夜に階段をしまう家

 勇作の家のあれこれが僕の心の中で落ち着いた頃、村は春を迎えた。僕は小学生の高学年に上がり、兄ちゃんが中学校へ上がった。

 兄ちゃんは、その夜からネム様をもらわなくなった。

 ネム様は子供の食べ物だから、中学生で食べてるとちょっと馬鹿にされてしまうんだ。兄ちゃんは誇らしげにネム様をった。

 その夜は、父ちゃんが兄ちゃんを正座させて何か話を始めていたけど、僕はすとんといつも通りに眠ってしまった。


―――ネム様を食べていないから、なかなか寝付けれんかもしれん。寝れんくても、絶対に大きな音を出すな。

―――なんで?

―――夜だから。



 朝が来て、階段を降ろす。

 階段を下りる父ちゃんの後を、兄ちゃんがもどかしげに追って、外の便所へ走って行った。

 スッキリして戻って来た兄は、いつもより眠たそうだった。

 僕は家の換気と掃除をしながら、兄へ話しかけた。


「ネム様食べてないから、夜にお腹が減って寝れなかったの?」

「いや、そうなると思って水で腹を満たしておいたらさ、小便行きたくなってさ~」

「ぎゃはは! あたりめぇだろ、馬鹿な兄ちゃんだな!!」

「父ちゃん絶対下ろしてくれねぇの。全然寝れなかったわー」


 その後、母ちゃんが木製の"おまる”を物置から引っ張り出してきて、兄ちゃんは顔を真っ赤にして怒ってた。

 僕は妹とゲラゲラ笑って、兄ちゃんに追い回された。

 面白くて良い兄ちゃんだった。

 梅雨の時期に野犬の子を拾って世話をする、優しいところもあった。

 子犬は良く懐き、兄ちゃんと子犬はいつも一緒に眠って、僕も妹も羨ましくてしかたがなかった。

 ある日、兄ちゃんが二階へ荷物を運ばなくちゃいけないという事で、僕が子犬を任された。すごく嬉しかった。

 だけど、その役を妹がねだって来て、夕食時にごねたり泣いたりと大騒ぎをしたんだ。

 だから仕方なく妹に任せる事にした。

 だけど、いざ皆で二階に上がった時に、妹はぬいぐるみを抱いていたんだ。

 どうしてそうなったか……僕が妹に役を譲った事を知らなかった母ちゃんが、妹に「ぬいぐるみで我慢しなさい」と言い聞かせた事が原因だった様に思う。

 だけど父ちゃんは僕に怒って、殴る素振りまで見せた。


「任された事はちゃんと最後まで面倒見ろ!」

「父ちゃん、そんなに怒らないでよ! 寒くないし、タロは大丈夫だよ!」


 父を止めてくれたのは兄ちゃんで、母ちゃんが父ちゃんから庇うように僕の横に寝転び、「ごめんね」と謝りながら頭を撫でてくれた。

 僕は、元凶の妹が既にすやすやと眠りについているのを苦々しく思いながら、やっぱりすとんと眠りに落ちた。


 朝目覚めると、兄ちゃんが布団にくるまってすすり泣いていた。布団を撫でている母ちゃんが、疲れ切ったお婆さんみたいに見えてビックリした。

 父ちゃんは昨夜と変わらず怖い顔をして、階段を下へ降ろした。

 この時、一階から漂ってくる朝の匂いがことさら強いなと感じた。


「お兄ちゃん、もう大丈夫。辛かったねぇ」


 震える布団の山に母ちゃんがそう言うと、兄ちゃんのすすり泣きは号泣に変わった。

 

