第16話 少なくとも今は

 それからの三日間は上の空だった。

 気が付くと目で月丘を追っている。月丘は友達と大声で笑い合ったりしないので、いつも静かで端正な横顔を眺め見る。

 月丘より後ろの席に座るのが定番になってしまった。


 その三日の間も有珠となにか進展があったんじゃないかと気が気じゃない。有珠ならホテルへ月丘を引きずり込みそうだったし、月丘だってそんな時にはただの男なのかもしれなかった。

 わたしは月丘を信用していた。

 それでものんびり待つことはできなかった。わたしの方が余程せっかちなのかもしれない。金曜日も土曜日も日曜日も嫌いになりそうだった。


 ◇


「ニコ、日曜日に遊園地行かない? ほら、絶叫系のヒャッハーっていう感じの」

「日曜日?」

「うん。チケット取れたから」

「日曜日?」

「行くだろう?」

「⋯⋯うん、行く」

 なんだよテンション低いな、と慧人は言った。お揃いの黒いダウンジャケットを着て、遊園地に行くんだと思うと憂鬱になった。その日が慧人と最後に出かける日になるのかもしれない。

 自分からすがっておいてそれはないんじゃないの、と何度も心の中で反復する。

「持ち物用意しないとな」と幼稚園の遠足のようなノリで、慧人は言った。


 ◇


 金曜日は無事に過ぎた。月丘から『元気にしてるかい?』とメッセージが来て飛び上がる。マメにスマホを弄るタイプの人ではない。わざわざこうして気にかけてくれていると思うと⋯⋯わたしたちの半年って何だったのかな、と考えた。

 出会いはあまり普通じゃなくて、それからも風変わりな友達関係をずっと続けてきて、その思いは恋愛に収束するなんて誰が想像しただろう?

 それともわたしの感情はただの執着で、恋愛ではない可能性もある。

 もしそうだとしたら、そうだとしても、月丘の隣にいるのは自分がいいと思う。月丘とふたりなら、どんな場所だって特別になる――。そんな男だ。


 土曜日は雲行きが怪しくなった。

 わたしがそうであるように、月丘も日曜日のデートに誘われたと話した。

 わたしたちは隠れるように、メッセージを送り合い、お互いの近況報告をした。

 わたしも遊園地に行くことを報告すると『気を付けて行っておいで』と月丘らしい、やさしくて少し残酷な返事がかえってきた。

 その日はなにもしたくなくなって、こたつで一日を過ごした。

『来週のためのレポート』を、遊園地に行くためにやるんだと言ったら慧人は納得して、お昼ご飯に炒飯を作ってくれた。その炒飯にはネギとウインナーしか入ってなくてわたしを笑わせた。

 三年もの間、こうやって笑いあってきた彼とお別れするのかと思うと、先日の時とは違った寂しさが込み上げてきた。

「慧ちゃんはわたしの何処がすきなの?」と尋ねると「今さら答えなんて必要ないでしょう」と言ってしきりに照れていた。かわいい人だなと思う。

 わたしは彼の三年間を奪ってしまった。こんな形で。

 愛してると思い、愛は重いと思った。重い愛は一度壊れたら修復不可能だったのかもしれない。

 或いは、月丘が魅力的だったからかもしれない。


 月丘から次のメッセージを待つ間、わたしは滑稽なことに乙女になる。小説に出てくるような。

 でももしかしたら日曜日に驚くような展開があって、わたしたちは自分の考えを改めることもあるかもしれない。だって相手は慧人だし。

 あの、コンビニの夜の思い出に比べたら、どんな思い出も霞んで見える気がした。だけど裏切られたという思いは簡単には消しゴムで消すことができなくて、抱かれている時にも嫌悪感をひっそり抱えていた。

 男の人はみんなそうなのかな、と思う。魅力的な女の子が自分になびいたら、すぐにでも抱きたくなるものなのかな? それともそれは女でも同じなのか?

 月丘に抱かれるというのはちょっと彼には悪いけど想像できなかった。考えただけで笑っちゃう。

 あの、女性に対しては小心者の彼がわたしを抱くなんて⋯⋯そんな未来がいつか来るのかわからない。けど心の準備は少しずつした方がいいのかもしれない。


『クリスマスのショッピングに行くことになったよ』とメッセージが来た。

 ふたりは手を繋いでショッピングモールの中を歩くんだ。そしてふたりはお互いのプレゼントを選ぶ。

 有珠の自慢げな顔を思い出して、嫉妬がむくむくと起き上がる。

 わたしは月丘とデートはしたことがない。ちょっとしたショッピング――例えば慧人へのプレゼントを選ぶ時なんかに付き合ってもらったことはあるけど、それだけ。

 そういう線引きはちゃんとしていて、思えば、月丘をすきにならない予防線を張っていたのはわたしだったのかもしれない。いつだって彼は魅力的でわたしの好みだったから。コートひとつ取っても。


