頌詩への応援コメント
御作、拝読させていただいて居ります。
「又の秋」が危機と崩壊であるならば、今作は崩壊からの再生であり、両手共に直幸の気配のする秋が、眞幸の現実と精神、ヒトと自然との観念をつなぎ合わせる役割を果たしているように感じられます。
その役割の静謐な偉大さと畏怖を讃える心象を古語的な表現から読みとれました。
続きも楽しく読ませて頂きます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
六年前に断片を物したきり、ほうっておいたものでして、さぞコメントがしづらかったろうと思います。それでも言葉にしていただいて、うれしいです。
まあ僕は、かいさんは一文一文の独自性を、作物が完結していようがいまいが、ちゃんと見てくれる方だろうと何となく察しておりますので。こんな尻切れ蜻蛉でも、何かしらのニュアンスは汲んでくれるだろうと、勝手な期待をしてますた。
どすかね……作物がまだ未完でも、この一文はすでに何かしらの薫りをはなってんだろ! って思うことはありませんか?
僕は、他者の作品に対する最大の表敬は、オマージュであると思っとります。称賛することではなくてですね。黙って盗むんですよ。他者の作品で目を惹く部分は、僕はなるたけ吸収して、自作で活かすことにしとります。周囲に目を配って、吸収しつつ、自作を進めます。かいさんの作品にも、僕は盗むべき美質をようけ見出してるんで、気を付けてくださいね(笑)
編集済
又の秋への応援コメント
御作、拝読させていただいて居ります。
その周囲に身体に感じる変容があると、ふと自らについて省みるに至ることがあります。季節はまた、私にその機会を与えてくれますが、一度目にとめてみると途端に棘を張って私を痛めつけたりもします。
眞幸にとって秋は、枯れ際に毒をふく意地の悪い花のようなものではないかと感じました。
続きも、楽しく読ませて頂きます。
作者からの返信
昔、国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』に大いに共感して、自然に親しんだ頃がありました。まるで自然が唯一の友人のようでした(笑)夏が盛り上がってゆくさまに喜びを感じて、そのあと訪れた秋の、特に晩秋に、急に寂寥感に襲われました。長い間、角突き合わせてきた動物が、実はこちらの顔をおぼえるどころか、見てすらいなくて急に背かれた時の寂寥感に似ていて、ああ自然ってやつは、こちらの顔を見おぼえていやしないんだ、お構いなしに秋は落ちて行って、また同じところをぐるぐる回るだけなんだ……人間の友人であればこちらの顔を当然見おぼえていますし関係が深まってゆく妙味がありますが、季節は薄情です。僕は季節に対して友人のようにあまりに親しく臨むことの危険をあの時悟りましたね。まことにあいつらは、こちらの顔色なんか目に入っちゃいませんのでね、あんまり肩入れすると裏切られます。
本稿への応援コメント
御作、拝読させていただきました。
朝尾様と同じく、私も文学作品を読む際には自分で活用できる表現や感覚が含まれていないか、常に眼を光らせています。盗みは、もの書きにとってごく自然なことのように思います。
例えば御作では、民俗学的視点による経験と近代的主観による抒情の習合が試みられて居る様に感じております。自然の土地やヒトの遺構に埋めこまれた自らの記憶を眞幸が語り下ろす形式は、将に折口信夫や柳田國男の感覚に近いものの様に感じますし、自己と世界、精神と物質を超越した精神性への陶酔は三島由紀夫にも似た感覚にある様に感じます。
テセウスの舟の様に、様々な部品をひとつの作品に仕立てることは最早新たな創作の真髄であるやも知れません。
正直、朝尾様の筆力には到底敵いませんが、私の作品にも盗むほどの価値があるのであれば光栄に思います。御作もまた、確かな美文でありました。
作者からの返信
盗みはわれわれの性である、と言っていただけたこと、心強いです。
嘗ては絵画・彫刻・音楽・建築等芸術の諸方面に嫉妬して、文学独自にして翻訳不可能な表現の独立性を担保せんとすることに、作家は矜持をもっていたと思うんすけどね。今やメディアミックスにおんぶに抱っこで、別媒体・別言語への翻訳のしやすさがトレンドになってしまいました。とは言え、外国人を顧客にとりはじめると、何でも退屈になると思うんですけどね。英語に翻訳されて評価される小説って、それ日本語としてどれくらい完成されてるの? って思います。
盗むのはわれわれの矜持であってしかるべきですな。
――
三島由紀夫ですか。いやあご慧眼をお持ちで(笑)
かいさんの『溺れる金魚』を読んで、最初模糊としてとらえがたかったんですが、ちょうど『禁色』読んでて、ああそうかと思って、レビューを書きましたくらい、僕は三島にかぶれてます。
――
民俗学的視点は(ちょっと話それますが)重要だと思います。
ふるさと納税なんか代表格ですが、政府は地方自治体どうしで競わせて、税の奪い合いを促しています。使われるのは文化財であり、集客力によって文化財の価値が計られるという顛倒が起きています。挙句のはてに、まるでその地に根付いていない行事をでっちあげて、地域外の人の歓心を買い、一方コミュニティ内部の人たちの理解は得られない。
文化とはそもそも「内向する示威行為」であったはずですからね。国威発揚、感謝と祈り等の祝言的性格は閉鎖的なコミュニティ内部で育ってきたもので、それが非常な時間をかけて現行の祭式へと昇華されてきたんですから、住民無視の・域外向けに発信される急拵えの文化って何なんすかね。それ文化ちゃうやろ!って誰かつっこまないんすかね。
文化財がもっぱら観光学的視点で扱われるようになったのと同様、純文学も観光学的視点から評価されるようになるのは、当然の成り行きですな。いやはや、おかしな世の中になりました。
僕はそんなおかしな世の中でも、かいさんのように折口信夫や柳田國男を心に匿っている方がいること、そういう方と誼を結ぶことができることを大変誇りに思います。