第24話 クラウスという男について(一)
ルーチェの言葉にクラウスは目を見開いた。
「……思い出したんだ?」
「少し前に、貴方に似ている人だとは思っていたの。……でも」
「救護院で世話になるような貧民と、同一人物か聞けるわけがないか」
ましてや相手は、成金貴族。
一般的な貴族令嬢なら、聞けるわけがないと、クラウスはすぐさま納得した。
けれどもルーチェは、それもあるけれどと言葉を続ける。
「もし、もし貴方があの人と同一人物であったとしても。やっぱり私を選ぶ理由がわからなかったの。貴方が、私に優しくしてくれる理由が、わからなくて……」
どうしてここまでしてくれるの。
その疑問に答えるには、クラウスが愚か者であった時のことも話さなければならない。
ジッと、クラウスの言葉を待つルーチェの瞳を見詰めた。
彼女はいつも俯いていて、耐え忍んでいる人だった。でもそれだけではないことを、クラウスは知っている。
優しい人なのだ。
だからこそクラウスは、ルーチェに幸せになってほしかった。
自分の手で、幸せにしたかった。
「ルーチェ、聞いてくれるかい?」
「……ええ、もちろんよ」
その言葉に促されるように、クラウスは自身のことを、話し始めたのだった。
クラウスには、金がある。
それも莫大な、有り余るほどの金。
誰もが羨ましがる豪邸に住み、良い服を着て、良い酒を飲む。望めば何だって買えるくらいの金だ。
その金は、ほんの少しの幸運から手に入れただけに過ぎない。
祖父であるバルト伯爵とクラウスは、実のところ血縁関係はなかった。
街の、それも治安の悪い裏通りで具合が悪くなって動けなくなっているところを、たまたま通りかかったクラウスが助けたのだ。そのお礼に、バルト伯爵は莫大な財産をクラウスに贈与したのである。
真実を知れば、誰もがクラウスの幸運を羨むだろう。
だがクラウスは、最初はその幸運を拒絶した。金があっても、クラウスが失ったものは二度と戻らないからだ。
***
クラウスは貧民街と呼ばれる、日雇い労働者が集まる集落で生まれ育った。物心ついた時から父がおらず、母が一人で朝から晩まで、それこそ寝る間を惜しんで働いて、クラウスを育てたのだ。
母がどういった経緯でそんな場所に辿り着いたかは知らない。知っているのは、クラウスのことを身を削ってまで愛してくれた、という事実だけだった。
日雇いの労働しかできなかったから、その日の食事にも満足に食べられないくらい貧しかった。そんな時でも母は、自分の食べる分をクラウスに分け与え、お腹いっぱい食べなさいねと微笑むばかり。服は新しいものなんて買えるわけもなく、近隣の家の住人が着られなくなったボロ布同然のそれを、頭を下げて貰い受け、繕って着ていた。
同じ貧民街の子供でも、両親が揃っている家の方がわずかばかり裕福だ。クラウスは自分より良いものを食べて、良い服を着ている子供が羨ましくて仕方がなかった。だから幼い頃は何度も母に、どうしてうちには父親がいないのかと問い詰めていた。
母は眉を寄せて悲しそうな顔で、ごめんねとしか言わなかったけれど。
そんな母を見ているのが嫌で。
いつしかクラウスは、母の存在を煩わしく感じるようになった。
貧民街にある私塾のような場所に、クラウスの母は通わせてくれた。読み書きや計算は出来た方が良いからと、深夜と早朝の仕事を増やしてまで費用を捻出してくれたのに。
クラウスは親不孝にも、その場所で悪い友人たちと付き合うようになった。喧嘩や盗みを働くゴロツキの下っ端をしているような連中だった。誰もが現状に不満を持っていて、家に帰りたがらないろくでなしばかり。クラウスのように片親しかない子供もいて、傷の舐め合いをするようなそこは居心地が良かった。
母は私塾にまともに通わず、夜遅くまで遊び歩いては喧嘩を繰り返すクラウスへ何も言わず、怪我だけはしないでねと心配を口にする。
それがさらにクラウスを母親から遠ざけた。
(……あんな姿になってまで働くだなんて。いやだ、ああいやだ、恥ずかしい)
家に帰ることも少なくなっていたが、ある日、溜まり場と化していた友人の家から追い出されてしまった事があった。原因はその友人が浮気をして、恋人と浮気相手と更にその浮気相手が乗り込んで乱闘騒ぎとなったことだった。刃物まで出てきたので、騒ぎは大きくなり、ついには自警団がやってきた。
自警団は裏稼業の人間たちが組織した、治安維持のために巡回している連中である。捕まったら何をされるかわかったものではない。クラウスやその他の友人たちは散り散りに逃げた。
深夜だったこともあり、行き場所もないので、クラウスは仕方なく、久しぶりに家に帰ることにしたのだ。
とても、寒い夜だった。
数日前から空は曇っていて、凍えるような風が吹いている。外で野宿などしていたら、凍死してしまうだろう。だったら居心地の悪いのを我慢してでも、家で過ごした方がマシだったのだ。
夜中だということもあり、家の中は静かだった。不在かと緊張していた息をホッと吐いたクラウスだったが、奥から何かが落ちるような物音がした。盗人でも入ったのかと、クラウスが叩き出してやるべく息巻いて向かった先に、母はいた。
ベッドに横たわり、苦しそうに呼吸を繰り返している。片手がベッドから投げされていて、床には空のコップが落ちていた。先ほどの物音は、母が何か飲もうとしてコップを落としたのが原因のようだ。
痩せ細った母は顔色が悪く、触れるととても熱かった。何らかの病に罹っていることはわかったが、クラウスでは対処のしようがない。医者を呼ぶ金も持っていなかった。
どうにかしないのに、どうすることもできない。
母は少しすると瞼を震わせて目を開けた。視線がクラウスを捉えると、驚いた様子だったがすぐに嬉しそうに笑って、おかえりなさいと掠れた声で囁いた。
そしてテーブルの方を指さして、ご飯用意してあるから食べなさいねと言って。
母の息は、止まってしまった。
あっという間だった。手を握ることも、母を安心させる言葉も言えず、現実すら受け入れられないまま、永遠の別れとなったのだ。貧民街の人間が死んだら、行き着く先は焼却場だ。共同墓地にすら、埋めてもらえない。
母が死んだことを受け入れられず、朝を迎えたクラウスを見つけたのは、自警団の人間だった。貧民街で感染症が出た場合、街全体に危険が及ぶ。だから死体の処理について厳しく取りしまわれており、クラウスの母の死体もあっという間に焼かれてしまった。もちろん抵抗したが、クラウスは所詮、貧民街の痩せっぽっちな子供にしか過ぎず、何も出来なかった。
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