帰還

 数日ぶりに踏みしめたニューヨークの地は、ひどく懐かしい空気に感じられた。


 タクシーのシートに揺られながら、徐々に近づいてくるマンハッタンの摩天楼群を眺めていると、やっと帰ってきたのだという実感が湧いてくる。しかし、胸の内はとても晴れやかとはいいがたい。


 隣のシートを窺えば、シェリファもザジも一様に沈んだ面持ちで唇を引き結んでいる。初老のタクシードライバーまでが、ハンドルを繰りながらどこか気まずげだ。本当なら、こんな辛気くさいムードなんてどうってことないというように明るく砕いてくれるはずの声も、いまは聞こえてこない。


 空は青く澄み渡り、町は活気に満ちている。それらの景色すべてが、ひたすら空虚で薄っぺらいハリボテのように思われる。


 どうやらおれたち三人とも、あのジャングルの奥地になにか大切な、魂の一部とでも呼ぶべきものを置いてきてしまったらしい。


   *


 おれたちの監禁されていた建物は、水音から推察したとおり川岸に造られていた。


 監禁部屋にしかけられていた爆弾は建物を支える地面をも破壊し、おれたちから足場を奪って川面へと突き落とした。けっこうな高さからの転落だったが幸い川底は深く、なんとか近くの岩場まで泳ぎ着いたおれはすぐ隣にびしょ濡れのシェリファの姿を見つけた。


 さらにふたりで辺りを探索して、ちょうどザジとも合流できたタイミングでスコールがやってきた。手近な木の下で豪雨をしのぎながら、おれたちは今後の方針を相談した。


 ルナの所在は気がかりではあるが、侵入者の存在に浮き足立っているはずの麻薬工場の近辺にぐずぐず留まっているわけにはいかない。雨がやむと同時におれたちは行動を開始、これも幸いながら無事だった小型ジープに乗り込んで、来た道を戻っていった。


 町に帰ってきたおれたちは奇妙な情報を得た。なんでも、町の空港で搭乗口に入るルナらしき銀髪の少女が目撃されているのだという。


 おれたちは困惑で首を傾げた。ルナが空港に来られたということは、バルボッサ・ファミリーのもとから無事に脱せられたのだ。しかしそれならなぜ、ひとりで飛行機に乗ったのか。この町もバルボッサ・ファミリーの目が光っていて滞在し続けるのが危険だというのは確かだが、だからといっておれたちを残して町を発つというのは彼女の性格からは考えがたかった。あるいは、あの川岸の建物が爆発するのを彼女も見ていて、なかに監禁されていたおれたちが全員死んだと思い込んだのだろうか。


 ルナがどこに向かったのか、さらなる情報を集めたいところだが、町に滞在し続けるのが危険なのはおれたちも同じだった。川に落ちたときに三人とも所持していたスマホがお釈迦になってしまい、彼女に連絡を取る手段も失われた。完全に手詰まりな状況下、やがて苦渋に満ちた顔でシェリファが決断を下す。


 ――ニューヨークに戻りましょう。


 あいにくおれたちふたりとも、その決断を覆すだけの理屈も気力も持っていなかった。


 飛行機のシートに身をあずけ、窓から眼下に遠ざかっていくジャングルを眺める。青々と無限に広がるように思える密林は、多くの謎を抱えて固く黙している。


   *


 五番街裏手のアパートメントは、ひっそり閑とした静寂に包まれていた。

 足音も高く響く通路を抜けて、住み慣れた我が家の玄関口へ。ドアの鍵を開け、室内に足を踏み入れた瞬間、言いようのない懐かしいにおいが鼻先をかすめた気がした。


「……ルナ? 帰ってるのか」


 矢も楯もたまらず、おれは小走りで廊下を奥へ向かった。突き当たりのダイニングに顔をのぞかせるものの、人の気配はない。だが一方で、明らかな違和感が部屋には残されていた。


 ――もしかして、片づけられてる?


 テーブルの食器、ソファーに置きっぱなしの衣類やゲームのコントローラーなど、部屋を出発するときにそのままにしてきたはずの日常生活の痕跡がきれいに除去されている。まるで急な訪問客に備えて家のなかを整頓したかのようである。


「バスルームにはルナはいねぇぞ」

「わたしたちの寝室もよ。だけどなんか、少し掃除されてるみたい」


 結局、アパートメントの部屋のどこにもルナの姿は見つけられなかった。だが、室内のあちこちについさっきまで彼女がいた名残が散見される。南米を去った少女が一度ここにやってきたのは確かだった。


 こうして待っていれば、いまにも彼女が帰ってきそうな錯覚に襲われる。しかし、状況はあまり楽観視していられるものではない。ひととおり室内を見て回ったおれたち三人は、改めてダイニングテーブルの前に集まる。

 ものがすっかり片づけられてうら寂しくなった卓上に、ひとつだけ残された品がある。


「それ、わたしたちの寝室に飾ってあったやつだわ」


 シェリファが指摘するその品は、木目模様のフレームがかわいらしい写真立てだった。手に取ったおれはなかに収まった横長の写真に視線を落とす。


 いつだったか、すぐそこのセントラルパークでピクニックをしたときに撮られた一枚だ。スマホのカメラ機能を操作するルナの顔が手前にあり、うしろに三人の少年少女が写っている。

 ビールの缶を手に、艶然と微笑むシェリファ。その日の陽射しがなかなか強めだったと見えて、上半身が裸になったザジ。満面の笑顔を浮かべるルナのかたわらでそして、照れくさそうに笑っているおれがいる。平穏な日常に背を向けたはずのあの夜以来、こんな満ち足りた顔をする瞬間がおれにあったのだと思うと、なんだか信じられなかった。


「……なんだよ」


 写真立てを握るおれの手に力がこもった。


「なんでこんなものを、こんなところに置いてるんだ。これじゃまるで、まるで」


 ――まるで、遺影みたいじゃないか。


 そっと写真立てを卓上に戻すと、おもむろにおれは踵を返した。


「ちょ、ちょっと、どこ行くのヒデト」


 おれは玄関に向かいながら、振り返ることなくきびきびと答える。


「ルナの奴を追いかける。ふたりとも、ついてきてくれ」

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