子は授かりものと言いますが…

ayame@キス係コミカライズ

子は授かりものと言いますが…

 これは先日、1年ぶりに会った友人の叶子かなこの身に実際に起きたことだ。


 高校生の頃からのよき友人、叶子が1年前に結婚した。お相手はIT企業に勤めるプログラマーの男性。なんと叶子より10歳年下の30歳。恋愛ごとにあまり頓着しない叶子が突然結婚、しかも犯罪級の10歳も下がお相手とあって、友人一同は色めきたってあれやこれやと彼女を責め立て囃し立てた。何せ全員40歳のおばさん。ほぼ既婚者で、色恋沙汰とは無縁の生活を長らく送っている。


 実家の家業を手伝っているという叶子は時間の余裕もあるようで、旦那様とそれはそれはラブラブな生活を送っているのだとか。恋愛にはとんと疎かった彼女が結婚を決めた理由は旦那様からの猛アピールだったそう。なんでも仕事終わりには彼女のマンションにかかさず通い、外出先から戻ってきた彼女を手料理で出迎えていたらしい。それただのストーカーじゃんと突っ込んだ友人その1に、その場にいた全員が頷いた。大丈夫か、その旦那。心配はつきなかったが叶子が幸せそうなので、まぁいいかと祝福したものだ。


 そんな彼女から持ちかけられた、「結婚生活でちょっと不穏なことがあってね。会って話を聞いてほしいんだけど」との呼び出し。友人たちの中では唯一のパート勤務の私が一番融通がきくからこそのセレクションと思われた。もしや年下旦那くんと何かあったのかと、自分の旦那も中学生の息子もほったくって駆けつけてみたら、待ち合わせのカフェでにっこり微笑む彼女の姿。一見大きな問題はなさそうだとほっとしたのも束の間、その口から飛び出したのは想像をはるかに超える爆弾発言だった。


「旦那が浮気してね。相手の女に子どもができたんだって」


 ……あのぉ、叶子さん。そんな衝撃の事実を、なぜにそんな笑顔で言うかな? おかげで「ご愁傷様」というべきか「おめでとう」というべきか……ない頭を振り絞っても答えがでませんよ?






 ことの発端は1ヶ月ほど前。会社から戻ってきた旦那くんが叶子の前でいきなり土下座したそうな。


「ごめん! 俺、浮気しちゃったみたいだ」


 それを聞いた叶子はしばし沈黙した。しちゃった“みたい”ってなんだろう。


 それから床に頭を擦り付けたまま、叶子が何を言っても撫でても励ましても殴っても(殴ったんかい)頭を上げない旦那くんから聞き出した事実。


 端的に言うと「酔って会社の後輩とヤッちまった」らしい。


 飲み会の席で飲まされ前後不覚に陥った彼は何も覚えていなかったそうだが、気がつけばホテルの一室。隣には全裸の後輩ちゃん。そして自分も真っ裸。シーツやゴミ箱には何やらイタした跡。


 目を覚ました後輩ちゃんに「ごめん」とスライディング土下座して(土下座好きな旦那くんだな)、そのままシャワーも浴びず大慌てで着替えて逃げ出してきたらしい。


「その事実をね、隠してたの、あの人」


 幸か不幸か、その日叶子は仕事の都合で家にはおらず、旦那くんは朝帰りを追求されることを免れた。


 だが、事態はそう簡単には終わらなかった。たった1回のこの浮気で、くだんの後輩ちゃんは妊娠してしまったらしい。そして旦那くんに迫った。「あなたの子どもよ。私と結婚してくれるわよね」、と。


 旦那くんは涙ながらに断った。自分には愛する妻がいる、と。だがお相手は引かなかった。彼女いわく、旦那くんがかなり強引にホテルに連れ込んだ結果、あぁいうことになってしまった、もし結婚を拒むなら訴えてやる、と。それでも粘り強く説得を続けた旦那くん、最悪訴えられてもいい、会社をクビになってもいい、それでも妻と離婚はできない、と言い続けた結果、彼女はついに諦め、子どもを堕すことを承諾した。


「そしたらその後輩ちゃん、慰謝料を求めてきてね。1億円だってさ」

「1億!?」


 思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。叶子はというと、ミルクをかき混ぜながらくすくすと楽しそうに笑っている。


