第一章―――――――――――――――――
第一話
「なあ、エリーって知ってるか?」
昼食の最中、栗田先輩は早々にかつ丼を平らげると、おもむろに尋ねてきた。
「なんっすか? いとしのエリーの話ですか」
私は唐揚げ定食と格闘する手を止め、先輩の問いに答える。このキッチン・ヤマモトは職場の雑居ビルから徒歩三分という好立地なうえに、安価で提供も早い。そのうえ、どのメニューも体育系の大学生向けとしか思えない量が盛られている。まだ二十代前半の私ですら、気を抜くとお残ししてしまいそうだ。
「笑ってもっとベイビー。じゃねぇよ。なんでお前がそんな曲知ってるんだよ」
栗田先輩はそう言って白髪交じりの頭を掻いて、ロックグラスを持つみたいな手つきで水を飲む。もういい歳だというのに、私の唐揚げ定食よりも後に提供された大盛りのかつ丼を既に完食しているのだから、尊敬の念を通り越して血糖値スパイクとか大丈夫なのかと心配になる。
「それで、エリーって誰なんですか?」
私は推しのVチューバ―である阿僧祇ナユタちゃんの、懐メロを歌ってみたという配信でその曲を知っていたが、栗田先輩に言う必要も無いと判断して先を促し、唐揚げを頬張る。
「ちょっとした都市伝説だよ。いや、都市伝説にもなっていない、ただの仮説みたいな話だな。子供がエリーって女の子と遊んだって報告が世界中で挙げられている」
「……エリー何て名前の女の子ならどこにでもありそうですけど? まあ日本人でそのままの名前はあんまりないかもですが、エリコとかエリカって名前の女の子だったら、エリーってあだ名で呼ぶことは多いと思います」
子供がエリーという少女と遊んだ。それが一体何だというのだ。唐揚げを咀嚼し飲み込んだ私は先輩に冷やかな目線を向ける。
「ああ、それだけならなんて事の無い話だ。だがもし、その子供がエリーと出会った家庭に共通点があったとしたらどう思う?」
「栗田先輩だけが気づいてしまった真実ですか? 陰謀論の香りがしますね。バカバカしい。生まれた頃からインターネットがあったZ世代のネットリテラシーを舐めないでください」
「いや、俺が気づいたというか、そもそも俺は所長から聞いたんだが……」
「それを先に言ってください。話を聞きましょう」
別に私は権威に弱いわけでも、長い物に巻かれた訳でもない。ただ、話の内容も聞かずに否定的な態度を取った事を悔い改め、とりあえず詳細は聞いてみようと思っただけである。
栗田先輩は呆れたように咳ばらいをすると、話の続きを語り始めた。
「お前の言う通り、エリーって名前の子供は世界中にいくらでもいるだろう。ユダヤ系では男の名前にも使われるが、俺たちに馴染みがあるイメージだと女性が一般的だな。イリーナやエリナって名前のニックネームの場合もあるし、本名の場合もある」
「随分と回りくどい話をしますね。エリーって名前に思い入れでもあるんですか? あれ、奥さんの下の名前って何でしたっけ?」
「嫁の名前は静香だし、別にエリーと呼ばれてる女と付き合った事も惚れた事もねえよ」
「じゃあ男ですかい? ユダヤ系の男と関係があったとは知りませんでした」
「下世話な勘繰りに多様性を持ち込むなよ。俺のセクシャリティー的はノーマルだ。って、これも今は差別表現なんだったか? まあいいか。この件は次の仕事に関係があるから詳しく話してるんだが、本題に戻っても良いか?」
「そういう事なんですね。セクシャル関係の仕事とは珍しい。どうぞ続けてください」
私は先を促しつつ、最後の唐揚げを半分ほど齧りご飯を頬張る。先輩は「バカか」と私の軽口を一蹴しつつ、お茶を飲み干した。
年下であり部下でもある若造の私に話の腰を折られても、叱るどころか話を続ける許可を得る栗田先輩は、口調こそ悪いが、これほどの人格者は社内はおろか社会を見渡してもそうそう居ないだろう。社内での評判は決して良くないが、そんな栗田先輩に甘えている自覚はある。しかし、改める気はあまりない。時と場所と場面は最低限弁えるが、そのうえで栗田先輩もくだらない掛け合いを楽しんでくれている……のだと勝手に思っている。