 ◇


 お揃いの黒いダウンジャケットを着て、わたしは慧人と急行バスに乗った。遊園地まで乗り換えなしでビューンだ。行くとなったら段々楽しみになってきて、サイトで乗りたいものをチェックする。

 すぐ隣に座った慧人も覗き込んできて、「これは外せないよな」なんて言う。

 楽しくなるな、というのは難しい。

 慧人を嫌いになったわけじゃない。ただ、本上さんのことを含めてボタンのかけ違いのように向き合った気持ちがズレてしまった。いつでも考える。わたしより彼女みたいに大人しいタイプの方が好みなんじゃないかって。

 短い髪に触る。

 この髪が長かったら、もう少し自信が持てたかもしれないってバカなことばかり考える。

 疑い始めたらキリがない。

 しかも本当にだったし、拭い去れない気持ちがザラザラと心に残って消せなくなった。慧人の心の中にも拭い去れない本上さんがいるんじゃないかと、じゃれているときにも疑った。


 バスの中はカップルでいっぱいで、楽しい空気で満ちていた。わたしたちもその一部だった。

 それでも心の中では月丘からのメッセージを待ち続けていた。バカな女だ。


 遊園地には絶叫系の乗り物がいくつもあって、順番にそれをクリアしていく。山ほど高いジェットコースターの頂点に上った時にはさすがに怖さがワクワクの先に立った。富士山が、急降下して目の前から消えていく。

「うぉー、評判通りだったな!」

「⋯⋯すごかった」

「もう一回乗る? 乗ろうよ」

「うん、少し休んでからでいい?」

「⋯⋯ニコ、手、震えてるよ」

「怖かったもん」

 ふわっと包み込むように、まだ点灯していないツリーの下で慧人はわたしを抱きしめた。人前で、と思ったけど、みんな自分の相手しか見えてないようでわたしたちのことなんかお構いなしだった。

 ガクガクと震える身体は次第に温められて、心臓が落ち着いていく。

「ごめんな。ひとりで盛り上がっちゃって」

「いいんだよ。わたしも『乗る』って言ったし、楽しみにしてたんだから」

「なにか温かいもの買ってくる! そこを動くなよ」

 泣けちゃうくらいやさしい。

 最後の時にはスパッと厳しくしてくれたら、罪悪感も消えるのに⋯⋯。浮気されたと言っても三年に一度のことで、それくらいなら許してもいいのかもしれない。わたしの心が特別頑ななのかもしれない。

 向こうからホットドリンクを持って笑顔で走ってくる彼を見ていると、三年間の楽しかった思い出ばかりが浮かんでは消えて、メリーゴーランドの飾りのようにくるくると回転した。

 慧人の笑顔が眩しく見えた⋯⋯。


 ◇


 それからわたしたちは次々と絶叫系マシンを攻略して、飛び切り怖いと評判のお化け屋敷では腕を組んで歩いた。わたしも女の子だったようで「キャッ!」と言うと慧人が受け止めてくれる、普通のカップルの一組だった。


「そろそろ時間だね」

「約束してた観覧車に乗ろう」

 観覧車なら高くても怖くないだろう、と慧人は言った。とびきり甘かった。

「慧ちゃん、イルミネーションが」

「どんどんなんでも小さくなるなぁ」

 観覧車は大きさの分、とてもゆっくり回って、ふたりきりの時間を引き伸ばしていく。

「それで、ニコはもう決めちゃった? 今日、気が変わったりしなかった?」

「――え?」

「わかるよ、三年も付き合ったんだもん。やっぱり浮気がダメだったよなぁ。俺だって、あの男がいつでもニコの隣を歩いてるだけで許せなかったもん」

「そうなの? なら、一コマでも同じ講義を取ってくれたら良かったのに」

「ごめん。大学ってよくわかんなくて気が利かなかった」

 慧人は下を向いた。

 わたしも下を向いたので、イルミネーションは無意味になった。観覧車は時折、少しの風にも揺れた。


「あの男のところに行くの?」

「多分」

「多分ってなんだよ」

 わたしは有珠の話をした。今日、今頃、ふたりでいるであろうことを。

「そんなんでニコをしあわせにできるの?」

「しあわせになるの。多分だけど。一緒にいると安心できるの」

 自分の中の女の子メーターが上がっていく。まるで隣に月丘が座って微笑んでいるような気がして、心が、想いが、強くなっていく。

「⋯⋯すきなの」

「俺もだよ、仁美」

 わたしのおとがいにすっと手が伸びて、慧人は席を立った。観覧車が揺れる。彼は中腰のまま、わたしに深いキスをした。――名前で呼ばれることなんて、覚えてる限り一度もなかったのに。

「なんで今さら名前で呼ぶの?」

「さぁ、ニコの彼氏だからじゃないかな? 少なくとも今は」

 わたしは両手で顔を覆って泣いた。


 バスの中ではずっと遊び疲れて眠っていた。

 お互いにもたれかかって、手を恋人繋ぎにして。

 どこから見ても、仲のいいカップルに見えたに違いない。

 ――わたしたちは三年の付き合いに終止符を打った。

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