 自分ひとりではどうにも対処できなくなった旦那くんはついに叶子に土下座して謝罪し、「どうしたらいい?」と相談を持ちかけた。叶子は元来おおらかな性格だ。これと決めたら全力で取り組む努力家でもある。つまりはおおらかだけどばっさりやるときはやる女だ。


 いったい彼女がどう対処したのか、続きを待っていると、彼女はすっきりした顔でにっこり笑った。


「1億あれば子どもひとり育てられるでしょう? だから私言ったの。産んでもらいましょうって」

「はい?」


 なんだその返事。産んでもらいましょうって、そんな犬猫の子どもじゃあるまいし。


 驚く私をよそに、実に真剣だった彼女は計画を旦那くんに提案した。1億の慰謝料で子どもを中絶するより、1億払って育ててもらった方がずっと有意義だと。少子化に悩むお国を救うことにもなるじゃない、と。


 そして彼女は涙目の旦那くんの尻を叩き、なんとくだんの後輩ちゃんと対峙してその提案をした。提案を受けた彼女もまた目が点になったという。そりゃそうだろう。お相手が突然嫁を連れてきたことでも修羅場確定なのに、その嫁から「ぜひ産んで」とせがまれたのだから。


 驚く後輩ちゃんに彼女は言い放った。


「だって私、もう40じゃない? 今更子どもも望めないだろうなと思って。でもこの人はまだ若いから、子どもをつくるチャンスがあるのにもったいないって思っていたの。ほら、実際にそれを証明してくれたわけだし? この人の子どもなら絶対かわいいと思うのよね。男でも女でも優秀な子に育ちそうだし」


 ちなみに旦那くんは一流国立大の工学部を大学院まで修めている優秀な人だ。英語もぺらぺららしい。見てくれもすこぶるイケメンだから、叶子の言う通り遺伝子的には理想的な子に育つ可能性はある。まぁ、相手の女のスペック次第だけど。


 叶子の言い分を聞いた後輩ちゃんは一瞬ぽかんとしたものの、すぐにキッと睨みつけた。


「私、彼と結婚したいんです! 子どもを産むなら、彼と結婚することが条件です。そんな、子どもだけ寄越せだなんて、酷すぎる……!」

「あら、子どもを寄越せなんて言ってないわ。あなたが育ててくれて構わないのよ。私が育てる義理はないもの。でも、もしあなたが困っているなら手伝ってあげようかなと思っただけなのよ。実はうちの実家、産婦人科なの。“コウノトリ・ウィメンズクリニック”っていうんだけど、知らない?」

「え? それってもしかして、歌手のChiakiとかモデルのリリーとかが出産した、芸能人御用達の?」

「そうそう、彼女たち、よくインスタでうちのリトミッククラスの話とかポストしてくれるのよね。アフターケアの定期検診も通ってくれているし。私は医者にはならなかったけど、従兄弟が産婦人科医になって継いでくれたのよ。だからあなたが産むときは最優先で対応させるわよ? なんといっても大事な旦那くんの子どもを産んでくれる人だもの。もちろん出産後のケアもばっちり。Chiakiやリリーが参加しているラグジュアリーベイビークラスにも参加できるよう、取り計らうわよ」

「Chiakiやリリーと会えるの? それって彼女たちとママ友になれるってこと……!?」


 歓喜の声をあげそうになった後輩ちゃんは、しかし次の瞬間「しまった」というような表情を見せ、わざとらしい不満げな態度に戻った。


「でも私、産むなら望まれた状態で産みたいんです。婚外子なんて……」

「大丈夫よ。彼と結婚すればいいわ」


 言い放つ叶子の隣で、旦那くんが悲壮感漂う表情をし「俺は叶子と別れないぞ!」と叫んだそうだ。そんな彼を指先一本で黙らせ(何か秘孔を突いたらしい)、叶子は「心配ないわ」と重ねた。


「南米の奥地に重婚が可能な部族がいるの。彼にはそこの国籍を取ってもらうわ。昔私が留学してたときにそこの出身の人と友達になってね、今でもつながってるんだけど、今回のことを諸々相談したら二つ返事で了解してくれたわ。だから既に話は進んでいるのよ。ほら」


 そう言って叶子が後輩ちゃんに見せたのはスマホの画面。そこには見たこともない文字で綴られた書類が添付されていた。


「あ、◯σ×*$|語ってわかる? わからない? なら訳すわね。ほらここ、彼の国籍取得の準備が整った、あとはこの書類にサインしてくれればかまわないって書いてあるわ。さらにこの国の結婚証明書が2枚。第一夫人が私で、あなたが第二夫人ね」

「そ、そ、そんな……、国籍なんて、そんな簡単に手に入るはずないわ!?」

「えぇ、簡単ではなかったけれど、不可能じゃないわ。少々お高くついたけれどね。ほんの3億円」

「さ、3億!?」

「旦那くんとあなたとおなかの赤ちゃんの幸せのためなら安いものよ。ついでに私も旦那くんの子どもが見られてハッピーだし。何震えてるの? あ、第二夫人が嫌だった? 第一夫人がいいとか? 別にどっちでもいいわよ、私、寛大だから譲ってあげる」

「いえ、あの、私、やっぱり、奥様がいる方の子どもを産むなんて、気が引けるというか……あの、お金さえいただければ、なかったことにできますし」

「ええぇ! もったいない。産んで欲しいわ。旦那くんの子どもなら、実家のクリニック譲ってもいいなって思ってるのよ? 両親が経営していた頃は閑古鳥の鳴く潰れかけた病院だったけど、今じゃすっかり蘇って年商20億のグループ法人に成長したのよ? だけど跡を継ぐ人がいなくて……あ、産婦人科医の従兄弟はゲイだから、俺に後継は期待するなって言ってるの。彼もうちでがっつり稼いだあと、同性婚を認めてくれる国の市民権を買って恋人と移住したいんですって。そんなわけで年商20億を継ぐ人がいないから、その子が継いでくれたらすごく助かるなって思ったんだけど」

「この子が、年商20億の跡取り……」


 後輩ちゃんがごくりと唾を飲む。彼女が望んだ1億など、年商20億に比べれば端金だ。子どもが成人してから引退するまでの生涯年収と天秤にかけても考えるまでもない。


「コウノトリ・ウィメンズクリニックに、リトミック系の幼児教室の運営、赤ちゃん用品とアパレル事業、託児サービスやベビーシッター派遣業……少子化とはいえ共働き世代が増えているから需要は大きいし、新規事業展開も予定しているから、その子が成人するころには30億くらい突破しちゃうかも」


 指折りしながら事業数と数字を並べてみせれば、後輩ちゃんは興奮したように立ち上がった。


「私、産みます! 産んで、この子を病院の跡取りにしてみせます!」

「まぁうれしい!」


 叶子はぽん、と手を打った。そのまま手を伸ばして後輩ちゃんと握手する。


「そうと決まればさっそく診察を受けた方がいいわね。保険証は持っているかしら? 母子手帳はまだ申請してない? それは大変。役所の手続きがいるわね。それより何より先に院長をやっている従兄弟に連絡するからまずは診てもらいましょう。あと、出産にかかる費用は気にしないでね。それから、気を悪くされないでほしいのだけど、仕事は辞めてもらえるかしら? 通勤するのも大変だと思うし、おなかの子どもにもしものことがあったら困るし」

「はい、わかりました! 私、派遣なのですぐに辞められます!」

「そう、よかったわ。善は急げと言うし、今すぐ雇い元に連絡してくれる? 土日でも稼働しているんでしょう? 今の勤務先は今日はお休みだろうから、月曜にでも退職の意向を伝えてちょうだい。こういうのはあまりモタモタしない方がいいものね」

「わかりました!」


 そして後輩ちゃんは言われたとおり、その場で派遣会社に連絡した。電話先で何やら苦情を言われたようだが、「派遣先の社員の子どもを妊娠したので辞める」と告げると、あっさり通ったらしい。


 彼女が電話を切ったタイミングで、叶子はスマホを手にした。


「あぁ、従兄弟から返事がきたわ。残念、今日はもう予約でいっぱいなんですって。予定を調整するから、少し待ってもらってもいいかしら?」

「大丈夫です」

「じゃあ、今後の予定の確認ね。私はうちのクリニックの予約を入れる、あなたは働いている派遣先の会社に退職の意を伝える。クリニックの予約がとれたら彼から連絡させるわ。そうだ、あなたの住まいはどこ? ……アパート、一人暮らしなのね。えぇっ、セキュリティシステムはおろかオートロックすらないなんて! しかも駅から徒歩20分!? そんな不便なところに年商20億のうちの会社の跡取りを住まわせるわけにはいかないわ。待ってて、知り合いにタワーマンションを用意させるから。都心の一等地、家具付きだから今日からでも住めるわよ。古臭いアパートなんてさっさと解約してしまいなさい。明日引っ越し業者を手配するわ。今日中に本当に必要な物だけ荷物をまとめておいて。いらない荷物は置いていけばいいわ、こちらで処分するから。そうと決まればあなたのところの不動産屋にも退去の連絡ね」


 後輩ちゃんは言われるがままにその場でアパートの解約手続きまでとったそうな。そこまで手配した叶子は、秘孔を突かれたままだった旦那くんを叩き起こし、タクシーを捕まえさせ、運転士さんにお金を払って後輩ちゃんを自宅まで送るよう手配した。


 自分が寝ている間に何が起きて終わっていったのかさっぱりわからず、狐に摘まれたような様子の旦那くんの尻を叩いて、自分たちもその日は帰途についた。帰りながら、離婚や結婚の話が宙に浮いたままになっていることに旦那くんは気づいたようだが、賢明な彼はそれを黙って叶子に付き従っていたという。


 翌日、後輩ちゃんのすべての手配(退職願の受理とアパートの解約手続き)が終わっていることを確認した叶子は、仕事終わりの彼女を連れ、手配したタワマンに連れ帰った。引っ越し業者が彼女の数少ない荷物を運び入れたことを確認し、後輩ちゃんの夕食のために一流ホテルのケータリングサービスまでプレゼントしてやるなど、手厚いもてなしをした。


 そうして1ヶ月後。彼女が無事雇い元と派遣会社を退職し、アパートの解約期限を迎えた日、タワマンを訪れた叶子は「おめでとう」と後輩ちゃんに告げた。


「あの、ありがとうございます。叶子さんにはこんなによくしていただいて……。私、頑張って跡取りを産みますね」

「まぁ、頼もしいわ」

「そうだ、あの、コウノトリ・ウィメンズクリニックの予約って取れたんでしょうか」

「そうそう、伝えるのを忘れていたわ。明日はどうかしら」

「はい、大丈夫です」

「ごめんなさいね、本当はもっと早く予約を入れてあげたかったんだけど、跡取りをお迎えする準備に手間取っちゃったみたいで」

「よかった、そろそろ2ヶ月になるから、一度医者に診てもらいたかったんです。何せ初めての妊娠で、わからないことだらけですし。でも、跡取りを迎える準備って、気が早すぎませんか? まだこの子やっと2ヶ月ですよ?」


 くすくすと笑う後輩ちゃんに、叶子も笑顔で答えた。


「あら、とても大事なことよ。遺伝子チェックを疎かにはできないでしょう?」

「いでんし……チェック?」

「えぇそうよ。おなかの子どもの遺伝子チェック」

「あの、それってなんですか? あ、出生前診断ってやつ?」

「それもあるけど、うちの検査は“本当に親子かどうか”もチェックできるのよ。だって困るでしょう? おなかの子どもが本当の父親の子どもじゃなかったら。もし奥さんが浮気して、その相手の子どもだったなんてことになったら、大きな家では大問題よ。だから生まれる前にチェックができるような体制を整えているの。うちはセレブのお客様御用達のクリニックだから、その手の需要はいつだって高いわ」

「……そんな」


 青ざめて言葉を失う後輩ちゃんを眺めつつ、叶子は笑顔のまま告げた。


「だってうちの会社は、あなたとも旦那くんともなんの縁もないのよ? 私の実家だから。それを、旦那くんの子どもなら譲ってあげてもいいかなって思っただけで。だから旦那くんが本当の父親かどうか確かめさせてもらうのは必須じゃない? そもそもその前提が崩れてしまったら、なかった話になるわけだし」

「……私を信じてないんですか!?」

「まさか。信じてるわよ? だからこそこんな素敵なマンションまで紹介したのだし。でもまさかこの後に及んで旦那くんの子どもじゃない、なんて言わないわよね?」

「信じてるなら、そんな検査で試すようなことしないはずです! 信じてもらえないなんて、おなかの子がかわいそうだと思わないんですか!?」

「それは思わないわね。だって、私とはなんのつながりもないんだし」


 そう言い切れば、後輩ちゃんはますます顔色を悪くした。


「そもそも旦那くんの血が入っていたとしても、私にとっては赤の他人。……そうね、赤の他人なのよね、なのになんで私ったらこんなに一生懸命になっているのかしら。なんだか馬鹿らしくなってきたわ」

