらない。私が傘を畳んでも、濡れずには身の
はて、それらを憐みを以て見ている私の視座こそは、何であったか?
測量は私たちを神秘の畏れから救い出したが、時として風景は、見知らぬ顔つきをして私たちに牙をむく。花の一つにさえ、私の知らない表情がある。まして、全貌などとらえるべくもないのに、未踏の、未所有の土地さえも、不当に身近な些末なものとして私たちは心に所有している。ほんとうはすべて心の外部にあるというのに。
ほうぼうに散っている
私道と公道のさかいは
畑地のすみに、
だんだんと林縁が押迫ってくる右手に高く、法面からは、そこにそびえる樹の幹が、
すぐわきに家屋の二階が、私の足下にある。
傘を水平にむけ直して、視野の上半分をさえぎった。柄のさかむけが指にふれた。すると
まもなく山は、
左へ曲がると、瀬音が高まった。それはいつにないことである。
ふだんから、旺盛な水辺の草の葉かげをした行く埋もれ水に、田と田の間が少し窪んでいるとしか見ないところが、いまは
来た道をふりかえると、雨が簾をおとしているのは、田のあかるい緑にではなく、下草のたえまに、杉の幹のやせた白い
西を望むと、たまたま田を作らない
水勢はここに一段とまして、弧を描き、落下している最中の恍惚を示している。ぶつかり合う
みなすべからくおもてを西方にむかふれば最勝なるべし、とあるのを思い出した。極楽寶国はつねに西にのぞまれるのだ。濁流はこぞって西方をさして急いでいた。私はその一瞬たりとも
降りやまない雨が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます