第四話
オフィスの奥にある、会議室の隣の部屋。扉には銀色のプレートがはめ込まれ、所長室の文字が印字されている。
「所長。少し早いですがよろしいでしょうか?」
栗田先輩がノックをして尋ねる。返事は無いが数秒待ってから栗田先輩が扉を開く。これは我が社の習わしであり、所長室に入る際にノックして無言の場合は入室して良いという合図なのだ。
「失礼します」
「しつれーします」
私と栗田先輩は挨拶をして入室する。バラス張りで広々と感じられる室内には、良く清掃の行き届いたエル字型のデスク、来賓用のソファーとテーブル。この雑居ビルの外観からは想像できないモダンな所長室だが、本棚に詰められた怪しげなタイトルの書物や、まじない用の道具が異質を放っている。
「……栗田君は妖精と聞いた時に何を思い浮かべる?」
背もたれの高い所長用の椅子に腰かけ、私たちに背を向ける形で所長が尋ねる。
「はい。シェイクスピアの真夏の夜の夢に登場する妖精パックです」
「模範的でお前らしい答えだな。実につまらない」
所長は椅子を回転させ、私たちに向き合う。私は所長の僅かに金色がかった黒い瞳と目が合う。
いつ見ても、不思議な”美女”だと思う。黒く艶を帯びた長い髪、白く生気のない肌。端正で華は無いが整った顔立ち。女性に対して年齢不詳という言葉が失礼に当たるのかは分からないが、二十代後半と言われても納得するし、三十代でも頷ける。四十代なのだとしたら驚くが、仮に五十代だったとしても決してあり得ないとは思わない。
「どうした? そんな所に立たれては、こちらが気を使うだろ。早く掛けたまえ」
そう言って所長は立ち上がり、来賓用のソファーの上座側に移動する。身長は決して高くないが、すらりとした体型から実際よりも高身長に見える。真っ黒なフレアワンピースは良く似合っているが、彼女が着ると喪服のようにも見えてしまう。
私と栗田先輩は入り口側のソファーに座り、所長と向き合う。
しばらくの間、沈黙。しかし、所長はその間に栗田先輩を値踏みするように見つめていた。顎を人差し指で撫でる所作は何とも妖艶だが、同時に不気味でもある。
「あの、新しい仕事の件ですよね?」
耐えかねた栗田先輩が口火を切る。すると所長は「ククク」と喉を鳴らすように笑う。
「栗田、米粒が付いているぞ。暗にそれを伝えようとしていたのだが、上手くいかないものだ」
栗田先輩は慌てた様子で顎を触り、米粒を取って口に入れた。ティッシュで包んで捨てればよいものを、汚いし下品だ。
「し、失礼しました」
「まあ、私は気づいてましたけどね」
「だったらここに入る前に教えろよ!」
目を引きつらせ、歯をむき出しにした形相で栗田先輩は私を睨む。その様子がおかしくて、思わず声を上げて笑ってしまう。
「ふふふ。面白いコンビだな。では次の質問だ。妖精に遭遇した経験はあるか?」
「はい、生憎ながら私はございません」
栗田先輩が生真面目に答える。まるで数年前の私……そう、就活生のような印象で滑稽だ。
「だろうな。では雲女君はどうだろう?」
「はい? 私ですか?」
栗田先輩が私の方をちらりと見る。所長が私に質問をするのは稀なのだ。
「どうした? イエスかノーで答えられる簡単な質問だと思うのだが、そんなに悩む事か?」
「ええっと、そうなんですけど……分からないというのが私の答えです」
少し悩んでから、正直に答える。
「おいおい、分からないって事あるかよ?」
「雲女君は子供の頃の記憶が無いのかね?」
「何というか、上手く言えるか分からないんですけど、妖精ってそういう存在じゃないのでしょうか?」
「……詳しく話したまえ」
「ほら、妖精って子供にしか見えないって言うじゃないですか。でも、それを覚えている大人はいない。妖精を見た事があるなんて言う大人は、うちの業界以外だったらヤバい奴ですよ。だから、もし子供の頃に妖精と出会っていたとしても、それを覚えていないんじゃないでしょうか?」
「妖精に遭遇した経験があったとしても、その記憶が失われている可能性がある。だから質問に答えられない。そういう事だな?」
「はい」
私は自信なさげに答える。横目で栗田先輩を見ると、予想に反して興味深げにこちらを見ていた。
「その妖精に対する考えは誰かから教えられたのか?」
「いえ、何となくそうなのかなって」
所長は質問の後、黙って私を見つめていた。かと思うと、突然手を叩いて立ち上がる。
「うむ、面白い。やはりこの仕事は君たちに任せたい」
そう言って所長は自分のデスクへ移動し、積み上げられた書類の中から茶封筒を抜き出し、私たちの前のテーブルに投げ置いた。
「今回の依頼だ。栗田には少し話しをしたが、雲女君もいる事だ。一から説明してやろう」
所長は再び私たちの前に腰を掛け直した。
次の更新予定
妖精を食べた女の子と妖精に食べられた大人たち 秋村 和霞 @nodoka_akimura
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