「うわぁぁーっ、タロぉ!」


 僕は急いで階段を下りようとした。兄ちゃんのそばに、子犬を連れて行ってあげようと思ったんだ。

 だけど、先に一階に下りていた父ちゃんが「来るな!」と怒鳴った。僕はビクリとして足を止めたけど……既に半分くらい階段を下りていた。

 父ちゃんが下から駆け上がって来て、大きな手を僕の顔に押しつけた。乱暴だったけど、これは目を塞いでくれたのだ、とすぐに分かった。

 だって、階段を降ろしたすぐ先に、引きずる様につけられた血の跡があったんだ。

 こういう時に限って、必要以上に色んなものが見えてしまうのは何故なんだろう。

 僕の脳裏には、足掻くようにつけられた血の跡や、小さな赤い足跡が乱れついている階下の様子が焼き付いてしまった。

 父ちゃんは、泣き出した僕の顔を片手で覆ったまま2階へ押し戻して言った。


「爺ちゃん、いまわ神社へ行って門守さんを呼んでくれ」

「わかった」

「婆ちゃんと母ちゃんは掃除だ。俺は……捨ててくるから」


 うわぁん、と、兄ちゃんが泣き喚いた。

 どうしたのー? なんて、起きてきた妹が兄の布団を撫でていた。



 それから兄ちゃんは、2階から下りてこなくなってしまった。

 母ちゃんがお菓子で誘ったりしてもダメ。父ちゃんが無理矢理抱え下ろしても、すぐに2階へ駆け上がってしまって、ダメだった。

 兄ちゃんは母ちゃんに食事を運んでもらい、あんなに嫌がっていた"おまる"を使った。

 それから僕と妹を酷く憎み始めて、それを庇う他の家族も憎み始めた。

 夜はネム様を欲しがり、僕と妹の分も奪おうとした。

 どんどんどんどん兄ちゃんは変わって行って、僕と妹が2階に上がって来るのを邪魔して押し返して来たり、通せんぼをするようになった。

 そしてとうとう、父ちゃんが夜に階段を降ろす邪魔をするようになったんだ。

 2階から階段を押さえ込む兄ちゃんに、大人達は必死で説得をしていた。だけど、兄ちゃんは獣みたいな笑い声を上げるばかりだった。

 父ちゃんが家の外から梯子をかけて、窓から2階へ上がり階段を降ろしてなかったら、僕達家族は1階で寝るところだった。

 兄ちゃんは悪びれずにネム様を欲しがった。

 父ちゃんは激怒していたけど、母ちゃんに「やれ」と言って、兄ちゃんがネム様を食べる事を許した。

 兄ちゃんはすぐに眠った。

 僕も騒動に興奮してしまっていたものの、すぐに眠った。

 瞼を閉じる前に、大人達が眠る兄ちゃんを囲うようにして項垂れて座るのが見えた。

  

―――ここまで来たら、もう駄目だ。

―――可哀相だが……。

―――オオオオ……オオオオオ~……。

―――良い子だったのに……。

 


 次の日の夕方、門守さんが兄ちゃんに白い着物を持ってやって来た。

 兄ちゃんは家族以外を憎んでいなかったから、2階まで上がってきた門守さんにお礼を言っていた。前の兄ちゃんみたいに。


「今夜はお泊まりさせていただくね」


 2階から下りて来た門守さんがそう言ったので、僕も妹もびっくりした。他所の人が家に泊まるなんて、今まで無かったからとてもワクワクした。

 夕飯は兄ちゃんの好物ばかりだった。

 だからなのか、皆で食事を2階に運び、久しぶりに兄ちゃんと一緒に夕飯を食べた。兄ちゃんは嫌そうだったけど、好物は美味そうに食べていた。

 それから19時を待たずに母ちゃんがネム様をたくさん持って現れた。

 門守さんへのおもてなしの為かと思ったら、今夜は家族皆で2階で食べるのよ、と教えてくれた。


「え、母ちゃん達もネム様を食べるの?」

「うん」

「父ちゃんも?」

「ああ。久しぶりだな……」


 爺ちゃん婆ちゃんの方を見ると、二人も頷いた。

 大人達は悲しそうな顔をしていた。

 皆で2階に上がると、兄ちゃんにネム様を食べさせた。


「たんとお上がり。もっと、もっと」


 母ちゃんがそう言って、兄ちゃんにネム様をどんどん渡していた。


「もう腹いっぱい。今日は、良い日だなー」


 兄ちゃんがそう言って、パタリと布団に倒れた。


「タロの夢、見れるかな」


 そう言ってすぐに寝息を立て始めた兄ちゃんの寝顔を、皆で覗き込んだ。

 寝顔だけは、前の兄ちゃんと同じだ。

 母ちゃんがその頬を優しく手で撫でていた。

 そんな母ちゃんへ、門守さんが兄ちゃんの髪を一房切って渡した。

 母ちゃんはそれを抱きしめて、唇を噛んでいた。数ヶ月でうんと増えた白髪が、束になって薄い肩を流れていた。

 父ちゃんが兄ちゃんを横抱きに抱き上げて、赤ん坊にするみたいに優しく揺すった。

 その光景から僕と妹を隔てる様に、門守さんがネム様を持って近づいて来た。


「さ、子供はネム様を食べてはやくねんねしなさい」

 

