第1話「聖獣」(1)

「畜生……魔物アルカナを直接解剖できれば……。」


 俺は解剖台に向かい、小さな動物の死体を前にしてメスを握っていた。視線をノートに落とし、手を動かす。ペンが紙を滑る音だけが部屋に響く。何か突破口があると信じて、この作業を繰り返している。


 魔物とは――アルカナコアという魔力の核を持ち、その力で毒瘴を生み出し、環境や生物に深刻な被害を及ぼす生物。彼らの生態を解明できれば、解毒剤や治療法の開発に繋がるかもしれない。


 しかし、魔物を解剖することは許されていない。宗教的には『聖獣』と呼称され、神の遣いとされている。そのため、特別な理由がない限り、聖獣に触れるだけでも禁忌とされており、社会的にも「異端者」として厳しく排除される危険がある。


 俺が手元の毒瘴に犯された動物を解剖しているのは、魔物と構造が似通っている部分を研究し、少しでもその謎を解明する手がかりを得るためだ。


 ちなみに毒瘴とは、魔物特有の瘴気のこと。空気を汚染し、生き物の体内に侵入すると組織を腐敗もしくはさせる。その猛毒は医療技術でも解明が進んでおらず、解毒剤の開発は極めて困難とされている。アイシャの身体を蝕んでいるのも、この毒瘴の影響だった。


 俺は手袋越しに血の感触を感じながら、臓器を丁寧に調べる。この作業を始めてどれくらい経っただろうか。時間の感覚が薄れていく中、ふと苛立ちが胸をよぎる。


「……どうすれば、アイシャに効く解毒剤を作れる……。」


 ノートに記録をつけながら、俺は重く息を吐いた。解剖は進んでいるが、目の前の魔物の臓器から得られる情報は限られている。魔法で治せれば簡単だ。でも、俺たちにはその魔法を使う力なんてない。


「魔法が使えれば……いや、たとえ使えたとしても、こんな複雑な毒を解くには高位の魔導師に頼むしかない。でも、それには莫大な金が必要だ……」


 額に手を当てて、悔しさを押し殺すように呟いた。そんな金なんて、俺たちにはどうやったって用意できない。


「お兄ちゃん! いつまでそこにいるの! 早く来てよ!」


 遠くからアイシャの声が響く。その無邪気な声に、俺ははっとして手を止めた。作業用の手袋を外し、ノートを閉じる。


「分かった、待ってろ。……よし、あと少しで終わる……」


 手早く道具を片付けながら、ふと壁に立てかけてある古びた薬草学の本に目を向ける。アイシャが病気になった頃、これが俺の頼みの綱だった。だが、魔物の毒瘴には歯が立たない。


「こんなことで諦められるか……」と心の中で呟き、ノートに最後の記録を書き込む。「最後の可能性、毒には毒を――」


「ねー!おにーちゃーーん、庭に来てよ! 今日もいい感じに育ってるんだから!」


 俺は苦笑しながら、肩をすくめた。


「少し休憩するか……。」


 作業場を片付け終え、錆びついた扉を開けると、彼女が庭で笑顔を浮かべながら手を振っていた。


 俺たちは金も権力もない。ただ、この限られた環境でやれることをやるしかない――。





 


 庭に出ると、夕日の光が薬草を優しく包んでいた。その中央で、アイシャがしゃがみ込み、薬草を手に取って微笑んでいる。


「見て、お兄ちゃん! 今日もいい感じに育ってるでしょ?」


「お前は村の誰よりも薬草を育てるのが上手だな。」


「えへへ、それはお兄ちゃんがちゃんと教えてくれたからだよ。」


「俺が教えた? お前が根気よく世話してるからだろ。」


「でしょ! 毎日お水あげて、ちゃんと手入れしてるもん。」


 彼女が手に取っているのは、青白い花を咲かせた「リフレリア草」だった。熱を下げ、毒瘴による軽度の症状を和らげる効果がある。辺境の村では貴重な薬草だ。


「お前が育てた薬草が、村のみんなを助けてる。お前がいなきゃ、この村の解熱薬だって足りなくなってしまうだろうな。」


 俺の言葉に、アイシャは頬を赤くして笑った。


「そんな大げさなこと言わないでよ。私はただ、好きでやってるだけだもん。」


 その声は穏やかだったが、俺は知っている。アイシャにとってこの庭はただの趣味なんかじゃない。彼女の生きがいであり、俺たち兄妹が生き延びるための最後の砦なのだ。

 

 アイシャが嬉しそうに笑う。その笑顔を見るたびに、俺は胸の奥が暖かくなると同時に、不安が少しずつ広がっていく。

 

「……うっ」

 

 アイシャが顔を上げ、ふと手を胸に当てる。その瞬間、表情が曇ったのを俺は見逃さなかった。


「大丈夫か、アイシャ――」


「……ううん、なんでもないよ。ちょっと疲れただけ。」


「お前、無理してるんじゃないか? 最近調子悪そうだぞ。」


「平気だって! ほら、こうして薬草の世話をしてると元気になるんだから。」


 俺はその言葉を信じたくなったが、心の奥に小さな不安が根を張るのを感じていた。


「この庭だけじゃ、もうアイシャを支えきれないかもしれない……。」俺は心の中で呟く。




 

「おいおいおい!たったこれだけ?」

 

 翌日、俺はアイシャの代わりに育てた薬草を商人に売りに行った。


「ふん、こんな辺境の薬草、品質の保証なんてできやしないからな。」


「なんだって! 質は悪くないはずだ。前回も同じものを納めただろ? せめて前回と同じ価格をつけろ。」


 商人は鼻で笑い、俺を値踏みするような目で見下ろす。


魔無しまなしが贅沢を言うな。買ってやるだけありがたいと思え。」


 ――。この言葉は俺たちのような、魔法を扱えない人間を指す侮蔑の言葉だ。浮遊島アルト・レムリアでは、魔法が力の象徴であり、魔法を使えない者は社会の底辺に押し込められる。


 俺たちはこの島の「下層民」として、ただ生き延びるだけの生活を強いられている。無能力者に生まれた瞬間から、それが俺たちの「現実」だ。


「こんなドブみたいな辺境で育てた薬草が、どれだけ役立つと思ってるんだ? 毒瘴で汚染されてるかもしれないだろう。」


 商人の言葉に、俺のこぶしが震える。だが、魔無しが上層の貴族やその取り巻きに逆らえば、どうなるかくらいは知っている。


 俺たちが住む辺境は、浮遊島の中でも最も遠く、最も地上に近く、最も貧しい地域。常に毒瘴に覆われており、魔物の脅威が絶えず、上層社会から見放された場所だ。


 俺は絞り出すように言った。


「……この薬草がどれだけの手間で育てられてるか、お前に分かるのか?」


「手間だと? お前みたいな下層民の手間なんて、上層には関係ないんだよ。」


 だが、商人は冷たく笑い返すだけだった。その態度に腹が立つが、俺には交渉を続ける力がなかった。俺は押し黙り、商人に薬草を差し出す。


 「こんな連中に頼るしかないなんて……。」


 俺は歯を食いしばりながら、薬草が商人の荷車に積まれる様子を見つめていた。

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