第30話 ダウンジャケット
ふたりでいちばん小さなホールケーキをデパ地下の有名店で買って、少し贅沢をする。小さなロウソクを一本、ちょっと間抜けだけど駆け出しのわたしたちには丁度いい。
ノンアルコールワインで乾杯する。
「僕はニコとこれからも一緒にいたい」
「わたしも月丘にずっと一緒にいてほしい」
ふたりの気持ちが重なり合う。その願いは不思議と叶うような気になる。なんの保証もないけど。
「そうだ、実は僕にはニコに秘密があるんだ⋯⋯」
「秘密?」
まだあるのかよー、とげんなりする。この男は計り知れない。いくつの秘密を持っているんだろう?
彼は押し入れに向かうと、ごそごそとなにかを出してきた。それは見覚えのある黒い⋯⋯。
「あー! 黒のダウンジャケット」
「ニコと高田くんがお揃いで着てるのを見て、つい買ってしまった」
「つい、で買う? 嫌いだって散々言ってたのに」
「やぁでも今日みたいな日には軽くて暖かい。よく研究されている」
「じゃあこれで三人お揃いってわけ?」
「まぁそういうことになる」
なんだか判然としなかった。
第一、どうしてそこに慧人が入るのかが謎だった。ようやく追い出してきたのに、これではまた着る度に思い出してしまう!
「結構、似合うと思わないかい?」
「ダメ、ダメ、ダメ」
「やっぱり高田くんとの思い出が大事なんだね。わかる気はするけど寂しいよ」
「違ーう! わたしは月丘にダウンを着てほしいわけじゃないよ。月丘には月丘らしい落ち着いたコートを身につけてほしい」
「⋯⋯そうかな? 意外と似合う気がするんだが」
「ダメ! わたしももう着ないから!」
月丘はわたしをじっと見た。真意を探っているようだった。
一方、わたしは本気だった。そもそも『おじさんコート』の代わりに買ったものだし、もう着られなくてもいいんだ。嫌でも慧人と行った遊園地のことなんかを思い出してしまう。
「ニコ」
月丘は神妙な顔をした。
その先になにがあるのかわからなくて、ちょっと怖い。
「売ろう」
「え!?」
「始末してしまえばいい」
「それはちょっと⋯⋯」
「早速、まずはクリーニングに出そう」
「ちょっと待ってよ」
「あの忌々しいコートも一緒に売ってしまおう」
月丘の思考はわたしを置いてどんどん進んでしまう。わたしは置いていかれる。
「ちょっと待ってよ!」
大きな声が出て、ゆっくり息を吸う。
「勝手にどんどん大切なことを決めないで」
「でももう高田くんのことは」
「それとこれとは違うの! 確かに今の慧ちゃんとの縁は切れたけど、これまでの三年間はずっと慧ちゃんと一緒だったの。どんな思い出も慧ちゃんに繋がってて、わたしの過去は慧ちゃんでできてるの。その過去を全否定するなんて、わたしはできないよ!
月丘の前で『おじさんコート』はもう着ない。クローゼットの一番奥にしまっておくって約束する。でも、わたしからあのコートを取り上げないで」
「そうやってクローゼットの奥を見ては高田くんを思い出すのかい?」
「⋯⋯そうかも。でも思い出は消しゴムで消せないでしょう?そもそもあのコートには月丘との思い出もいっぱい詰まってるんだよ」
「それは確かに」
月丘は熟考モードに入った。
そんなにも気に入らないものなのかなぁと頭の隅っこで思う。確かにわたしでも気に入らないか、と諦める。月丘に元カノがいたとして、その思い出の写真一枚でも気に入らないかもしれない。
「約束して。もう着ないって」
「⋯⋯」
頑なだった月丘の急な豹変に一瞬、ついていけずに口を開いてしまった。でも口からは幸か不幸か、どんな言葉も出てこなかった。
わたしも月丘と同じように熟慮して答える。
「約束する。もう着ないよ」
子供でもないのに、ふたりの小指を絡めて指切りげんまんをした。
「ダウンはどうしたものか?」
「うーん、難しいところだけど、確かに動く時には重宝なんだよね」
「僕のコートはどうも機動性に欠けてね」
確かにロングコートは走ったりするのに向かない。だからこそ優美に見えるのだけど。
デニムパンツにダウンの月丘なんて想像もできなかった。夏でもTシャツの上に上質そうな麻のシャツやジャケットを着ているような男に、だ。
わたしの月丘は黒のロングコート一択な気がした。
「ニコ? どうしてそんなに難しい顔をしてる?」
「月丘ってTシャツだけで着たり、デニムパンツ履いたりする?」
「勿論するよ。僕をなんだと思ってるんだ」
月丘はニコニコ笑った。わたしの知らない月丘が早速出てきて面食らう。⋯⋯この男、一筋縄じゃいかない。
「海に行けばTシャツになるし、ドッグランに行く時はデニムパンツの方が相応しいじゃないか。相応しい場所で相応しい服を着るのは基本だろう?」
「えっ!? 海でもしかして泳ぐの?」
「プールでも泳ぐよ。この貧弱な身体を鍛えるために、たまに通ってるくらいだよ」
わたしの月丘像が崩壊していく音がした⋯⋯。
「夏になったらニコも一緒に海に行こう。別荘があるんだ」
ああ、やっぱりあるんだ⋯⋯。
「ニコはきっと水着も似合うだろうね。そうだ、お盆にはニコの実家にも少し顔を出そう。忘れられてしまうといけない。高田くんみたいにしょっちゅうご両親にお会いできないしね」
「⋯⋯忘れないと思うよ」
母さんが仰天するほどいい男を忘れるはずがない。父さんだって然り。
「夏か。浴衣も作ろう」
「作るの!? 買うんじゃなくて?」
「生地を買って仕立ててもらうんだよ」
「それってオーダーメイドじゃない?」
「オーダーメイド⋯⋯確かに和装はオーダーメイドと言えなくもないかな」
感覚が、庶民の感覚が失われてしまう! この人といると!
そこに旧式のブザーが鳴り響いた。
「はい」
月丘が慌てて立ち上がる。来客なんて珍しい、と思うとどうやら宅配便のようだった。「運び込みましょうか」なんて言ってる。ついにこたつを買ってしまったのかもしれない。
わたしは邪魔になるといけないと思って、部屋の隅の方へ移動した。
そこにやって来たのは、ふかふかの布団セットひと組だった!
「時間通りだったようだね」
「月丘! これって」
「⋯⋯その時が来るまで、泊まりに来ても大丈夫なように用意したんだよ。これはニコのための布団だ。誰にも貸すことはない。さて、リネンはニコの気に入るものにしようと思ってまだ買ってないんだ。二度手間だけど、デパートに行ってみようか」
「あの! 本気!?」
「僕には友人はほとんどいないけど、誰かが来た時には僕がニコの布団に寝るよ。勿論、女の子は来ないと約束する。二度とあんな想いはさせない。終電に間に合わなければタクシー代を出せばよかったんだよ」
まるで読めない。
元々、月丘の考えることは不思議なことが多かったけど、不思議が怒涛のように押し寄せてくる。
「では行こうか、マイ・レディ」
「ちょっと待って。上着きないと、ほら、雪がもう」
窓の外の景色は、すべてが綿で覆われたように真っ白だった。ふわふわと舞う天使の羽根は地上を白く染めていく。
「これは今晩、積もりそうだね。急いでリネンを揃えないと。時に、ニコ、今日は泊まっていけるかい?」
「⋯⋯はい」
特に勢いはない。月丘らしい滑らかさだけがそこにあった。
勢いと言えば、あの日、押し倒された時、ああいうことを言うのだと思っていたけれど、滑らかにステップを踏むこともあるのかもしれない、と考えて、頬が熱を帯びる。
やだなぁ、わたし、そればっかり考えてるみたいで!
慧人に相談したらきっと「その通りだろう?」と言われそうだ。
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