第5話 やっぱり戻る

 アパートの外階段を上がると、わたしの部屋のドアにもたれかかるように慧人が立っていた。「ああ」と驚きも感動もなく思う。月丘の顔をちらっと見る。自然にわたしたちの手は離されていた。

「話があるんだけど、いい?」

 それじゃ僕はこれで、と足音を立てて月丘は階段を下りて行った。わたしは、ありがとう、と大きな声で言った。彼は振り返るとやさしく手を振った。


「邪魔した?」

「全然。病院に連れて行ってもらったの」

 ああ、と慧人も言った。便利な相槌だ。相手に圧迫感を与えない。

 慧人も持っているはずの鍵を、まるで見せつけるかのように取り出して音を立ててドアを開ける。先に入って待ってたらいいのに、と思うと胸がざわざわする。もしかすると鍵を返しに来たのかもしれない。だから律儀にドアの前で待ってたのかもしれない。

 部屋の中は外気に比べると幾分、暖かかった。アパートの両脇に部屋があることと、日中の日差しで温まったのかもしれない。こたつの電源を入れて、エアコンをつける。

 そうだ、うがい、手洗いを先にしないと月丘に怒られる。


「そんなに悪いの?」

「ん? 肺炎になりかけの喘息だってから、つまり喘息なんじゃないかな」

「肺炎?」

「だから喘息だって。驚きすぎ」

 と言いつつ、わたしも最初、診断を受けた時は驚いた。待合室にいた月丘に話すと、「早く連れて来てよかったよ」と安堵していた。そうか、一歩手前だから良い方だったんだ、と思うとわたしも安心した。彼はそれから処方箋が出るまでの心細い時間、ずっとそばにいてくれて、そっと寄りかかると知らないふりをして支えてくれた。月丘がいつもつけているグリーンノートのコロンが香った。


「あのさァ」

 わたしはお湯を電気ケトルで沸かしながら、それとなく話を聞いている振りをした。本当は内心、ビクビクしていた。こたつの上に合鍵が置かれる瞬間を、まな板の上で待っているような心持ちだった。

「俺、自信なくて」

「自信?」

「そう、自信。その……大学に入ってからもニコと今まで通りにやれると思ってたんだ。高校の時だってべったりずっと一緒にいるわけじゃなかったし、大学で知り合ったヤツらは同じこと目指してるだけあって気が合うヤツが多いし」

「経済?」

「そう。同じ公務員目指してるヤツとか」

 そこでケトルはカチッとお湯の沸騰を知らせ、わたしはそれを放っておいて彼の顔を見た。

「慧ちゃん、公務員になるの?」

「……つもりだけど。言ってなかったっけ?」

「聞いたかもしれないけど、知らなかった」

 知らないことは実はたくさんあるんだと思うと、じゃあなんでも知っていると思っていたこの人は誰なんだろう、とそわそわする。

 確かに慧人はいつでも前向きで、計画性のある人だったけれど、まさかそんな堅実な職業に就くことを希望していると思っていなかった。

 かと言って経済を学んだ人がほかに何になるのかは知らなかった。


「それで、仲のいいヤツらができてさ、グループができたんだ。そういうのは高校生の時と同じノリ。お互い、好きな子や気になる子や付き合ってる子の話をしたりさ」

「……付き合ってる子?」

 わたしは自分を指さした。間抜けな顔をしていたに違いない。

「そうだよ。わざわざ実家から離れた大学にふたりで来たんだって言ったらすごいからかわれたよ」

 そうだろうな。わたしだって言えばからかわれるに違いない。月丘はその話をした時、口を噤んだ。


 ただ、慧人とは学内で一緒に歩くことは滅多になかったし、月丘といることの方がずっと多い。以前、慧人と歩いているところを見られて「あの人は誰なの?」と聞かれて「彼氏」と答えたらほかの女の子たちに笑われてしまった。外の世界ではわたしの彼氏は月丘らしい。

 そういうことが元を正せば誤りの原因なんだろう。でも、わたしと月丘は『友人』に違いない。性別は違えど、わたしたちは正しく『友人』だ。月丘を女の子に置き換えてみればいい。ちょっと面倒見のいい女友だちになる。


