特急サフィール踊り子号 失踪事件

流々(るる)

第一話 冬の陽光

 トンネルを抜けるといきなり水平線が広がっていた。

 波間に反射うつる冬の柔らかな陽ざしがあちらこちらで絶え間なくきらめいている。

 この季節の太平洋らしく、この日は雲一つない真っ青な空がどこまでも伸びていた。それに比べて海は控えめな色合いを見せている。

 

 伊豆へと向かう特急サフィール踊り子号にある八つしかない個室。その一つでは車外の晴れやかな空気とは一変した、重い時間が流れていた。

 大きな車窓越しに差し込む光に少し目を細め、淡いグレーのスーツに身を包んだ恰幅の良い中年男性がえんじ色の蝶ネクタイを右手でなぞる。

 その視線の先には革張りの茶色いソファに腰を落とす若い女性の姿があった。

 流れ去っていく美しい景色に目をやることなく、両手をテーブルに乗せた彼女は長い黒髪とともに頭を垂らしている。


彩乃あやの……どこにいっちゃったの……」


 左手に持っていたスマホを見つめ、もう何度目になるか分からない小さなため息をつく。

 そんな彼女の肩にやさしく手を置き、男性が穏やかな声で語りかけた。


結衣ゆいさん、すぐに車掌さんが戻ってきます。そうすればすべて分かりますから」


 口元には柔和な笑みを浮かべながら、彼の瞳はうつむく彼女の横顔に向けられていた。


 *


 東京駅の九番線に青緑色の光沢を帯びた車体が入ってきた。その姿を写真に収めようと待ち構えていた人たちから、シャッター音が一斉に響く。

 六号車と書かれた案内の下に立つ蝶ネクタイ姿の中年男性も、徐々に速度を落とす車両に目をやりながらかぶりを振り、ひとりごちた。


「サフィールとはフランス語でサファイアのこと。この艶のある塗装は宝石を思わせますがサファイアにしては緑が強すぎませんか」


 そこへ目を輝かせながら近づいてくる若い女性がいた。

「あの……探偵の丸田さんですよね」

「いかにも。丸田寅之助です」

「わぁ、やっぱり。いつもテレビで観ています。一緒に写真を撮ってもいいですか」

「どうぞ」


 荷物を持ち替え、背筋を伸ばして立ち直した丸田だがポッコリとしたお腹は隠しようがない。

 それを気にするそぶりも見せずに蝶ネクタイへ右手を添え、口角をあげてポーズをとる。

 彼の横に立った女性は左手をまっすぐ伸ばし、スマホの画面を親指で触れた。画像を確認すると「ありがとうございました」と頭を下げて、雑踏にまぎれていく。

 丸田は列車へ向き直り、まぶたを閉じて蝶ネクタイに触れた。


「肩より長い栗色の髪、灰色タートルにベージュのハーフコート。バッグはコーチ。デニムのスカートにグレーのNBニューバランス


 記憶の答え合わせを終えると満足そうに微笑んだ。


『九番線、十一時発 特急サフィール踊り子一号の乗車扉が開きます』


 ホームにアナウンスが流れ、並んでいた人たちが車両のなかへと消えていく。丸田もそれに続いた。

 鮮やかな外観とは打って変わり、車内はおだやかな暖色系で統一されていた。座席は進行方向に向かって左側、つまり海側が二列、幅広な通路を挟んで右側が一列に並んでいる。

 右側の前から三番目、一人掛けの座席に丸田は荷物を置いた。シートは濃淡のベージュで不規則な横縞模様が描かれている。

 淡いグレーのジャケットの前ボタンをすべて外し、持ってきた茶色い革鞄のチャックを開けてのぞき込む。

 A四版の薄いファイルが二冊、その奥に手を入れて取り出したのはのど飴だった。それをジャケットのポケットに入れると、革鞄を持ち上げて荷物棚に置いた。


「この棚もガラス製とは。こだわりが感じられますね」


 見上げたガラス棚の先にある天窓から望む空は青い。丸田はそのまま車内を見渡した。

 ほぼ満席の車内で、乗客たちはそれぞれの座席に落ち着き始めている。彼もシートの上に置いていた白いレジ袋と入れ替わりに腰を下ろした。

 折りたたみテーブルを手前に引き倒して袋を乗せる。中から取り出したのは二個のおにぎりとお茶が入ったペットボトルだった。それをテーブルに並べて窓の外へ目を向けると、車両が滑るように動き始めた。



 最初の停車駅である品川駅を出発して間もなく、前方のドアが開いた。濃紺の制服を身に着けた車掌が、帽子に手を添えて軽く一礼をする。 

 通路をゆっくりと進みながら左右に首を振り、座席番号を確認して手に持ったノートパッドへタッチペンで記録していく。

 三列目を通り過ぎようとしたとき、車掌が足を止めた。ほんの少しの間をおいて半歩下がり、車窓を眺めていた丸田へささやくように声を掛ける。


不躾ぶしつけではありますが、丸田先生でいらっしゃいますか」


 丸田は首を傾けて車掌を見上げた。胸の名札には西村と記されている。


「いかにも。丸田寅之助です」


 彼が口角をあげて軽く会釈すると、西村はほほを紅潮させて鼻の穴を膨らませた。


「私、先生の大ファンなんです。『地蔵峠殺人事件』から『E邸殺人事件』、『月影村殺人事件』など、どの事件も新聞や雑誌の記事を読み漁りました。

 なかでも五年前の『ペンション香草かぐさ殺人事件』、俗にいう『真実の境界線』がとても心に残っています。あんなにせつない謎解きを、私は他に知りません」

「あの事件ですか……。あれは私にとっても思い出深い。決して功を焦ったわけではありませんが、もっと慎重に対応していれば死者を一人減らすことができましたから」

「いえいえ、あれはきっと天罰だったんですよ。それに――」

「お仕事はよろしいんですか?」


 丸田は車両の後方を見やり、西村に目を戻した。

 彼は慌てて、帽子に手を添えて頭を深く下げる。


「失礼いたしました。丸田先生が乗車されているからと言って、なにか事件が起こることもないでしょう。それでは良い旅を」


 去っていく車掌から目を離し、丸田は流れていくビル群を眺めていた。

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2025年12月10日 06:00
2025年12月11日 06:00
2025年12月12日 06:00

特急サフィール踊り子号 失踪事件 流々(るる) @ballgag

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