「それは……この子は会社の跡を継いでくれる存在だから、赤の他人なんかじゃありません」

「別にその子でなくても会社は継げるわ。私は一人っ子だけど、親戚は別に産婦人科医の彼だけじゃないし」

「そんな……今更ひどいです! 私、叶子さんのためにこの子を産んであげようって決めたのに」

「そうね、私、取り乱しちゃったわ。ごめんなさい」

「え?」

「旦那くんの子どもだからかわいがろうって決めたのに、少し混乱しちゃったみたい。いやだ、私もマタニティブルーになっちゃったのかしら」

「……」

「ところで、念のために確認するけれど……その子、旦那くんの子どもよね?」

「も、もちろんです」

「そう。まぁ、明日になればわかるわ。うちの検査は優秀なの。信頼度100パーセント。期待してね?」


 そして叶子は意気揚々とタワマンを後にした。





 その後どうなったかというと。


「後輩ちゃんの行方? 知らないわ。予約の時間になってもクリニックに現れなかったの」


カップに口をつけた彼女はにっこりと微笑む。住んでいたタワマンからもいつの間にか姿を消していたそうだ。2ヶ月分の家賃を未払いのまま。


「タワマンを準備するとは言ったけど家賃を払ってやるとは言ってないから」


 後輩ちゃんに月100万の家賃が払えるとは思えない。住んでいたアパートも自ら解約し(ということになっている)、派遣先も派遣元も自ら退職した(こちらもそういうことになっている)彼女がどうやって生きているのか、おなかの子どもがどうなったのか、誰も知らない。ちなみに後輩ちゃんが家賃を踏み倒したタワマンは、「知り合いの不動産屋に迷惑をかけてしまったから」と、その後叶子が買い取ったそうだ。さっそく賃貸で貸し出しているのですぐに元もとれるだろうとのこと。


 叶子と旦那くんが住まう超高級マンションはセキュリティも万全、コンシェルジュもいるというから、ただの元派遣社員が突撃したとしても門前払いだろう。また実家の産婦人科クリニックも芸能人御用達というだけあって、普段から監視カメラに警備員がずらりと揃った要塞のような造りだ。一般人が予約をとることも忍び入ることも不可能。こちらも手を出すことはできないときている。最後の砦となるは旦那くんの会社だが、旦那くんは後輩ちゃんと対峙した日から完全リモートの働き方に変えたそうな。「おそと怖い」と震えながら、籠城かと思えるほどマンションから一歩も出ない生活を送りつつ、通勤にかけていた時間を有意義に使って楽しげにスパダリぶりを発揮しているらしい。マンションにはジムやプールも完備だから健康面の心配もない。


 つまり、完全に後輩ちゃんの敗北というわけだ。


 妊娠させたという言い分の慰謝料として1億を請求されたが、叶子は当然払っていない。彼女が払ったのはタクシー代とケータリングサービス代、引っ越し代金のみ。ちなみに後輩ちゃんのいらなくなった荷物はリサイクルショップに持ち込んでいるので多少のタシにはなったとか。国籍の話は当然ハッタリ。しつこい虫をわずかな金で追い払ったことになる。


「よく後輩ちゃんの嘘だって見抜けたね」

「だってうちの旦那、私のこと溺愛してるし?」

「はいはい。ごちそうさま」

「そんな生温い目で見ないでよ。それに、旦那くんが浮気なんかできないって知ってるから」

「えらい信頼度じゃん」

「そうじゃないの。あの人、酔っぱらうとすぐに寝ちゃうの。そのまま朝までぐっすり。だから酔った勢いでイタすなんてこと絶対無理なのよ」


 叶子いわく、旦那くんはお酒にはめっぽう弱く、ちょっとの量でも飲めばすぐに眠ってしまい、叩いても水を被せても(被せたんかい)咥えても(おい)乗っかっても(……。)反応すらしないのだとか。だから後輩ちゃんと何かあったとは思えず、したがって妊娠は嘘、もし本当にしているならそれは別の男の子どもということだ、と。旦那くんの弱点がさらなる修羅場に発展するのを防いだようだ。


