第12話 黄色い注意信号
慧人の思い出話は確かにわたしを揺さぶった。四年もの間、想われていたとは思いもよらなかった。
いつも皆の人気者だった慧人に『わたしは相応しくないんじゃないか』と逆にコンプレックスを抱いていたくらいだ。
男のプライドなんてものは知ったことではないけど、この人と永久にさよならしてしまっていいのかとわたしは躊躇した。情けないことに。
だけど女のプライドにかけて、許せることと許されないことがある。ほかの女を出来心とはいえ抱いたというのは許されることではない。
あの時、席に着いたふたりの雰囲気はまさに男女のそれだった。わたしと月丘とは違う――。
「高校の頃はさ、俺たち公認だったから安心してたんだ。みんなが俺を羨ましがったけど、誰もニコに手出しなかったし」
「わたしがかわいいなんて、どうかしてるよ、ほんと」
そんなことを言うのは月丘だけで十分だ。
「だけど大学に入って気が付いたら自分の彼女にいつも同じ男が張り付いてるなんてさ。ちょっと目を離した隙に」
「わたしは月丘のことを秘密にした覚えはないもの。不思議な男の話はリアタイでしてたけど、そっちがちゃんと聞いてなかっただけでしょう?」
「かもしれない。油断してたから」
スティックコーヒーの買い置きはなかった。
月丘のところみたいに、緑茶を何種類も揃えてたりもしなかった。
仕方がないので牛乳でココアをいれることにする。慧人にはどいてもらう。
「なんなんだ、あの男は」
「さぁ、わたしをすきだって言って、特別扱いしてくれる人」
「そんな危ない男と一緒になんてしてられないだろう?」
ドン、とわたしはこたつの天板を叩いた。ココアの表面が揺れる。慧人は面食らった。
「他人の男を寝とる女と一緒にいたくせになに言ってんのよ。もうやだ! これでわたしと別れることになっても、あの女とあのベッドで抱き合って眠るんでしょう? いいじゃない、それで!」
「もう二度とそんなことしない」
「したんじゃない、やっぱり」
「誘われただけだよ」
「どっちだっていいよ」
ズルズルッとリュックを引き摺って、すぐ出せるところに入れてあったスマホを取り出す。
慧人が慌ててそれを阻止しようとする。
わたしの手首をギュッと握る。
その番号は運悪く『お気に入り』に入っていた。
「月丘! 助けて」
慧人が赤い終話ボタンを押した時にはすべて終わっていた。スマホは喋らなくなったけど、伝えたいことのすべてを伝えてくれたから。
わたしはのろのろと立ち上がるとキッチンに布巾を取りに行った。ココアは見事に天板に水溜まりを残していたからだ。茶色い液体はなにも映さない。
「ここまで話したのにそれはないだろう!」
――慧人は怒って帰っていった。でも、合鍵を置いていくようなことはしなかった。
また来るのかな、と不安に思う。もう来ないかも、と不安に思う。どちらか一方の天秤が傾いているようには見えなかった。
◇
ピンポーンとわたしが心待ちにしていた呼び鈴が鳴る。急いでドアを開ける。そこには息を切らして走ってきた月丘がいた。
「このコートは走るにはあまり相応しくなくて」
「大丈夫、来てくれればそれでよかったの」
思わず、普通の女の子のようなことを言ってしまう。顔が熱くなるのを感じる。
自分のために走ってきてくれる男がいるというのは悪いものではないな、と思う。昔は慧人も走ってきてくれたものだけど。真冬でも吐く息を白くして、自転車を漕いで。
「⋯⋯来てくれればそれでよかったの。あ、お茶がないや」
「お茶なんてどうでもいい。欲しければうちに来ればいい。なにがあったの?」
「慧ちゃんがここに来て⋯⋯なんかぐだぐだ話して、どうしようもなく行き詰まった」
「それだけ?」
ドン、と押されて転んだことは伏せておいた。それは言ってしまえばDVで、そんなことを言ったら月丘は慧人を殴るかもしれない。
「それだけ?」
「⋯⋯中学の時からすきだったって言われて」
「随分、昔じゃないか。じゃあ何故、もっとニコを大事にしない?」
「さぁ、飽きたんじゃないのかなぁ⋯⋯」
慧人が主張してた月丘の存在の件も伏せておいた。わたしにはまだまだ月丘が必要だった。男女の仲じゃなくても、月丘にそばにいてもらうだけで安心感がぐーんと増した。
それは押し倒されても変わらなかった。
「抱きしめる?」
「よしておくよ。どうも僕には向いていないようだ」
