第2話 お互いを思う気持ちの量

『夕飯、一緒に食べよう。そっちに行くよ』

 そのメッセージを見て足が止まる。月丘も一緒に止まる。隣からわたしのスマホを覗いている。

「どうしたの? なかなか一緒にいられないのがいつも不満だったのでは?」

「人の家を二十四時間営業のファミレスと間違えてるんだよ、きっと」

「二十四時間一緒にいたいのはニコの方でしょう?」

 くくっと、月丘は人の悪そうな声で笑った。反論できなくて歯噛みをする。

「昨日も今日も生活を共にして、さながら夫婦みたいなものだね」

「夫婦ではないけど、三年も付き合っていれば『空気』なのかもね。都合よくあしらわれてるというか」

「そう思うの?」

「……だって、会ってない時になにをしているかなんてわからないじゃない?」

「ニコも僕といるしね」

 それには答えなかった。


「せっかく同じ大学に進学したのに、学部、学科が違ったら全然一緒にいられないなんて知らなかったよ」

「それはどうかな。明らかに同じ学部じゃなくても構内のあちこちで約束して会っているカップルをたくさん見るけれども。君たちが例外なのでは?」


 親睦会のあと、月丘は隙を見てはわたしに話しかけてきた。迷惑とまで言う気はなかったけれど、始めのうちは『月丘くんが出没する』わたしの周りにいた女の子たちも、月丘がマメにコミュニケーションを取らなかったせいで散開していった。

月丘の興味はクラスのほかの誰でもないわたしにしかないらしかった。しかも悪いことにそれは自惚れではないようだった。

 わたしも始めのうちはそれに慣れなくて逃げ出したい一心だったけれど、ほかの女の子たちにも捨てられ、そしてなにより理由もなくやさしくて意外と無害な月丘に心を許してしまったわけだ。


月丘とは頭を突合せて綿密に時間割を練った。高校と違って、大学の時間割りは組み立てが難しい。その頃はまだ女の子の友達もいたんだけど、月丘はシレッと「組み方がよくわからないんだ」とわたしがひとりの時を狙ってやって来たからだ。

 そんなわけでわたしたちの時間割りは似通ったものになり、本当に四六時中、一緒の関係になってしまった。

「遅れるよ」

「はぁい」

 さっとわたしのカバンを横から攫って大股で歩く月丘の後ろ姿を追う。この人の真意はどこにあるんだろう? それでもわたしは月丘を疑う気にはなれない。結局、月丘という人間が好きなのだ。それが間違いのない事実だ。



 楽チンなのはいつだってカレーライスに違いないので、豚コマを二百グラムとジャガイモとニンジン、カレールーを買う。

 部屋には玉ねぎの残りとトマトの水煮缶があったはずだ。あれを入れるとトマトの旨味でいつものカレールーがワンランク上になる。

 手早く買い物を済ませて部屋に帰る。

 冬の帰り道は五時を過ぎるともう暗い。

 首元の橙色と茶色のチェックのストールをきっちり合わせる。手袋を忘れた。重い根菜の入ったレジ袋が手にくい込む。


 慧人けいととは中学時代に塾で知り合った。高校受験に向けて親に送り込まれた塾が一緒だった。違う中学だったので、わたしは全然彼のことを知らなかった。

 ある日、忘れ物をしてあわてて教室に戻るとそこに慧人がいた。お互い、目が合った。知らないもの同士なので言葉はなかった。机の中に置き忘れていたテキストをさっとカバンにしまうと、慧人が突然口を開いた。

「どこまで帰るの? 少し、送ろうか。女の子ひとりだと……」

 その先は言葉にならないようだった。真っ赤になって俯くほどがんばって言ってくれたのかな、と思うと断りづらかった。なんと言っても思春期だ。男の子と一緒に帰ることに抵抗を感じた。


「あの、交差点渡ったところのローソンまで親が迎えに来てくれるから」

 じゃあそこまで送るよ、とさっと顔を上げて早口で彼は言った。それくらいの距離なら、多少の気まずさは誤魔化せるかもしれないと思う。

 教室を出る時に並ぶと、わたしたちの身長はほぼ同じだった。わたしは当時すでに百六十五センチあって、慧人もそれを数センチ越えるくらいだった。ますます気まずさを感じる。つい、半歩後ろを歩いてしまう。

「川原さんてさ、『ニコ』って呼ばれてるでしょう? 本名なの?」

「ううん。本名は『じん』という字に『美しい』で『仁美ひとみ』って言うの。それで……」

「なるほど、それで『ニコ』なんだ」

 うん、と頷くと顔が上げられなかった。そんな個人的なことを聞かれると思っていなかったからだ。吐く息が白くて、肌に冬の夜の空気がピリピリした。


 次に慧人に会ったのは高校二年。クラス替えがあって、一年から仲のいい女の子たちと同じクラスになったことを喜び合って、ホームルームは終わった。じゃあね、とリュックを背負って帰ろうとすると呼び止められた。