 僕と妹は門守さんの優しい笑顔に吸い寄せられる様に手を伸ばし、ネム様を受け取り、頬張った。いつもより甘くてうまかった。

 眠りに落ちる時、誰かの声が聞こえた。


―――ごめんな。


 多分、父ちゃんだと思う。



 それからいつもみたいに唐突に朝が来て、門守さんが一番最初に階段を下りた。

 朝の匂いは濃厚で、家族全員が「ウッ」と手で口を覆った。

 母ちゃんが正座をして、手を合わせた。

 爺ちゃんと婆ちゃんがそれに倣った。

 父ちゃんは、階下を呆然と見ていた。

 僕は実際には見ていないから音や気配で感じた予想になるけど、門守さんは階段を下りると玄関の戸を開けた。

 神社の神職さんや巫女さんが、ぞろぞろと家に入って来た。何故分かったかと言うと、彼らが一斉に祈りの声を上げ始めたからだ。

 巫女さんの一人が階段を上って来て、オニギリとお茶をくれた。

 便所は我慢を強いられて辛かった。妹はおまるを使った。

 大勢の祈りの声は、低くゆらゆらと揺らめきながら僕の家を巡り、居間の辺りで留まって結構長く続いた。

 それまで僕達は2階から下りる事を許されず、手を合わせて動かない大人達にぴったり寄り添っているしかなかった。

 誰も兄ちゃんがいない事を言い出さなかった。

 階下から聞こえて来る祈りを聞きながら、僕は目を閉じた。

 目の裏に、子犬の小さな血の足跡がパッと乱れ咲いていた。


 1階に下りる事を許されると、僕達は兄ちゃんと対面した。

 兄ちゃんは白い布をかけて、居間で眠っていた。

 なんでこんなところに、ってホッとしたのも束の間。兄ちゃんの腹から下は、布の膨らみがなく、真っ赤に濡れていた。

 妹が「わーん」と泣き出して、それから僕の記憶は曖昧だ。きっと僕も、「わーん」って泣いたんだと思う。

 だって良い兄ちゃんだったから。



 僕の村では、葬式の時に「いまわさん」という儀式をする。

 いまわさんをすると、死んだ人が時々幽霊になって蘇るって言われているんだ。

 兄ちゃんの葬式も、「いまわさん」をやった。

 父ちゃんが兄ちゃんに「いまわさん」をした。(何をしたのかは、父ちゃんの背中で僕からは見えなかった)

 すると、兄ちゃんがむくりと起き上がった。

 驚いて見ると、無くなっていた下半身を戻した兄ちゃんがいた。兄ちゃんは、変になる前の兄ちゃんの顔つきをして、驚いた様に父ちゃんを見上げていた。

 父ちゃんも母ちゃんも爺ちゃんも婆ちゃんも僕も妹も、兄ちゃんに抱きついて泣いた。

 

 これで元通りだと思った。

 今までの事が、夢だったのかもしれないと思った。

 みんなみんな喜んだ。村中で喜んでくれた。

 

 だけど、その夜。

 兄ちゃんは2階に上がらないと言った。

 

「え、どうして?」


 不思議がったのは僕と妹だけで、大人は兄ちゃんがそう言い出すのを分かっていたみたいだった。


「どうしても。母ちゃんや妹を頼んだぞ」


 兄ちゃんはそう言って、僕の頭を撫でた。


「2階にいる頃、酷い事言ってごめんな」

「……ううん。ねぇ、一緒に寝ないの?」

「うん。俺は幽霊だから」


 兄ちゃんはそう言って微笑むと、父ちゃん母ちゃんに向き直り頭を下げた。


「育ててくれてありがとう。親不孝してごめんなさい」


 父ちゃん母ちゃんは無言で、兄ちゃんを抱きしめていた。

 みんなが2階に上がり、階段をしまいきるまで、1階にいる兄ちゃんを見ていた。

 兄ちゃんはにこにこ笑って「おやすみなさい」と言った。


 朝起きると、いつもの朝の匂いがしなかった。

 とても静かで清らかで、爽やかな空気が凜と1階に漂っていた。だけど兄ちゃんはどこにもいなかった。



 それから数日後、僕達は村から引っ越す事になった。僕は嫌がったけど、大人達はさっさと引っ越しの準備を進めてしまった。妹に味方になるよう仕向けたが、妹は「どこのお家でもいい」と、冷淡だった。


「だって、どこのお家でも兄ちゃんはいないもん」


 妹の言葉に泣きそうになっていると、勇作がやって来てお気に入りの玩具と漫画を僕に贈ってくれた。


「寂しいよ、たまに遊びにこいよ」

「うん」

「なあ」

「ん?」

「お前の家の階段なんだけど……」

「あー……」


 僕は勇作が何を聞きたがっているのか分かって、苦笑した。

 勇作は、まだ階段を見たがっていたんだ。


「階段、外して壊しちゃったんだ」

「げー、なんだよーもう!」

「あはは」


 残念がってた勇作だけど、すぐにパッと顔を輝かせた。


「なぁ、だけどさ、面白くない?」

「なにが?」

「階段の無い家!」


 勇作は本当に困ったヤツだ。

 だけど僕達が引っ越した後、きっと勇作以外の子供達も面白がってやって来るのだろう。

 勇作や他の子供達は気づくかな?

 家の中を漂う、凜と清らかな空気に。



―――ねぇ、知ってる?

―――あの藪の中のボロ家、2階があるのに階段がないんだって。 

―――なんでだろうね?


おしまい

 

  


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夜に階段をしまう家【短編】 梨鳥 ふるり @sihohuuka

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