「はっきり言わなかったかもしれないけど、もうあの男と一緒にいるの、やめてくれないかな?」

「……」

 わたしは出したばかりのふたつのマグカップを、とりあえず調理台に置いた。カタンと音がして、それはそこに位置どった。

「あのさ、わたしのこと信じられないってことなのかな?」

「違う。ちょっと違う。あの男が信用ならない」

 ふっ、と笑みが漏れる。なにを言っているんだ。彼がいなければわたしは大学での友人は皆無だと言える。わたしたちを遠巻きに見ている女の子たちは、決してわたしたちに近づかず一定の距離を置いている。

 そして月丘は紳士だ。確かに言葉で甘いことを言うこともあるけれど、月丘には悪いが慣れてしまったし。彼はそれ以上のところには決して踏み込んでこないし。

 月丘と離れなくてはならないことがわたしにとってどれだけ不利益なことか、そして彼は信用に値する男なんだということが慧斗には全然伝わってなかったんだとわかった――。


「あの、それ、違うよ。月丘はわたしを本気で好きなわけじゃないと思う。好きなら今みたいな関係を許すわけはないじゃない?」

 噛み砕くように言いながら、二本のスティックコーヒーをそれぞれのカップに入れる。さらさらと微細な粉がこぼれていく。

「あの男は変わってるよな。本当にそう思う」

「慧ちゃんだって変わってる。あんなかわいい女の子がそばにいて、わたしのところに戻ることにしたなんてさ」

 こぽこぽとお湯を注いで、そっとこたつに運んだ。部屋中にコーヒーの香ばしい匂いが漂う。まだ熱くて飲めないコーヒーを飲めるふりして、口元に寄せる。


 心の中は震えていた。

 わたしの方から仕掛けてしまった。


「……さっきのグループ、女子も何人かいて、その内のひとりの子のことじゃないかな?」

「かもね。見かけるのはいつもそのひとりだけだけど」

 今日に限ってマグカップがひどく重い。持ち上げる指先に力が入らない。揺れる水面をじっと見ている。

「あの子は、女の子たちの中でいちばん気が合うんだ。好みも似てるし。好きな音楽も映画も似てるんだよ」

 慧斗の説明はいつも以上に丹念で、言葉を選んでいるようだった。

 へえ、そうなんだ。わたしはそう相槌を打った。熱いコーヒーで良かった。まだ理性が保たれる。これが真夏で冷たい飲み物だったら真正面に座った彼にぶっかけていただろう。


「それでわたしと会った後、いつもその子と会ってたんだ。一緒に音楽聴いたり? 映画観たり? 嘘をついて一緒にランチに行ったりしたんだよね。しかも学外まで。わたしだってほとんど学外にランチに誘われたことなんかないのに」

「ニコは代わりにあの男と行ってたんじゃないのかよ」

「行ったよ! ――それがなに? 慧ちゃんはランチ、一緒にしてくれなくて、わたしにはひとりで食べろって言うの? もし慧ちゃんが本当に男友達と一緒だったんだとしても、こんな風に毎日過ごすために同じ大学に来たんじゃない! これじゃ、ほかの女の顔見ないで済むだけ別の大学に行けばよかったよ!」


 喉の奥はゼイゼイした。

 思いっきり大きな声を出すものじゃないっていうことだ。胸の奥がやたら熱かった。それは物質的なのか、精神的なものなのか。

 わたしたちは寄り添うために離れずに暮らして、お互いを遠目に見て生活している。

「友だちだよ、本当に。確かに映画観たりしたけど、俺の部屋に上げてない」

 そこかよ。そんなことを聞きたいわけじゃない。

 片付けの下手な慧斗の部屋に行くより、彼女の部屋の方がふたりでいるのに、余程過ごしやすかったんじゃなくて?

「……一線も越えてないよ。誓って」

 そう言った彼の目はカップの中のコーヒーを見ていた。わたしと同じくらい項垂うなだれていた。こういう面倒なのは嫌いだ。仲直り、してしまった方がずっといい。ずっと気持ちがいい。




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