「日本におけるエリーの目撃報告は全部で四件。最初は一九八四年の横浜市中区。宝石商を営む家庭の奥方が日記で娘がエリーという子と友達になったと記していた。次に一九九九年に東京の世田谷。これは不動産会社の社長が懇親会で孫の友達という事で名前を挙げたらしい。同年の大阪。これは先の不動産業の社長の部下が、当時にしては珍しいブログで息子の成長日記をつけていたらしく、その中に記載があった。そして最後がここ芽根利市だ」
「さっきあだ名の話をしましたけど、昔の友達にエリーって呼んでた子がいましたよ。あと、大学時代の友達の彼女もエリカちゃんって子でエリーって呼ばれてましたね。はい、これで合計六件になりました」
皮肉を交えて最後の一口を食す。何とか今日もキッチン・ヤマモトのランチに打ち勝つことが出来た。
「まあ聞けよ。この四つの家庭には最後の一つを除いて不気味な共通点がある。一つは家庭の不和が囁かれていた事」
「大阪の人は子供のブログやってるのに、仲が悪かったんですか?」
「さあな。これは所長から指示を受けていた中森が調べた情報だから、何とも言えないが、決して子供を溺愛している家庭と円満な家庭は共通集合ではないって事だろう」
共通集合って何だ? と思ったが、どうでもいい事だと思い自分のグラスに卓上のお茶を注ぐ。ついでにさっき飲み干していた栗田先輩のコップにも注いでおく。
「話を戻すが、さっき挙げた四つの家は、最後の一つを除いて家庭が崩壊している」
「それはさっき聞きましたよ。家庭が不和だって……」
「違う。一家全員が死んでるんだよ。それも変死体でな」
私は驚きのあまり思わず手元が狂い、注いでいた麦茶を栗田先輩の手にぶっかける。テーブルにも大量の麦茶を注いでしまう。
「ちょいちょいちょーい!」
「ああ、すいません! 服に掛かってませんか?」
流石の私も慌てて、お手拭きでテーブルの上を拭く。栗田先輩は手を拭きながら股座の辺りを見て、少し悲しそうに「大丈夫」と答えた。たぶん、テーブルから流れた麦茶がちょうど良い塩梅でズボンを濡らしたのだろう。傑作だが下手に突いてスーツのクリーニング代を請求されては堪らないので、心の中だけで笑う事にする。
「それで、変死体ってどういうことですか?」
「それも奇妙な話なんだが……全身に穴が空いていたらしい」
「穴、ですか? いわゆるハチの巣みたいな?」
全身に穴が空いた死体がありました。そう聞いても、あまりイメージが沸かない。多分それは私の想像力が欠如しているからではなく、おそらく殆どの人は同じように具体的な姿を想像できないだろう。精々絞り出せるのは、ドラマやアニメで銃を持った悪党が啖呵を切るときに使う「ハチの巣にしてやろうか!」というベタなセリフだけだ。
「いや、銃創みたいな直線の傷ではなかったらしい。それよりは、何というか……全身をウジ虫に食われたみたいな、不規則に食い散らかされたような傷だったそうだ」
「へぇ。一家全員が腐乱死体だったんですか」
「いや、いずれの件も発見が早かったからか腐敗は進んでいなかった。いや、一件だけ蛆が沸いていた報告もあったが、それが直接の死因である傷とは別の要因だったみたいだ」
私の注いだ麦茶に口を付けながら、栗田先輩はしまったという表情で周囲に目を向けていた。私もつられて見ると、他の席に座っているサラリーマンたちから、無言の抗議の声が聞こえてきた気がした。
「……続きは店の外で話すか」
「そうですね。ゴチになります!」
栗田先輩はご高齢のおかみさんに向かって「御会計。別々で!」と声を上げた。
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