「ところで、本当なの? 信頼度100パーセントの遺伝子親子検査って」

「そんなの開発できたら年商20億にとどまっちゃいないわよ」

「だろうね」


 昔から大口叩く性格でもあった。でもすべてがはったりではない。


「私、絶対にこの病院を再建してみせる!」


 潰れかけた実家の病院を立て直すために、彼女は敢えて医師ではなく経営コンサルタントの道に進んだ。高校卒業間際のことだ。それから苦学を重ね、奨学金をとって留学し、海外でMBAを取得、外資系コンサル会社に入社してマネージャーまで上り詰める努力をし、念願叶ってついに独立。同時に実家の再建を始めた。死に物狂いで働いてきた彼女もふと気づけば40歳。恋愛やおしゃれを楽しむ暇もなく突っ走ってきた彼女が唯一心を休められる趣味、それがなんとライフル競技だった。留学先で友人に誘われたことがきっかけでハマってしまったらしい。


 的を狙う瞬間に完全なる無になる心地が、疲れきった脳や身体を解き放ってくれるようで気持ちいいのだと言った。常にフルスロットルで生きている彼女には、きっとそんな時間が必要だったのだろう。


 帰国してからも趣味サークルに所属して細々と競技を続けていたところに、学生時代のサバゲーの延長で射撃に興味を持った旦那くんが入会してきた。若いイケメンの登場に女性会員たちの一部は色めき立ったようだが、叶子にとってはいくら同好の士とはいえ10歳も下の男子。結婚や恋愛もそろそろ考えてみたいと思っていたとしてもさすがに範疇外だと思った。だからこそさくっと割り切って、変に自分をつくろうことなく素のままに彼に接していた。


 叶子は大口叩く性格だが、それに見合う努力も怠らない女だ。趣味だからと手を抜くこともなく一心入魂で競技に取り組む姿に見惚れてしまったという旦那くん。ちなみにプロポーズの言葉は「僕のハートを撃ち抜いた責任をとってください」で、叶子をドン引きさせた笑い話は記憶に新しい。ともあれ、典型的な理系男子である彼は出会い自体が少ないのも去ることながら、実は追われるよりも追いたいタイプだった。肉食女子は初めから興味がなかったのだ。


 だからこそそんな彼が、托卵を企む若さだけが取り柄のアホな後輩に靡くとは私も到底信じられなかった。そしてこの結果だ。


「で、旦那くんのことは許してあげたの?」

「まぁね。酔っ払ってお持ち帰りされちゃっただけだし。でも今後は外では禁酒かな」


 旦那くんは優秀なプログラマーでイケメン、また稼ぐ嫁・叶子のプレゼントをいつも身につけているだけあってセンスもよく、一見金回りもよさそうだ。それを例の後輩ちゃんはかぎとって目をつけたのだろう。奥さんが40すぎのババァというのも勝てる材料だと踏んだのかもしれない。


 だが、どう考えても相手が悪かった。叶子はこういう女だ。


「でも、私、ちょっと反省してるの。後輩ちゃんに対して」

「へぇ。どんなふうに?」

「妊娠2ヶ月目でネタバラシしちゃったでしょう? あと1ヶ月待ってやればよかったと思って。そうすれば中絶できない時期だしね。産むっていう選択肢しかとれないじゃない? 誰の子か知らないけど」


 そう、叶子はこういう女。絶対に敵に回してはいけない。能力のある女が権力も金も手にしたのだ。これ以上強い者が世の中にあるだろうか。


「でも、これでよかったのよね。変に禍根を残してこの子に何かあったら困るし」


 言いながらお腹に手を当てて微笑む。ホットミルクを一口飲んで、満足げに息をつく姿はとても穏やかだった。


「この子が跡を継いでも、そうじゃなくても、どうでもいいわ。ただ幸せになってくれたら、それだけで」

「あなたの子なら大丈夫よ」


 きっと強い子に育つだろう。叶子の鉄の意志と実行力を受け継いだイケメンか美人ちゃんを想像する。旦那くんは今から名前を決めるために唸りすぎて睡眠不足なのだとか。


「高齢出産だから、体には気をつけてね」

「わかってる、ありがとう」


 子は授かりものと言いますが、こうして幸せに迎えられる命、本当に尊い。どうかどの子も溢れるような幸せのもとに生まれてきますように。











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