「そんなことないよ。わたしは月丘の腕の中⋯⋯」
しっ、と月丘は言って、わたしの口の前に右手の人差し指を立てた。それ以上、一言も喋ってはいけないという合図だ。
「また押し倒してしまうといけないからね。これでも反省してるんだよ」
「月丘にも反省することがあるんだね」
「ああ、夜、布団に入ると反省会が開かれるよ。特にニコにとって、相応しい僕でいられたかどうか――。今日の僕は0点だ。ニコを押し倒すなんて愚行をどうしてしたものか」
「すきだからなんでしょう?」
月丘は珍しく頬を染めたように見えた。いつも「すきだ 」、「すきだ」と言ってくる割に純情な男だ。
わたしから視線を外してこう言う。
「ニコがすきだ」
「まだ友だちのままでもいい?」
「勿論だよ」
◇
その夜は遅くまで月丘にいてもらった。
月丘のロングコートはわたしのコートと一緒に、ハンガーラックに下げられた。コート同士が手を繋いでいるように見えて、遂に錯覚を見るようになったかと思う。
夕飯はコンビニでお弁当を買った。わたしは細々とおかずの入ったものを、月丘は一面に肉が乗ったものを選んだ。
牛丼といい、月丘も男の子なんだなぁと思う。それならいつもわたしと食べる食事はパンチが足りないんじゃないかと不安になる。
月丘はわたしにいつも隠れ家のような店を案内する。一見、民家のようなフレンチのお店はリーズナブルなお値段でとても美味しかったし、わたしたちの胃袋をギュッと掴んだ『四万十川』のうどんも、大学からほんの少し離れたところにあった。
わたしはすっかりそういうお姫様暮らしに慣れてしまっていたのかもしれない。
わたしこそ反省すべきなのかもしれない。
わたしたちはこうして半年以上を密接に共に過ごしてしまったんだ。
「どうして難しい顔をしてるのかな?」
「月丘との歴史を振り返ってたの」
「それはいい思い出?」
「いい思い出」
それなら良かった、と彼は言った。今日の彼はいつもよりリラックスして見えた。『友だちのハグ』のお陰かもしれなかった。
「月丘はさぁ、肉がすきなの?」
「魚もすきだけど、ひとりだと食べる機会に乏しい」
「ふぅん、じゃあ今度、干物でも焼いてあげる。今日のお礼」
「それは豪勢だな」
月丘の口元がふっと笑った。それだけでうれしくなる。干物はデパ地下で特別なものを買おうと決める。
「月丘、わたしが慧ちゃんと別れたら⋯⋯」
「ストップ。『たら・れば』の話は誠実ではないよ」
「そうかもね。今度から気を付ける」
夜空は街灯の明かりと薄曇りでこれっぽっちも星を見せてはくれない。ロマンティックさの欠片もなかった。確かに焼肉弁当にその要素はなかった。
だけど、月丘は月丘だというだけで価値が高かった。周りの女の子が虎視眈々と狙っているように。
本人はまったく気にも止めてなかったけれど、相変わらず月丘狙いの子はわたしに突進してきた。「友だち」と答えるとその子たちは月丘に突進した。その後、その子たちがどうなったのかわたしは知らないが、敵ばかりが増えているのは確かだ。
「手袋忘れてきちゃった」とわたしは姑息な手を使った。すると彼は上質な牛革の黒い手袋を外して「使いなさい」と言った。
ちぐはぐだった。心がほんの少し、離れてしまった気がした。そんなことはないはずなのに。
月丘の手袋にはまだ彼の温もりが残っていて⋯⋯その手を彼は、彼の黒いコートのポケットに招いてくれた。わたしたちの心は離れていなかった。
このまま月丘なしでは生きていけなくなったらどうしよう、と思うと少し怖かった。
右斜め上を見上げると、月丘も左斜め下を向いた。やさしい目をしていた。不覚にも胸がキュンと鳴った。ほかの女の子たちの気持ちが少しわかる気がしてきて、それはわたしたちの関係には悪い作用しか及ぼさないような気がした。
頭の中に黄色い注意信号が見える。
これ以上、この男を頼りにしてしまったら、わたしはなし崩し的にグズグズと傾いてしまうかもしれない。
それは不本意だったし、月丘に対しても失礼な気がした。
それに、まだ見ぬ月丘にピッタリの女の子がいるかもしれないと、寒さのせいか身震いした。ロマンティックさの欠片もないくしゃみが出て、彼をまた心配させた。
所詮、わたしなんてその程度の女だ。
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