第三話


 非常階段を上がり、非常口から中に入ると古いビル特有のマイルドな刺激臭が鼻を刺す。かつては建屋の中で喫煙ができた為、壁にその臭いが染み付いているのだと解釈しているが、天井を這うように付けられた黒い染みの事を思うと、それだけが理由だとは思えなかった。


 黒い染みというと心霊現象を思い浮かべる人もいるかもしれないが、決してそんな生易しいものではない。かつて上の階の下水管から汚水が漏れ出した事件の痕である。あの時の阿鼻叫喚地獄は、下手な心霊現象よりも恐ろしいものだった。すぐに配管工事の人が駆け付けてくれたからよかったが、あの冷静沈着な所長が額に汗を滲ませながら、消臭が済むまで在宅勤務を命じた程だ。


 私はガラス戸を引いて、栗田先輩を先に中へと促す。後輩として最低限のマナーである。


 そして、そのガラス戸には堅苦しいフォントで《芽根利心霊相談所》と印字されて、その下には水色のマーカーで『どなたでもお気軽にお入りください』とポップな字体で書かれていた。


 芽根利とは、この土地の名前である。もともとは芽根利川という水源を使い稲作で栄えた農家の集落の事を指す言葉だったが、鉄道が通ると都市開発が進み、現在は人口は十万人前後の芽根利市として市区町村の名前となった。


 海も山も程近く、市の中心部は商業施設や繁華街もあり、更に交通の便が良く来るまでも電車でも都心へも日帰りで往復できるため、近年は移住者が増えている。ほど良い自然に囲まれつつ利便性の高い土地で子育てをしたいファミリー層から、年に数回だけ出社すればよいようなフルリモートの単身者。安い土地、安い家賃に対して人が集まっている事に魅力を感じ、事業で一山当てようとやって来る野心家たち。


 そんな人々が元々の住人達と多少の軋轢を生みつつも、順調に雇用と経済圏を獲得し地方都市として発展を続けているのが、この根芽利市である。


 そんな芽根利の話よりも気になるのは、世にも珍しい心霊相談所という言葉だろう。


 この世には科学では解明できない現象が存在している。そう前置きをして話し始めるのは、詐欺師と我々ぐらいなものだろう。


 その言葉は半分は事実で半分は嘘だ。いや、まるっきり嘘という訳ではないのだから、方便と言わせてほしい。


 そもそもの話、科学とは一体何であろうか? それは、自然現象に特定の法則性を見出し、その法則性を定義したものだ。


 私たちにとっての心霊現象とは、現在見出されている科学という法則性から外れた事象の事である。幽霊や妖怪、魔法や呪い、怪奇現象に超能力、そして妖精といった、通常の摂理から外れた存在を十把一絡げに心霊現象と呼んでいる。


 そんな世の理から外れた存在に関係する仕事を請け負っているのが、私の勤め先である芽根利心霊相談所だ。


 依頼の内容は多岐に渡る。個人から心霊現象に関する相談を持ち込まれる事が大半だが、法人からの依頼も案外多い。社内で怪奇現象が起こり業務が滞るほどに影響が出ている場合や、都市伝説などで噂になり会社のイメージ低下につながっている場合。忌地に工場を建てる際のコンサルティング業務なんかもあった。大手の不動産会社や製造業、総合商社なんかは自前で心霊現象に対処する子会社を抱えている場合もあり、私たちからすると競合他社に当たるのだが、時にはそんなライバル企業から下請けとして調査を行う場合もある。


 オフィスに戻ると、対向式に並んだオフィスデスクに疎らに従業員が座っている。まだギリギリ休憩時間という事もあり、仮眠を取っていたり携帯端末を弄っていたりと思い思いの時間を過ごしている。


 そんな中、一人だけ書類と格闘している中年の男が居た。白髪交じりで黒縁眼鏡をかけた、やや痩せ型のその人物こそ、私が迷惑をかけた営業の畑山さんだ。


 栗田先輩が私の背中を叩く。早く謝ってこいという合図だろう。私は気後れしつつもおずおずと畑山さんのデスクに近づく。


「あの……書類の提出が遅れてすいませんでした」


 畑山さんは私の方に顔を向けると、柔和な表情を浮かべる。


「今回は何とかなるので不問としますが、次回からは気を付けてくださいね。……栗田さんと組まされて雲女君も大変だと思います。彼は仕事はできますし面倒見も良いのですが、あの乱暴な言動のせいでよく誤解されるんですよ。まあ、最近は随分丸くなりましたけど。それでも、彼の事で悩み事があれば、いつでも相談に乗りますから。かくいう私も、ここに転職してきた当初は栗田さんによく……」


「おい畑山ぁ! 客先に行く時間が迫ってるってのに、随分余裕そうじゃねぇか。雲女も無駄話に付き合ってる暇あるならとっとと行くぞ!」


 昼食の間に軽口を言い過ぎただろうか。機嫌の悪い栗田先輩にどやされて、私と畑山さんは首をすくめる。机に突っ伏して仮眠を取っていた白鐘さんが何事かといった様子で顔を上げ、私たちの様子を覗っている。


 私は畑山さんに一礼して栗田先輩の元に戻る。畑山さんは私が栗田先輩の事で悩んでいるのではと気遣ってくれたが、それは誤解である。確かに、暴言や軽い暴力を受ける事はあるし、組まされた当初は色々と思う事はあった。


 それでも、今は冗談を言い合える関係性になったのだし、決して栗田先輩も私を嫌っている訳ではないと考えている。それはそれとして、畑山さんの好意も有難く思う。


 もしも何かあれば畑山さんに相談してみよう。そう思いながら、私は栗田先輩の後について、オフィスの奥の個室の前までやって来た。

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