「川原。久しぶり」

 誰に声をかけられたのかわからなかった。校庭からの風がふわっと開け放した窓からカーテンを揺らした。穏やかな一日だった。

「ごめんなさい」

「あ、覚えてないか。塾が一緒だったんだよ、俺は高田慧人たかだけいと。そっか、覚えてなかったか」

 隣に立った彼の身長は百七十を超えていた。あ、と思い出す。身長が変わったけれど、隣に立った時の感覚は同じだった。ふわっとした春の風の中に、ぴりっとした冬の空気を感じた。

「あの時は送ってくれてありがとう……」

「送ったなんて距離じゃなかったよ」

「でも、助かったし」

 忘れられない出来事だったし。

「『ニコ』って、呼んでもいい?」



 ドアの向こうに人の気配がして、先に来ていたのかと鍵を開ける。

「ただいまぁ」

「ごめん、俺、今日、昼飯食べ損ねちゃって」

 カレーを振る舞うはずだった彼は、わたしが非常食として取ってあったしょうゆ味のカップヌードルをフォークで無断で食べたあとだった。こたつの上は何ひとつ片されずにバッチリその痕跡が残されている。

 彼はスマホでなにかをしながら、わたしのスティックコーヒーを勝手に飲んでいた。

「信じらんない。寒い中、買い物までしてきたのにさぁ」

「いや、ほんとごめん。待てなくって」

 スマホのディスプレイをオフにして慧人はそれを自分のカバンに投げた。

 わたしは買ってきたものを仕方なく片付けた。肉以外は腐るものじゃなかったのが救いだ。


「あー、俺、悪いんだけどそろそろ帰る。ニコが帰るまでは待ってようと思ったんだ」

「夕飯の件なら許すからいいよ」

「そうじゃなくて早く帰らないと」

「と?」

「ごめん! 昨日のレポート、本当はまだなんだ」

 プツッとこめかみの辺りのなにかが切れた。まさにうちは彼のための冷蔵庫だ。ずーっとこのところ夕食前でさよならで、久しぶりに約束した夕食は反故にされる。このところのこの行動はなんなんだ? 入学した頃は一緒に小洒落た店のランチにも行ったのに。


「ねえ、どうなっちゃってんの? わたしと一緒にいられないの? 同じレポートじゃないけど一緒にやろうよ。明日も、明後日も、ここで狭いなら図書館だっていいじゃない。わたしは慧ちゃんと一緒に」

「やめようよ、そういうの。やっぱり勉強っていうのは個人でやるものでしょう。『一緒に』とかって非効率的じゃない?」

「なんでそうなんの? 高校の時は一緒にテスト勉強したじゃない!」


 徒に大きな声を上げたわたしに、慧人は突然キスをした。それはわたしを黙らせるには十分だった。

 唇が離れてため息をつく。

 毎日会っているのに、こういうのは久しぶりだった。

 泊まっていった朝も確かに「おはよう」のキスはするけれど、それはまだ寝ぼけ眼で意識が飛んでる時のことだったし、こういう時間に求められるのは久しぶりだった。

「それは高校の時の話だろう? 一緒の大学に入ろうって決めてからがんばったよな」

 こてん、とあまり背の変わらない慧人の肩に頭をぶつける。そうだ、ずっと一緒にいたいねって話し合って、一緒に進めそうな大学を目指して勉強したんだ、いっぱい。

 それはお互いを思う気持ちの量と比例していると思っていいのかもしれない。

 なら今は? 未来は見えない。


「ニコ、今日、あの男とベンチで寒い中座ってただろう?」

「見てたの?」

「学食に行く時間が遅れてたまたま」

「黙って見てるなんて趣味、悪いよ」

「ほかの男と一緒にいるお前もな」

 彼は自分のストライプのマフラーを無造作に首に巻くと、黒のダウンコートをさっと羽織った。白い細かい羽毛が舞ったような錯覚に陥る。残念ながらダウンはわたしの守備範囲外だった。彼の足元の靴下の白さが目に入る。あれは、わたしの部屋のこたつの中から発見して、週末、わたしが洗濯した靴下だ。


 結局、慧人が帰ってから自分のためのカレーを作る。鍋から炒めた豚肉のいい香りが上がる。ごろごろっと野菜を鍋に転がす。

 なにが知らないところで起こっているのか、まったく気がついていないわけじゃなかった。そこまで鈍感になれたらいいのに、と思う。

 わたしはそれほど鈍感ではなかった。

 わたしが月丘とベンチにいるのを見た時、慧人の隣にいたのが誰なのか、そのあてがあった。

 わたしこそ見たのだ。別の日に。二人が仲良く学食でランチを取っているところを。向かい合って、笑顔で。笑い声まで聞こえてきそうだった。苦しかった。ふたりは友達でしかなかったのかもしれない。それでも――。








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